「金婚式」

 

 昨日3月6日、妻千代子の誕生日75歳。来る4月7日、私の誕生日76歳。翌日4月8日、結婚50周年金婚式。二人とも元気で、先ずは Happy, Happy.

 

2015年3月7日  稲垣 彬  

            


    『アッペ』にまつわる二律背反に寄せて。     大澤 忠嗣

 

医師の免許を取得して生業を医業に定めた時から丁度半世紀、そして当初自らの専門に選んだ外科の臨床医の道を辞してより四半世紀が過ぎた。元来、勉強は得手ではない上にメスを執らなくなって文献を探す機会等も殆どなく、最近の消化器外科の動向についてもすっかり疎くなっていた処、阪大の免疫制御学教室の竹田潔教授達が昨年夏に発表された『虫垂リンパ組織は大腸に動員されるIgA産生細胞を作り出す。』という題目の論文が偶々目に入り興味を惹かれた。著者達は免疫系が発達してない状態の無菌マウスを用いて、虫垂を切除したグループとそれを行わないグループに分け、夫々に腸内細菌を定着させて大腸における免疫系の発達を調べた処、IgA産生細胞数の増加が前者に於いては後者に比べて著しく阻害されるという結果が得られたという。IgAが腸内の細菌叢のバランス維持を担うことは知られる処であって、著者達も虫垂切除グループでは大腸のIgA産生細胞数の増加が阻害せられると共に、大腸の腸内細菌叢のパターンが明らかに変化するという現象も同時確認したと述べている。近年腸内の細菌叢の変化は腸管の感染症に対する感受性を亢進させ、更に炎症性の腸疾患の発症の起因となると考えられるに至っている。即ち、IgA産生細胞の増加が阻害されると腸内の細菌叢のバランスが崩れて、結果的に炎症性の腸疾患の発症頻度が高まると考えられているのである。長らく虫垂突起は人体にとって必要な組織とされるよりは、むしろ無用の長物と見なされ、その除去を問題視することはあまりなかった。そうした環境の下で、著者達は虫垂突起の必要性を提言し、その切除、除去についての再考慮を喚起しようとしているのである。

さて半世紀前いわゆる『ノイヘレン』として自ら所属することを決めた外科医の社会で、その業界言葉で言うところの『アッペ』即ち虫垂切除術は正に外科への入門とも言うべき手術技術であった。入局後2〜3ヶ月して地方の関連病院へ赴任し、そこでの2〜3年の間に三桁数の手術症例を経験して大学の研究室へ帰る、というのが当時の外科医の当初の修練コースであった。そして都合よいことに、その時代にはそうした修練課程を充たすに足りるだけの数の『アッペ』の症例が間違いなく存在していたのである。”over surgery“を嫌疑される例が皆無とは云えなかったとしても、問診と触診で手術適応が決められ、開腹を行ってみると、回盲部には既に膿瘍形成が見られる等と言うのは日常茶飯事であったし、地方病院での外科の日々と言うのは午前中外来勤務、午後は一例以上、時には三例とかの『アッペ』、というのが稀ではなかった。自分は大学院生.として外科へ入局したために、継続的な関連病院への赴任はなく、大学病院の手術の最下位助手を命じられるのが日常で、副手として入局して地方へ赴任した同輩達を羨ましく思ったこともあったが、病棟勤務の合間に一ヶ月とか二ヶ月の単位で関連病院へ ”short relief  ” 派遣の機会が与えられ、そこで部長先生が手術症例にさぞ飢えているだろうと、優先して執刀させて下さったのを今更乍ら有難く思い返している。八幡浜、鳥取、豊岡等の病院での駆け出し外科医時代の懐かしい思い出である。

時が流れて、その間に全国津々浦々で急性虫垂炎という疾患の症例は激減してしまった。今や『アッペ』に長らく遭遇していないという外科医だって珍しくない時代になっている。その要因が日本人の食生活の変容に由来しているのか、それとも他に別の何かがあるのか、目下確立された定説はない。そして急性虫垂炎症例が激減したその一方で、日本人の間に、潰瘍性大腸炎、クローン病、腸管ベーシェットという類の炎症性腸疾患が著しく増加してきているのである。しかも、これらの疾患に腸の免疫機構が関連するということに異論はないとされている。ここにおいて不思議の思いを禁じえないのは、そうした潰瘍性大腸炎、クローン病、腸管ベーシェットという類の炎症性腸疾患症例が自分達が日々『アッペ』に埋没していたあの時代には極めて稀有であったにも拘わらず、世に虫垂切除の手術症例が激減した昨今に至って発症頻度が高まっているという現実である。虫垂切除例数と炎症性腸疾患の発生の頻度の関係が、過去においても現在においても現状の正反対ならば正しく整合すると考えられようが実情は明らかに二律背反という他にない。竹田教授達の業績に懐疑の念を覚えることもないまま、今後この皮肉なパラドックスが如何に解きほぐされていくかを、唯々見守って行こうと思っている。

 

『アッペ』にまつわる今一つの思いがある。自らが臨床消化器外科に専ら従事したのは昭和の終期から平成の嚆矢の略二十年間である。その前半はまだまだ急性虫垂炎の症例が外科医の日常の重要業務として扱われていた時代であった。当時自分が勤務する病院では手術症例が自院の外来で発生したものよりも近傍の開業医院からの紹介症例の方が多い、という特徴があった。懇意の開業医の先生達が自分の外来診で『アッペ』の疑いの症例に遭遇すると、電話予告の上患者を対診させ、適応が決まれば手術をするというシステムになっていた。そうした場合、例えばA医院からの紹介例は常に的確に診断されてくるから、患者の来る前から手術場の段取りを始めても殆ど無駄ではないという事例がある一方で、B医院紹介例に対しては、自分の医者としての判断から不本意な手術はしたくない思いと、症例紹介を頂いた先生に非礼な応対は避けたいとの思いで悩む事があった。「とりあえず薬で散らして一日様子を見ましょう。」と患者に対応し、翌日の再診の後「何とか保存的に処理できました。」と紹介医に報告して一件落着、となることが頻々あった。「あーそれは良かった。ありがと。ありがと。」と天真爛漫に感謝され安堵するのだったが、こういったやりとりが一度ならずというのは悩ましかった。仕事が早く終った帰路などに経過報告と紹介のお礼に訪問してみると予測外の光景に相遇したものだ。A医院はひっそりと静かで、患者も多くなく地味な開業の印象だが、B医院では、溢れんばかりの患者と医者が極めて親密に信頼を寄せきっている情景が見られた。B先生の人の良い天真爛漫の対応が患者を引き付けている、という印象である。軽々しくA医院とB医院とを比較する等は独善的で失礼すぎることかも知れない。けれども自分はそうした過去の見聞に基き『医者の腕前と患者の評判とは相関しない。』という思いを払拭しきれない。これ又『アッペ』にまつわる『二律背反』の一事例といえると思うのである。さて患者の医者評価のみならず、医者と医者の間の評価に関しても、必ずしも的確ではないことが頻々あると思う。評判の権威とされる外科医のメス捌きをみせて貰い、こんな回り道で荒っぽいことはしないでおこうという印象を得たこともあるし、若輩の外科医が思いもかけぬ鮮やかな段取りをした手術をみせたのに感動した事もあった。世の中には、人にも物にも外様と実際の価値とが不一致という事が時にあったり、時になかったりするのが、たまらなく面白いと思う。値打品に扱われていたものが実はガラクタであったり、一見大した物には見えぬものがお宝であることが判ったりという事もある。人間も同様、所謂「出来物」とされる人々というのも、本当に力量のある人と、それがあるが如くに見えるだけの人のゴチャマゼで、すべからく『真物』に見えていても実は、『真物』と『偽物』の混在であって、しかもそれが容易には識別出来ないのがこの世の習いの様である。加えて、そのえせ『出来物』がバレることもなく終生を通すこともあれば、途中で馬脚が出てしまうこともある、という皮肉な一面があるのも誠に面白いと思う。ここに於いて我が人生の来し方を省みてみるに、『出来物』に見誤られたことは、先ずなかった。所詮『ホンマモン』ではなかったということだろうが、さりとていわゆる『パッチモン』でもなかったと思いたい。いうなれば『ハンパモン』の渡世を歩んで来て、ここに至ったというところだろうか。

 


写真1


  エルサレムの思い出 (加藤浩子)

 

 麻酔科医として年中多忙だった現役時代、 毎年夏休みを兼ねて欧州の学会へ出席するのが楽しみでした。いつも一応演題は携えていたものの観光目的もある気楽な一人旅でした。

 1994年はイスラエルのエルサレムで欧州集中治療学会があり、エルサレムは一度訪れてみたいと思っていたので、この学会を選択しました 。当時はイスラエルの出入国は厳しく、フランクフルトから乗り換えるとき拳銃を持った兵士?に誘導されてカウンターへ行き係官から数多の質問を受けた挙げ句スーツケースの中身を全て出して点検され、フイルムの入っていないカメラもシャッターを押すように指示されました。何時間かかろうが念入りに点検するという姿勢に、定刻に飛行機がとぶ筈もなく前途への不安がつのりました。

 ベン・ガリオン空港からのタクシーは学会を通じて予約していたので、豪州のドクターとオーストリアのリンツからのドクターと3人で乗り合うことになりました。「リンツと云えばモーツアルトの交響曲があるね」と当たり障りの無い会話をしているうちに、男性2人は学会近くのホテルで下車、私はダウンタウンのホテルだったので最後となりました。泊ったホテル(写真1)は典型的なユダヤのホテルで、オスロ合意の翌年だったのでパレスチナとの争いは比較的落ち着いていたものの、数年後にパレスチナのテロで爆破されたようです。

 エルサレムは全体的に貧しく雑然とした街でしたが、城壁に囲まれた旧市街は宗教により4つの住民区に分かれ一層混沌としており理解を越えるものがありました。パレスチナ人地区のベツレヘムへは道路も全く舗装されてなく、バスに乗っても砂埃で窓の外が見えないほどでした。観光の最大の目的は死海とマサダ要塞で、そのために水着と運動靴とサングラスを持参、当日はペットボトルの水も必須アイテムでした。死海へ行く途中のバスから砂漠に遊牧するベドウインのテントにタンクローリーが水を届けているのを見て妙に感心させられました。死海(写真2)から対岸に見える山並みが白く輝いて美しく、あれはヨルダンだと教えられ夢の国のような印象をうけたものです。死海は水着と靴で入って浮くことを体験して納得、マサダの要塞(写真3)は炎天下砂地の山を懸命に登り山頂に辿りついた時にはヘトヘトで、ガイドが話すユダヤ戦争とマサダ陥落に関する英語の説明は殆どアタマに入らない状態でした。エルサレムには不思議な魅力があり、折にふれ懐かしく思い出されます。

 イスラエルは出国のときも厳しく、荷物の点検は入国時に比べ簡単だったのに質問が大変でした。若い女性と大柄な中年男性が押し問答しているので、多分男性の方が係官だと思っていたら逆で女性の方でした。私は学会には1日だけ出席、2日観光し帰路ミュンヘンに2泊を予定していました。係官の若い女性は「何で学会の途中で帰り、しかもミュンヘンに何の目的で立ち寄るのか」しつこく訊問され閉口しました。なんとかミュンヘン行きの飛行機に乗せてもらい、ミュンヘンに着いたら雨混じりの小雪、半袖で過ごしたエルサレムの身には震え上がりました。


写真2

写真3

1.雲海

  写真を撮って元気になろう    
栗原 眞純


 フォトセラピーという言葉が認知されてきました。要するに写真には二つのセラピー効果があるということです。一つは、絵画、彫刻、音楽などと同様に写真に触れ、鑑賞することで癒やし効果が期待出来るというものです。

 二つ目は、野山や海、街に出かけて写真を撮ることにより肉体的、精神的な爽快感が得られ、元気が出てくるというものです。私もセラピー効果のある写真を、セラピー効果を感じながら撮りたいと常々考えています。

 今回、39会文集を、たいへんな手間と費用のかかる、これまでの紙媒体でなく、ホームページ上に作ることに皆様の賛同を得、そのホームページ作成を小生がさせていただくことになりました。

 ホームページを使うと、簡単に写真が載せられるので写真付き文集にしようと考えてお願いしたところ、大多数の方が写真を付けて文集原稿を送って下さいました。予想に反してホームページスペースが大きかったので、小生も文集出来上がり直前になって残りのスペースを埋めようと40枚ばかりの写真を置かせていただきました。

 そして、それぞれの写真についてのエピソードを簡単に書いてみることにしました。少々長くなるかもしれませんがしばらくおつきあい願います。中には年賀状などに使ったものがあるかも知れません、お許し下さい。


1.雲海

 美しい雲海が見られるのは11月頃、それも良く晴れていて適度の湿度もあり、風が無く出来るだけ寒い早朝、日の出前です。
 滋賀県と福井県の県境で太平洋と日本海との分水嶺でもある朽木、小入峠からの眺めです。カーブが多く狭い雪道を4駆で上り下りしながら怖々40分、徐々に明るさを増してくる中で撮影を楽しみました。



2.春を行く

 滋賀県近江八幡、水郷の風景です。「大塚薬報」の表紙を飾ったのでご存知の方が居られるかも知れません。



3.至福の時

 秋、自宅近くの大銀杏の美しさに見惚れ、感嘆しながらいつまでも眺めているお遍路さんでした。



4.雪の湖北道

 滋賀県高島町のメタセコイア並木道です。湖北は雪の多いところです。雪が降る夜半から待ち構えること4回目にしてやっと思い描いていた雪景色が撮れました。



5.初夏の装い

 4.と同じ場所を新緑の5月に撮影するとこのようになります。

 この写真を見られた方から、「何とも気持ちのいいストレートに表現され素敵な写真です」、「いやぁ これは気持ちいいですねぇ むっちゃ清々しい気持ちになりました」、「私も何度か行ったところですが こんなに奇麗だったのかと不思議な思いです」、「行ってみたくなりました」などのメールをたくさんいただき、撮り屋冥利につきました。

 1939年に京大理学部教授、三木茂博士により新種の植物化石が発見されてメタセコイアと命名されました。当時、世界の化石学者の間では、メタセコイアはジュラ紀末(約8千万年前)に地球に現れ、およそ100万年前に絶滅したと考えられていました。

 しかし、1945年、中国四川省に現存することを南京大学の鄭博士が三木教授の文献をもとに論文発表されました。その種子を元にして育てられたメタセコイアは「生きた化石」と呼ばれて世界中に広がって行きました。

 日中戦争のさ中にあって日本と中国との間でこのような学術交流があったことは驚くべきことです。



6.富士霧氷

 私の好きな世界一美しい山、富士です。真冬の日の出前、零下15度の中で撮ると霧が凍ってこのような写真になります。



7.うまく撮ろうねお姉ちゃん

 満開の芝桜を前にして何かポイントになるものが欲しいなー、と思っていたら、うまい具合に横から可愛い姉弟が入り込んできてくれました。富士撮影の先駆者、岡田紅陽氏(1895-1972)が撮影した千円札の裏の富士と同じ方角から撮ったので富士の形が殆ど同じです。



8.藍より蒼く

 ネバダ州タホ湖で見たUFOです。彼らエイリアンの高度な技術からすれば重力を制御し、雲の形に姿を変えて地球見物をすることなど簡単なことなのでしょう。



9.霧のサンタモニカ

 北米西海岸は霧で有名です。夕刻サンタモニカ海岸を散策中の全く偶然のショットです。赤いフリスビーがポイントです。



10.ボゴタのオールドカー

 1970年頃の南米コロンビアでは新車の輸入が制限されていました。街はさながらオールドカーの博物館のようでした。



11.ヴェネツィア

 サンマルコ広場近辺から小さな海峡を隔てて眺めたサンジョルジョマッジョーレ教会です。誰でも眺める風景ですが、教会の名前はなかなか覚えられません。名物のゴンドラをあしらいました。



12.彼岸の頃

 通勤途上に出会った美しい風景です。この雲を逃してなるものかと狭い道路わきに強引に駐車し、大急ぎでわずか200万画素しかない初期のコンデジカメラで撮影した6枚の中の1枚です。



13.満開のソメイヨシノ

 満開のさくらは誰でもどこででも簡単に撮れるのですが、私にとっては最も撮影の難しい被写体の一つです。



14.逆光撮影と順光撮影をMIXして撮影すると

 京都山科の勧修寺境内にある氷室池に映り込んださくらに焦点をあわせて逆光気味に撮影したものです。順光撮影になった水に浮かぶ蓮の葉と相まって不思議な写真になりました。



15.清滝の秋

 トンネルを抜けると、そこは緑と紅葉の別世界でした。かつて与謝野晶子が清流や紅葉を愛で、歌会を開き、徳富蘆花が思索の日々を過ごしたという宿も周囲の風景によく溶け込んでひなびた雰囲気を醸し出していました。運が良ければトンネルの中で美しい幽霊に逢えるとか・・・・



16.バラの風情

 3千万年以上も前の化石に多数見られるというバラ、私も子供の頃から大好きだったバラの花です。父が急逝する寸前まで、寸暇を惜しんで慈しみ育てていたバラ、高校2年生の時に思い切って片想いの女生徒にプレゼントした思い出の花でもあります。



17.私が主役

 周囲の花々を圧倒するかのように力強く咲き誇っています。



18.ダリア

 世界中に3万種類以上もあると言われるダリアの一種です。「ガーデンミュージアム比叡 花の庭」で撮影しました。撮影時に対象をメモする習慣の無い私は後になってこの花の名前を調べるのに苦労しました。「花の庭」のガーデナーさんに電話で聞いてデコラティブ咲き種の「リド」という名前であることが分かりました。



19.飛び立つ

 鳥たちも私の好きな被写体の一つです。特に翔んでいる姿など、二度と同じような写真が撮れないのが難しくまた面白いところです。鳥の写真をいくつか続けて見ていただきます。


20.虹

 滋賀県草津市は遠くシベリアから飛来したコハクチョウが越冬する南限の地です。虹の向こうに今は無き大観覧車が見えています。この観覧車は、2014年7月、ベトナム ダナン市のアジア公園への移設が完了し、ダナンのシンボルになっています。高さでは現在世界で5番目なのだそうです。



21.白鳥が舞う

 北海道、釧路湿原の空を舞うオオハクチョウです。このようにバランスよく白鳥の群れがファインダーの中に一度に入ってくるのは希なことです。



22.私は芸術家

 ブリュッセルだったとおもいますが、定かではありません。流れる小川の両側には色とりどりの建物が並んでいました。その色が映り込んだ川面を一羽の白鳥がいかにも得意げにきれいな波模様を描いて行きます。



23.愛の交歓

 これも釧路湿原、美しくて気品があり、絶滅危惧種でもある丹頂を見ようと世界中から多くの観光客が訪れます。寒い朝、丹頂が吐く息が白く見えるのですが、この写真ではその様子をしっかり捉えられなかったのが心残りです。



24.丹頂飛翔

 夕焼けをバックにしてタンチョウファミリーが山の端ぎりぎりを通過していく瞬間をとらえることができました。



25.湖北の風景

 湖北、滋賀県高島町で見た白鷺です。遠景はびわ湖に浮かぶ竹生島です。



26.目下ラブラブ中

 上野動物園に次いで古い京都市動物園では殆どの鳥獣が檻の中で飼われていて写真撮影が困難です。この日はたまたま鳥舎を掃除するためにオウムたちが外へ出されていました。良く喋るオウムがちゃんと自分の意思をもって喋っているのだということが分かって来ました。



27.こんにちは〜っ

 滋賀県草津びわ湖畔、左手にパンくずを持ち右手にカメラをかまえて連写しました。めがねは必需品です。



28.驚異の習性

 ケニアで運転手兼ガイド付きのジープを雇い、一週間一人旅をしました。川岸で待つこと5時間、運良く数千、数万頭ものヌーが、たくさんのワニの待ちかまえるマラ川を渡るシーンに出会えました。



29.サバンナに陽が落ちる

 これもケニアのサバンナを走行中にジープの屋根から頚を出して撮影したものです。ハゲタカが2頭休んでいます。ジープから降りるのは危険と密猟防止のため厳禁です。



30.南国の朝

 この美しい風景を撮るために朝5時前に、彼の地を良く知るタクシー運転手にホテルまで迎えに来てもらいました。ベトナムの女性は働き者です。



31.よっ お二人さん!

 何も言わないでカメラを向けた瞬間にこんなに素晴らしいポーズをとってくれたお二人さん、ありがとう。幸せを祈ります。背景を見れば分かりますね。道後温泉本館です。



32.アマルフィの夏

 古代ローマ時代から発展してきたイタリア屈指のリゾート地である世界遺産アマルフィ周辺の見事な景観です。外敵の侵入を防ぐため海岸線の切り立った断崖に迷路のように入り組んだ街が造られました。



 このあとの33.以降は私が一番、撮影が難しいと思っている女性写真です。


33.ママと一緒に旅行中

 セントルイス中央ステーションでの微笑ましい風景です。みんなで何人いるか分かりますか?



34.アリカンテのソフィー

 はち切れんばかりに健康的なお嬢さんでした。フランス西部、ブルターニュ半島西端のブレストからバカンスを楽しみにやって来たとのこと、快く撮らせてもらうまでには、かなりのムンテラが必要でした。言葉は何語でもいいのです。気を悪くさせないように撮りたいという気持ちが伝われば。



35.天使の微笑み

 イタリア中部をレンタカーでドライブ中、何という街だったか忘れましたが、聖なんとか教会のお祭りで、着飾った子供たちが私達の目を楽しませてくれました。その中で、「この子だ」とひらめいて、これもとびきりの美人だったお母さんに頼んで、丁度人が居なくなった広場中央に来てもらって撮らせていただきました。



36.シルケジ駅にて

 イスタンブルのシルケジ駅は、かつてオリエント急行の東の終着駅でした。失礼をも顧みずカメラを構えて近づいていくと、驚いたことににっこり微笑んでくれました。さすが親日国のトルコならではの経験でした。



37.まなざし

 京都三大祭りの一つ、時代祭でのスナップ写真です。祭りの行列が平安神宮を出発する前に報道陣に紛れ込んで撮影しました。



38.美しい人

 京都先斗町の人気芸妓の市さよさん。とある撮影会での作品です。この方はきれいなだけでなく、とても気さくでユーモア溢れる方でした。



39.古都の舞

 今様は、平安末期から鎌倉前期にかけて貴族・武士・宮廷の間で大流行した歌舞です。格調高い白拍子の演技を彷彿とさせる姿をご覧下さい。後で分かったのですが、実はこの方は当時、私が校医をしていた高校の生徒さんでした。



 「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな」


 「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に 逢はで果つべき」



40.舞妓さんに会える街・京都

 最後にもしも今回の39会に賛成者が多かったらお呼びしようと密かに考えていた祇園甲部の超売れっ子舞妓、紗月さんが花見小路をお座敷へと向かう姿です。

 舞妓さんは5年もすると舞妓を卒業して芸妓になられます。そのことを襟替えと言います。

こんなにすてきな妓の舞を見てお喋りしながらお酌をして貰えるのだったら賛成すれば良かった。と思われるかも知れません。

京都花街には芸・舞妓さんがたくさん居られますが、写欲をそそられるような妓には残念ながら滅多にお会いできません。



 これでおしまいです。もしも、もっと見てやろうという奇特な方が居られましたら、1999年に作成、以来毎年更新しながら1,500枚以上の写真が置いてある、「くりちゃんの写真ギャラリー」をクリックしてご覧下さい。小生が撮影した写真だけでなく、恩師であり、名カメラマンでもあった佐野 晴洋先生が撮影された写真や、京都に来られたときのダイアナ妃の写真なども見ることができます。


2.春を行く

3.至福の時

4.雪の湖北道

5.初夏の装い

6.富士霧氷

7.うまく撮ろうねお姉ちゃん

8.藍より蒼く

9.霧のサンタモニカ

10.ボゴタのオールドカー

11.ヴェネツィア

12.彼岸の頃

13.ソメイヨシノ満開

14.逆光と順光

15.清滝の秋

16.バラの風情

17.私が主役

18.ダリア

19.飛び立つ

20.虹

21白鳥が舞う

22.私は芸術家

23.愛の交歓

24.丹頂飛翔

25.湖北の風景

26.目下ラヴラヴ中

27.こんにちは〜っ

28.驚異の習性

29.サバンナに陽が落ちる

30.南国の朝

31.よっ お二人さん!

32.アマルフィの夏

33.ママと一緒に旅行中

34アリカンテのソフィー

35.天使の微笑み

36.シルケジ駅にて

37.まなざし

38.美しい人

39.古都の舞

40.舞妓さんに会える街・京都


 

「想い出すままに」    小林國男

 

京大医学部を卒業して50年、何とか現役を続けながら社会に貢献出来ている幸せを実感している昨今です。

横須賀米軍病院でインターンの後、外科の大学院に進み、米国留学後に東京の帝京大学医学部外科に就職し、いろいろな事情で救急医学の道に進み、外傷外科医として日本外傷学会を創設するなど、それなりの仕事をしてきました。その間の顛末については、2年前に寄稿の依頼を受けたのを機に「外科から救急医療へ」と題して「京都大学外科学講座 歴史書」にまとめております。

本稿では、最近身近で経験した出来事について、気の向くままに書かせていただきます。

 

 何といっても私にとって大きな出来事は丁度4年前の東日本大震災です。私が帝京大学に救命救急センターを立ち上げた35年前に私を支えてくれた麻酔科のN医師から2年越しの要請を受けて、彼が経営する病院を見学がてら遊びに行ったのが、平成23年3月11日のことでした。福島県浜通りの南端に位置する60床ほどの小さな病院で、屋上から太平洋が見晴らせる海に近い立地です。病棟で看護師と話し込んでいたとき(14:36)、突然、これまで経験したことのない大きな地震に襲われました。幸い建物の倒壊は免れ、患者、医療者ともに負傷者はありませんでした。院長のN医師が看護師をまとめて患者を2階に移動させていた間、私が外から来る患者の対応に当たりました。津波の襲来が不可避の状況でしたので、屋上へ避難して太平洋を眺めていたところ、水平線が目に見える程に上昇したと思うと、4〜5メートルはある防波堤を楽々と越えて津波が襲ってきました。命の恐怖を覚えた一瞬でしたが、幸いなことに病院が盛り土の上に建ててあったので、1階部分が浸水した程度で、患者にも病院関係者にも大きな被害はありませんでした。後でわかったことですが、数キロ北に位置する小名浜港では、ほとんどの建物が全壊で大きな船が陸へ打ち上げられて道路を塞いでいました。海岸線の地形が明暗を分けたようでした。

 地震で問題となるのは電気、水道、ガスのインフラですが、幸い電気は通じておりテレビを視ることができました。そこでわかったのが原発事故の事実でした。爆発の程度と風向きによっては、病院は放射線の直撃を受ける位置にあります。逃げ出そうにも鉄道、道路とも不通で交通手段がありません。自分の運命が手の届かないところで握られていることの恐怖と不安が尋常でないことを経験しました。電話がしばらく不通でしたが3日目に家内と連絡がとれ、お互いの安否を確認することにより気持ちが楽になりました。

 発災後1週間目に教え子の救急救命士たちと連絡が取れ、教育実習用の中古救急車で緊急車両の許可をもらい、私の救出に来てくれました。ここでは、人間はいろいろな人に支えられて生きているのだということを実感しました。自宅に帰って安心したのか2日間は丸太のように眠りましたが、起き上がると何かしなければいけないとの思いに駆られました。私は日本医師会の救急災害医療対策委員会の委員長を務めていましたので、私自身が設立に深く関わっていた日本医師会災害医療チーム(JMAT)に組み込んでもらい、いわき市医師会の一つのチームとして医療活動をすることになりました。早速に自分が勤める帝京平成大学の救急救命士やボランティアの学生を集め、中古救急車と乗用車2台に分乗してN医師の病院に舞い戻りました。病院の当直室でごろ寝をし、いわき市医師会で行われる朝の打ち合わせ会、夜の報告会に参加しながら昼間は4〜5か所の避難所を回って医療支援を行いました。ほんの4日間の避難所巡りでしたが、家も財産も失くして避難所で生活している人々を目の当たりにして、1日も早く幸せな生活に戻ってほしいと祈らずにはおられませんでした。震災から4年が経過した現在、まだ多くの被災民が仮設住宅で不自由な生活を強いられている現実を直視し、早急な復興に向けて一層の努力が必要なことを感じます。

 N医師の病院は、その後災害の復興支援を受けて山側の小高い地に新築移転をして医療活動を行っています。しかし、被災地に来てくれる医師はありません。今度は私がN医師を支える番だと心に決め、月に1〜2回、週末にお手伝いに行き、除染作業員の健康診断を担当しています。

 

 以上が東北大震災で被災した折の簡単な体験談ですが、これを契機としてなんとなく体調が優れなくなりました。あれだけのストレスを経験したのだから仕方ないと思い込んでいるうちに、次第に元気を取り戻してきました。ところが震災の翌年の夏ごろから再び気力の低下が見られるようになり、同時に一時的な無動、緩慢な動作に気が付きましたが、仕事に追われて放置していました。秋頃には左手の震戦に気が付き、パーキンソン病の自己診断をして旧知の神経内科教授に診てもらい、臨床的な確定診断がつきました。ヘーン・ヤコブの分類Ⅰ度で、薬物の服用により症状は短期間で消褪し、現在に至っております。パーキンソン病は高齢になってから発症する病気であり、75歳の私が発症してもおかしくありません。しかし私には、東北大震災での生命にかかわるストレスが発症の引き金を引いた要因であると思われてなりません。

 

もう一つの悲しい出来事が愛犬ベル(Belle)の死です。ベルは雌のアフガンハウンドで、誕生日が私と1日違いの2001年11月4日生まれです。小田原のブリーダーから生後1か月で譲ってもらいました(写真)。毎日大きくなるのが実感出来る程の成長ぶりで、気が付いた時には2本足で立つと私と同じ背丈になっていました。長毛が全身を覆い、とても気品のある立姿のワンちゃんです(写真)。大型犬を家の中で飼うために我が家を一部改築して“ベル”ちゃんのスペースを確保する一方で、専門のトレーナーについて基本的な躾をしこみました。ベルを連れての散歩が私の日課になりましたが、道行く人が振り返りながらベルを眺めて通り過ぎます。散歩の折に写真を撮るのも私の役目です。四季折々の草花を背景に写真を撮り続け、そのうち何枚かが10年以上にわたって年賀状を飾ってくれました。ある年の夏に北軽井沢の山小屋で過ごした日のことが昨日のことのように思い出されます。ベルの不調に気が付いたのは一昨年の6月初めのことでした。春の健康診断で全く異常なしと言われて安心していた矢先のことでびっくりしました。呼吸がおかしくなったので動物病院へ連れて行き、検査の結果は肺水腫と診断され、そのまま入院となりました。6月6日の未明に連絡があり、我々が駆けつけるのを待っていたように静かに息を引き取りました。近くのお寺で行った葬儀には遠方に住む子供たちも駆けつけ、知人から贈られた花に囲まれた顔は元気であった時そのままで、今にも起き上がりそうな様子でした。ベルと一緒に過ごした12年間は、我々夫婦にとってかけがえのない時でした。改めてベルちゃんに感謝し、冥福を祈っています。

何を書いても構わないとの編集者の言に乗って、他では書けない心情を書かせていただきました。

 

悲しいことと同様、楽しい想いでもたくさんあります。中でも強く記憶に残るのが富士登山です。富士山が世界遺産に登録されてから登山者が増え、メディアで見る登山道はさながら蟻の行列のようです。私が登ったのは世界遺産に指定される数年前のことで、それもシーズンの終わった9月1,2日のことでした。富士山の山梨側の麓で生まれ育った案内役のTさんの助言によるものでした。当日は朝から本降りの雨で、5合目の登山口で登るか中止するか迷いましたが、Tさんの意見を入れて登り始めました。すると昼ごろには雨が止み、青空が出てきました。8合目の山小屋に着くと、何と見事な“影富士”が見えました。日差しが富士の後ろから射し、前方に雲が張り巡らされた特殊な気象条件の下でしか見えない珍しい現象だそうです。山小屋でごろ寝をした翌朝、頂上の近くでご来光を拝みました。富士山の頂上近くに登ると、休みながらでないと足が前に進まず、近くに見えている目標地点になかなか到達できません。写真は、やっとのおもいで頂上に到達したときの満足感をTさんと一緒に写真に収めてもらったものです(写真)。Tさんは私より10歳年長ですが、若いときから身体を鍛えており、「先生、今度はOOに行こうよ。」と誘ってくれます。これまでは屋久島に登山して縄文杉を見たり、白神山地を歩いたりといろいろな場所を訪れて日本の美しい自然に触れてきました。パーキンソン病の身では行く先が限られますが、銀座の飲み屋には時々ご一緒して楽しく談笑しています。友人に恵まれた幸せに感謝です。

 

 ここまで書いてきて、我が家のことを書いてないのに気がつきました。家内とは1968年5月5日に京都の都ホテルで挙式しましたので、多くの学友と同じく、もうすぐ金婚式を迎えます。この間、家庭のことはすべて家内任せの生活で、今でもそれが続いています。感謝のほかに言葉がありません。

われわれ夫婦は2男1女を授かりました。長男は消化器外科医で、つい最近まで京都のバプティスト病院でお世話になっていました。次男は家内の実家の姓を継ぎ、東大の眼科で働いています。男2人に挟まれた長女はサラリーマンと結婚し、我が家の隣に家を建てて住んでいます。男の子が2人いて、上の子は今春、念願の筑波大学付属小学校に合格し、1時間かけて通学しています。下の子は活発な2歳半です。毎日のように我が家へ遊びに来ますので、賑やかなことといったらありません。「来てうれし、帰ってうれし孫の顔」の言葉通りの心境です。写真は下の孫と一緒のスナップ写真です(写真)。

 

 大学を卒業して50年、まずまず及第点の人生ではなかったかと思っています。自分の能力不足から出来なかったことは数え切れませんが、少なくとも“与えられた場所でベストを尽くす”という基本姿勢を守って生きてきたつもりです。その結果として、健康、家庭、仕事、経済面などで、満点からは程遠いものの、平穏に暮らせる日々の幸せがあるのだと考えています。現在はパーキンソン病の薬を服用しながら近くのリーガロイヤルホテル内のヘルスクラブへ通ったり、電車で1駅離れたゴルフ練習場へ歩いて行ったり、時にはハウス委員をしている埼玉県の高根カントリー倶楽部で下手なゴルフを楽しんだりしています。ゴルフで気が付きましたが、60年近く携行してきた大型の運転免許証を返納しました。近所で軽い自損事故を2回続けて起こし、人を傷つける前に車の運転を止めるようにとの家内の忠告を受け入れたものですが、パーキンソン病の薬を服用するようになってから運転は自粛していましたので、大きな抵抗はありませんでした。どこへ行っても運転を気にせずお酒が飲めるのが最高です。幸いなことに東京は公共交通機関が発達しているため、シルバーパスを携行してどこへでも気軽に出かけられます。いままで経験しなかった新しい楽しみを見つけています。

 

現在の平穏な生活がいつまで続くか知れませんが、今後も「自分はいろいろな人に支えられて生きている」ことを自覚し、感謝の気持ちで毎日を暮したいと念じている昨今です。


天文学者の前で孫と


 フェルメールのブルー     笹 征史

毎月1回家人をエスコートして東京を訪れている。2月8日は訪京の折、娘家族に声をかけたところ孫ともどもと参加するというので、東京は日本橋で開催中の「フェルメール光の王国展」を訪れた。フェルメールは1632年オランダ デルフトに生まれ、1675年43才で死去した17世紀絵画を代表する画家である。最近10年フェルメールはブームとなり日本では熱狂的なフアンが増えている。

この展覧会は福岡伸一氏が企画監修したフェルメール全作品37点の「リ・クリエート(Re-create)」と称する展覧会である。福岡伸一氏は京大農学部出身の分子生物学者であり、青山学院大学の教授であるが、現在米国ロックフェラー大学の客員教授としてニューヨーク滞在中である。彼はフェルメー全作品37点を、「所有する美術館など所有者のもとで見る」という志を抱き、2007年から4年間をかけて達成した、という。今度はこれら全作品を描かれた当時のままにデジタル技術で再現し、当時と同じ額縁に装丁して展示するという(科学者にとっては)壮大な志を立て、今回展示にこぎつけたというものであった。この企画はニューヨークと同時展示の東京で見られることを知り、是非見たいと思い実現したものであった。

  ところで福岡伸一氏の「生命は流れの中に動的平衡を保った存在である」という生命観は私のこれまでの研究生活からの実感から共鳴するものであった。またANAの機内情報誌「翼の王国」において1988年ニューヨークのフリック・コレクションで初めてフェルメールを見たときの感激を語っていたことも、かつて1979年オランダはデン・ハーグのマウリッツハイス美術館で「真珠の耳飾りの少女」(「青いターバンの少女」)を初めて見たときの衝撃を思い出し、親しみを感じているところであった。350年前のこの絵は「オランダのモナ・リザ」として圧倒的な評価を得ており、何回か修復されている。36年前に私が見たこの絵は独特のひび割れが顔面から全体に覆われており浮き出すような立体感があった。その中で頭部のターバンのブルーが鮮やかであった、ことが目に焼き付いていた。

  2000年代に東京でみた時にはこのひび割れは感じず、以前よりの鮮やかに見えた。今回の「リ・クリエート」では当時の使用した画材を分析し、その結果を布地のキャンバスに同じ大きさでプリントし、当時の額縁と同型、同サイズで展示されていた。今回の「真珠の耳飾りの少女」のひび割れは近づけば認められたが、離れるとむしろ目立たず少女の鮮やかな色彩と光に引きつけられるものであった。特にターバンのウルトラマリンブルーは鮮やかであった。このブルーはアフガニスタン産のラピスラズリを砕いたもので、無茶苦茶高価なものとして知られている。このブルーは「青衣の女」、「絵画芸術」の中の女性の衣服、「女と召使い」の中のテーブルクロス、「音楽の稽古」のなかの中央に配置された椅子、それに有名な「天文学者」と「地理学者」の衣服、等々に使用され、いままで見たいずれの情景よりも鮮やかに光を放っているように感じられた。また黄色もメトロポリタン美術館で見た「窓辺でリュートを弾く女」の衣服よりも一層鮮明に感じられた。

  この展示はフェルメールが43歳で亡くなるまで年代順に配置されており、年月を経て画家が丹念に構図を計算して作成されていく過程が感じられた。またこの展覧会では気楽に楽しめるようにと雑談自由、写真撮影OKということであり、孫たちとおしゃべりをしながら、写真を撮りながら、周ることができ目からうろこの楽しい時間であった。ごく最近知ったことであるが、この展覧会は長野市など全国22か所で開催中か予定とのことである。もう一度どこかで訪れる機会があるかもしれないと思っている。


 

 話は飛ぶが拙宅の近くに応仁の乱のころ、フェルメールより200年前、一休禅師が再興した古寺の一休寺があり、季節の折々に訪ね四季の色彩を楽しんでいる。

 

一休寺にての家人の一句

探幽の鶴の蹴散らす春の雪  宙 

正月はまじめに家人のもう一句

初詣 衆善奉行 石畳  宙

衆善奉行は一休禅師の(数々の悪行することなく)多くの善行をすれば心が清く美しくなるという言葉である。


真珠の首飾りの少女

一休寺のアプローチ

ウルトラマリンブルー

厳しい寒さが続きます
御元気ですか
39会の幹事をお努め下さり有難う存じます。
小生、是非出かけたいと考えておりましたが、
些か、体の具合が悪く、丁度三月に入院することになりました。
残念乍ら欠席させて頂きます。
皆様によろしくお伝え下さい。
一月卅一日 四宮 敬介

 

 近 況     島津 威雄


 

私は1976年に関西医大から三重大の生理に行って、30年近くを津で過ごした。定年後、京都に戻って、父が50年以上住んだ衣笠に平屋を建てて暮らしている。


父は若いときの肺結核が治癒せずに、感染した幼い妹が粟粒結核で1週間で死んだのが引き金で、父は金閣寺うらの古家で別居療養生活をした。80才になって喀血をしているのを母が見つけて、嫌がる父を説得して洛東病院に入院させた。排菌がなくならず4年間の入院生活を余儀なくされた。入院数カ月で足が弱り、転倒もあって、階段の上り下りや歩いてトイレに行くことも禁止されたりして、急速にボケが出てきた。それに気づいてからは月2,3回は京都に顔を見に通ったが、4年で父は死んだ。


 

 父が住んだのは、床が大きく傾いたアトリエのある、もと日本画家の家だった。写生のためか、家の周りに杉が何本かと、モミジ、桜、棕櫚、いろんな灌木があった。家を建てかえる時、何本かのもみじと5本の杉、それと私が子どもの頃にはなかった大きい桂の木2本が残った。

 平屋の周りのゆったりした地面に、母が椿やモクレン、?梅、泰山木、その他、いろんな茶花系統の灌木や草花を植えたが、私ははじめ無関心で水やりもろくにせず、枯らしたりすることもあった。5本あった杉が枯れはじめて、3本を切らざるを得なくなったのはさすがにショックだった。

 庭の水やり、週に一度の伊勢のリハビリ専門学校へのアルバイト(最初日帰りをしていたが、きつくて学生寮に一泊二日で)、ときどき実家に母の顔を見にいったり、小学校の同級生とお茶を飲んだり、の日常。足がはやく弱らないように、自転車で片道30分の喫茶にコーヒーを飲みに行く。

 

そのほかには、年2、3回韓国旅行に誘われたり、自宅でのライブを3,4回している。この5年は、(日本の植民地支配によって)サハリンに取り残されたコリアンを訪ねる旅に毎夏参加している。

 この3月初め、横浜の友人に誘われて、水戸から常磐炭田、日立鉱山の朝鮮人労働の跡地のフィールドワークに行ってきた。

 自宅でのライブは、2006年だったか、東京のドキュメンタリー映画監督の前田憲二さんからむりやり、急に頼みこまれて、韓国全州からのパンソリの公演を、自宅に70数人の観客をぎゅうぎゅうにつめこんでやったのが最初だった。

広くはないが、壁のない、障子を全部はずすと3つの部屋がL字型に一つの空間になる。それ以来、在日のシンガーたち、李政美、朴保や新井英一もいちど、そのほか沖縄の島唄の大城美佐子さんなどのライブをした。4年前に東京のサムルノリのグループ「ケグリ」のライブをしたのと、全州で毎年10月に3,4日間開かれる「世界ソリ(うた)祝祭」を聞きに行くツァーに2回参加したのがきっかけで、伝統楽器の演奏を聞くのが面白くなって、この4年はパンソリも含めて、韓国伝統音楽のライブばかりするようになった。

余昌英くんが最初のパンソリのとき来てくれたが、一度で懲りたようだ。亡くなった三井くんが私のうちのライブに一度、彼の医院のすぐ近くのカフェでやったときに2回、来てくれた。

 

私の自宅でライブをする値打ちは、終了後にかならずする打上げだ。これが楽しい。わずかな謝礼でおいしい韓国メニューを用意してくれる釜山出身の漆芸作家の沈明姫さんがいなくなったら、ライブをやめるだろう。こういうことも、私のアルバイトがなくなれば続けられなくなる。あと少しだろうなと思う。

 

 




大 国 主 命 の 一 生

武内 重二

序章 第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章

 

序章 大国主命って実は素晴らしい男だったのだ

 私の手元に岩波文庫の「魏志倭人伝」がある。古代日本のことを知る素晴らしい資料である。その中に次の文章がある。

 「景初二年六月(西暦238年)、倭の女王(=天照大御神)大夫難升米等を遣し・・・・・」

この大夫難升米をどう読むかは誰も今まで解き明かしたことがない。そこで私は大夫をオオと読み、難升米をナムシメと読んではどうかと考えたのである。シは中国式発音の強いシで日本ではチに当たるのではないか。そうするとオオナムチメとなる。また魏志倭人伝では出雲の首長はミミというとあるので、オオナムチは中国に派遣された時は出雲の首長でオオナムチミミと名乗ったが、中国ではオオナムチメと呼ばれたのだろうとどんどん考え(妄想?)が広がった。

それからは古代に関するいろいろな本を読みあさって自分の考えに都合のよいところだけを拾い出して書きあげたのが以下の章である。結局、大国主命の一生を書きあげることになったのであるが、暇な方に一読をお勧めする。

 




第一章 天照ヒルメ姫、大己貴を出雲に派遣する

天照ヒルメ姫            

 大倭、それは現在の奈良盆地を占めるクニである。これからはヤマトと記すことにする。その盆地の東に纒向という所がある。現在は桜井市に属する。その纒向がこのクニの首都で王の住む高い宮殿といくつかの行政のための建物があり、その周囲に人々の住む低い住居がある。
 春はまだ浅いが、それでも日差しが少し長くなって、木々の芽が少しふくらみかけたある日、高い宮殿の一番奥まった室で一人の老女が考えにふけっていた。この女性が「大倭」の首長であり、当時の日本、すなわち「倭」の盟主である。
 歳の頃は六十前後にみえる。当時としてはかなりの老齢である。しかし、髪もまだ真っ白ではなく、顔の色艶もよく、まだまだ気力あふれた顔付きをしている。彼女の名前は「ヒルメ(日?)姫」という。後世には「天照大神」と呼ばれ、魏志倭人伝には「女王・卑弥呼」と記された人である。

 話を始める前に簡単に彼女の履歴や当時の有様を記そう。
 この春の日といっても西暦何年かは実ははっきりはしない。しかし、それでは話を進めようがないので西暦二二七年、中国の魏暦では明帝の太和元年の春の日と設定しよう。
 この時を去る約五十年ほど前、それは紀元後百八十年頃で、この時の中国の王朝は「後漢(二五〜二二〇)」である。皇帝は霊帝といったが、建国後百五十年あまり、国力の衰えが目立つようになっていたため、いろいろ努力をしたにもかかわらず、すべての面で歯車が狂いだしていた。
 一方、日本、当時「倭」と名乗っていたが、紀元後百八十年頃、倭の盟主、ヤマトの王が亡くなり、その後をその御子「スサノオ(須佐之男=古事記、素戔鳴=日本書記、素戔鳥=先代旧事本紀、須佐乃鳥=出雲風土記)」が継いだ。だが運悪くその後、旱魃、火山噴火、台風など天災が相次いだ。そのために全国的に大凶作・大飢饉となった。それが二、三年続いたらしい。これはスサノオが王であることを天の神々が怒っているからではないかとヤマト周囲のクニグニからアンチ・スサノオの動きが起こってきた。
 飢饉となれば人々の命が失われるから、非常に切実な話である。一つのクニの凶作であればそのクニの首長が責任を取る。そういう時代である。スサノオに責任を取れ、取らないの大問題となり、「倭国、大いに乱れ、相互に攻撃すること暦年(魏志倭人伝)」という事態になった。魏志倭人伝では倭国混乱の時期を明記していないが、「後漢書・倭伝」では「後漢の桓帝(一四七〜六七)・霊帝(一六八〜八八)の間」と記し、「梁書・諸夷伝・倭」では「後漢の霊帝の光和中(一七八〜一八四)」と記す。すなわち約六年間である。
 桓・霊の間というのは後漢が衰える直接の原因となった朝廷内の宦官と官僚との血みどろの争いがあった。したがって中国でも乱れた世の中であったが「倭国」でもそうだったのだという意味が含まれる。
 また、後漢の霊帝の光和時代は天然災害の多かった時代(十八史略)で中国でも天然災害が多かったが「倭国」でもそうだったのだという意味が含まれている。

 この時の解決策が非常に日本的である。すなわち戦いで徹底的な決着をつけるのではなくて、おそらく当時もっとも宗教的尊厳性をもった宗像三宮(奥津宮、中津宮、辺津宮)の巫女であった「ヒルメ姫」を人々が首長に担ぎ出し、その政治的中立性から多くのクニグニの首長もそれを認めて、女王が誕生することになった。その時彼女は十五・六歳ぐらいだったろうと著者は考えるがしっかりとした根拠があるわけではない。話を進めるために十六歳としよう。彼女をこれからは「天照ヒルメ姫」と記す事にする。
 女王誕生は中国暦でいうと後漢の霊帝の中平元年頃、西暦でいうと一八四年頃のことである。

 天照ヒルメ姫は女王となると早速、後漢の首都、洛陽に使いを出し、霊帝に朝見して新倭王誕生のことを報告した。霊帝はいたく喜んで素晴らしい画文帯神獣鏡複数枚と金象嵌の銘の入った鉄刀を下賜してくれた。銘文は「中平□□(年) 五月丙午 造作文(支)刀 百練清剛 上応星宿 □□□□(下避不祥)」と記入してあった。この鉄刀は伝世され、最後に奈良県天理市の東大寺山古墳に葬られた人と一緒に葬られた(昭和三十七年(一九六二)に出土)。
 銘文のうち、「五月丙午(ひのえうま)の日」は決まり文句で、鉄刀や銅鏡を作るのに一番の吉祥日で、さらにその日の正午が吉祥時間と考えられていたので、その日でなくてもそう表現したとのことである。当時中国では、五月が一年中で最も暑い月で、丙は火をあらわし、午は真南を表わし、陰陽説ではもっとも陽になるということらしい。さらに正午は太陽が最も高くなる時間である。
 「上応星宿」は当時の道教的神仙思想に基づいて、月・星の運行を観測して物事を予言する言葉だそうで、「天にあっては月・星の運行が順調であり」という意味である。
 「下避不祥」とは「地上にあっては災い・不幸を避ける」という意味である。
 例えば、「正史三国志」には異常な星の運行は必ず記載されていて、それにたいして皇帝がどのような対策を取ったかまで記載している場合もある。
 また、ずっと後世のことであるが、晋の後の南朝、梁の武帝の時(中大通六年、五三四年)に、朝廷の天文官が星を観測して「?惑、南斗に入る」と武帝に奏上したという(十八史略)。 ?惑 というのは火星のことで兵乱の兆しを示す星であり、南斗というのは星宿二十八宿の一つで天子の寿命を司る星であるとされる。したがって、「天子の寿命を縮める兵乱が起こる兆しが現れた」と報告したわけである。

 さて、画文帯神獣鏡はおそらく最初、ヒルメ姫のために特別に下賜されたようで日本から多く出土する。しかし、中国からも日本ほどではないが出土するが長江中・下流域から出土するという。それは時代的にはもっと古く、おそらく霊帝がその古い画文帯神獣鏡をヒルメ姫のために再現、鋳造させたのではないかと著者は推定する。楽浪郡からも数枚出土しているが、それは倭から楽浪太守の求めに応じて朝貢されたものと考えたい。

 後漢霊帝から授かった中平銘入り大刀と画文帯神獣鏡を彼女は非常に大切にして、宮殿にしつらえた小さな神殿に奉置して朝夕礼拝した。とくに銅鏡はこれまで困難な政治的事態に直面した時には、一人静かにこの部屋に籠り、じっと銅鏡に見入っていると、心が澄んできて判断力が冴え、困難な事態をいくつも乗り切ることができた。それに「なんといっても二百年も続いた後漢の皇帝から倭の大王として認められたのは、この鏡を有する自分なのだ!」という思いが心の中にふつふつと沸いてきて、自信も湧いてくるのであった。

天照ヒルメ姫の悩み

 彼女には三つの悩みがあった。
(一)東海の国、久努国の王「卑弥弓呼」が反抗していること。
(二)出雲の王、スサノオ(須佐之男命、素戔鳴尊)が死亡したのでその後釜にヤマトから人を送ったが、スサノオの子がヤマトからの独立を宣言して、彼を出雲に入れないこと。
(三)自分の後ろ盾だった後漢が滅びてしまい、権威のよりどころがなくなってしまったこと。その後、中国は魏、蜀、呉が相争う状態であり、その隙に公孫とかいう一族が遼東(朝鮮半島の西北)に進出し、さらに朝鮮の楽浪郡を乗っ取り、その南に帯方郡を作り、皇帝でもないのに威張っていること。公孫氏にやむを得ず臣従しているが、苦々しい限りであること、などである。

 久努国は後述するように現在の静岡県磐田市一帯に本拠をもち、後の遠江、さらに三河までをほぼ領有したクニである。久努国は彼女が女王となった頃はヤマトと同等であった。しかし、ヒルメ姫政権が安定した政治を行って倭国盟主としての地位を確立し、久努国に臣従を求めた頃から反抗するようになった。
 ヒルメ姫政権がそれまでに推し進めてきた政策は各クニの王が死亡すると、その子が王となるのに際してヤマトから副首長(すなわち監視官)を派遣することを受け入れさせたり、あるいはヤマトから直接、クニの首長を派遣したりした。いわば後の「国造」化する政策を取ったと考えられる。
 それが実を結んでヒルメ姫が亡くなる頃には、魏志倭人伝によれば王のいるのはわずかにヤマト、伊都、久努(狗奴)の三国だけになっている。

 ヤマトは久努国にもそうした圧力を加えたが、久努国王はむしろヤマトに反抗するようになった。その後、彼はヤマトの市場(海石榴市の祖と筆者が考える)の租税が高すぎると言い出して、派遣していた人々を引き上げてしまった。
 そればかりではない。東国の物資を久努国でとどめてしまい、東国の物資をヤマトを通さずに直接に西国に販売するようになった。だからヤマトの市場の商品が極端に減ってしまったのである。
 久努国は本来遠江のクニであったが、おそらく「卑弥弓呼」の父王の時から三河をほぼ併合していたようで、祭祀に用いる独自の銅鐸を遠江のみならず、三河でも使わせていた。いわゆる三遠式銅鐸である。
 天照ヒルメ姫にとっては権威の失墜であり、経済的にも非常な痛手であった。

 二番目の悩みは「出雲」である。
 天岩戸事件の後、スサノオを出雲の王にしてやった。王というのはヤマトから独立した政権であることを意味する。スサノオも長生きしたがしばらく前に天寿を全うした。長生きしたことは喜ばしいことであったが、長年の統治のために出雲そしておそらく伯耆もヒルメ姫のコントロールがまったく効かない地域になってしまった。
 出雲はスサノオが丹精込めて作り上げた国だけに、米の生産はそれほどではないが、製鉄・製銅およびそれらの加工にすぐれた技術者集団を抱えている。それに玉造一帯では碧玉(青メノウ)を産生し勾玉などの玉造(たますり)技術者も抱えている。
 スサノオは出雲に行く前に、朝鮮半島のシラギのソシモリ(おそらく弁韓の鉄の産地)に滞在して新しい製鉄技術を習得した。出雲に戻って古い製鉄法を改めたのが出雲製鉄の興隆の始まりである。古い製鉄法は「いけにえ」を毎年必要としたようだ。スサノオをそれをやめさせた。いわゆるヤマタノオロチ退治の話の一部である(古事記・日本書紀)。古事記・日本書紀はこのようにスサノオが製鉄を行ったこと記している。
 鉄は鉄斧にしたり、またいろいろな鉄製器具にして鉄の生産がない地方に交易されていったわけであるが、出雲の鉄は品質が良く高く交易されたらしい。出雲は豊かな国になっていた。
 したがって、天照ヒルメ姫としては出雲の王政をやめさせて、新しい首長(今度は国造)を送り込んで、出雲を自由にコントロールする必要があった。

 製鉄に関して少し寄り道をする。著者は製鉄に関しては全く知識がないので単に紹介するにとどめる。
 製鉄の歴史は弥生時代とともにあると考えられるが、考古学的には広島県三原市八幡町の小丸遺跡から西暦二百年代の製鉄炉が発見された(平成七年一月、広島県埋蔵文化財調査室)のが現在のところ最も古いようである。その他にも広島県山県郡北広島町(旧千代田町その他が平成大合併した)の京野遺跡や東広島市高屋町の西本六号遺跡からも弥生時代末期から古墳時代にかけての製鉄址と考えられるものが発掘されている。伝説に考古学的裏づけがようやく少し出来てきたといえよう。
 弥生時代は水稲の時代であるが、農耕器具はほとんど木製である。この木製農耕器具は非常に消耗が激しく、鍬などはおそらく1日で駄目になると考えてもいいくらいで、大量に作らないと実用にならないのである。大量に作るには大量の木材と鉄製工具が必要であったと考えられる。
 天照ヒルメ姫の頃から古墳時代初めにかけての各地の言い伝えから考えると、この頃は海水面が低下すると同時に沼・湿地・池の水面が低下して、水田に転換可能な土地が増加したと考えられる。したがって各地の首長は、その地域が豊かになるために争って水田開拓事業を行ったようだ。これが鉄器の需要を大幅に増やし、製鉄事業は当時としては最高の利益産業となったと考えられる。
 ただ、気候としてはやや寒冷になったと考えられ、水稲の品種改良も進んだと推定される。

天照ヒルメ姫、大己貴命に白羽の矢を立てる

 天照ヒルメ姫はこれまで二・三人、政権の有力者を出雲に送ったが、皆、追い返されてヤマトに戻ってきた。もう力づくで従わせるほかはないようであるが、久努国との間が一触即発の状態でそちらにも備えなければならない。
 最後に思いついたのが葦原醜男である。スサノオが出雲に去った後、大和平野に残ったカモ族は零落して葛城山の東麓の稲作に不便な土地を与えられ、その開墾に従事していた。その族長が葦原醜男である。族長といっても二十歳代後半の男で、小さな一族だから若年ながらなんとか族長をやっているというのが周囲の評価である。
 しかし、同じカモ族なのでもしかするとなんとかやり遂げるかもしれないとヒルメ姫は考えたのである。

 早速、人をやって纒向に醜男を呼び出して接見すると、これまでの苦労を感じさせない品のいい童顔の男である。やはり落ちぶれたりとはいえ、名族の族長だけはあると好意を持った。
 彼女が醜男にスサノオの跡を継いで出雲の首長になるようにと命令すると、予想に反して少しもたじろぐことなくその命令を受けたところが頼もしく思われ、一層好感を持った。
 彼女は醜男に「オオナムチ(大己貴=日本書紀、大穴牟遅=古事記、大名持と記す風土記などもある)」という名前を与え、さらに出雲に行くためのいろいろな援助を与えた。
 大己貴はこれまでの大和平野の西南の狭いところに逼塞していたのが不満だったので、ヒルメ姫に活躍の場を与えられたことを非常な名誉と喜んだ。それでなんとしても出雲の首長になって見せますと天照ヒルメ姫に誓ったのであった。


第二章 出雲の国


大己貴、因幡に行く

 大己貴は二十人ばかりの部下を引き連れて、ヤマトから播磨に向かった。 
 後年の竹内街道(金剛山地の北端、二上山の南麓を東西に通る)から河内平野に出て住吉の津から船で播磨に向かったのか、または大和川に沿う道(生駒山系南端、信貴山南麓をめぐる道で亀瀬越の難所がある)を河内平野に出、西進して同じように住吉の津へ向かったのか、または北上して河内湖を渡って、陸路を摂津から播磨に向かったのか、今となってはわからないが、いずれかの道をとったものと思われる。河内湖というのは現在の大阪市南半から東大阪市一帯にかけて存在したおおきな湖で大阪湾から船で出入りできた。
 播磨には加茂の郡がある。この加茂の郡の首長はカモ族の旅行者すべてに親切で、旅の便宜をいろいろ図っていたものと思われる。大己貴は若輩ながらもヤマトカモ族の首長であるから、とくに親切に面倒をみたことであろう。
 播磨の姫路とその港に当たる飾磨の津は当時から街道の要衝である。姫路から西の山陽道は海路も陸路もあるがどちらもこの地を経由する。海路を西に行かず南西へ取れば、家島諸島、小豆島を経由して四国に渡る事ができる。一方姫路から北へは但馬に行く播但街道があり、市川に沿って北上して市川、神崎、生野、朝来を経由して和田山に出れば現在の国道九号線に合流する。この街道は大己貴の時代からすでに出雲と畿内を結ぶ幹線道路の一つであったと考えられる。
 さらに養父、関宮、村岡、湯村温泉とほぼ九号線と重なる道をたどり、但馬と因幡の境界の蒲生峠にまでくると日本海が見えてくる。そのまま峠道を降りれば岩美付近で日本海に出る。岩美から西に少し行くと湯山池と湖山池があり、現在は埋め立てられたり、砂丘で日本海と切り離されているが、大己貴の時代は入り江になっていて重要な港であったと著者は推定している。
 湖山池は周囲の遺跡から縄文時代の外洋丸木舟と湖用丸木舟が出土しているから明らかに港であった。また後背地には古墳時代の前方後円墳があり、縄文以来ずっと人々が住んでいた遺跡が点在している。

因幡の首長の話

 大己貴は蒲生峠から日本海の方へは降りずに因幡の首長のいる八上の郡、現在の八頭町へと山道を下った。
八上の郡は現在の八頭町を中心に、若桜町、鳥取市河原町を含む一帯を指す。すなわち千代川の中流およびその支流、八東川の流域一帯に相当する。首長がいたのは両川の合流する辺りだったようだ。
余談ながら、八頭町というのはややこしく、もとは「八東村」が他村と合併して「八頭村」となり、さらに他村と合併して「八東町」になり、さらに郡家、船岡の両町と合併して現在の「八頭町」になったという歴史があるとの事である。

八上についてみると因幡の首長は不在だった。つい最近に因幡の西の端に近い「青谷上寺地ムラ」が正体のわからない大部隊に襲われて、住人が多く殺され大変なことになっている。その対応に動員できる人間をすべて率いて救援活動に行っているという。
 因幡の首長にはすでに天照ヒルメ姫から、大己貴を出雲の首長に任命したので協力するようにという連絡が入っていて、大己貴を歓迎する準備を整えていたのだが、こういうことで申し訳ないという留守を預かる責任者の話である。
 彼の説明によると事件のあらましは次のようであった。
 今度の事件は隠岐の島で採れる黒曜石の販売権がからんでいる。黒曜石とは花崗岩質の溶岩が太古の昔に急速に冷えてガラス状に結晶したもので、ナイフや包丁として使われてきた。隠岐の黒曜石は品質が極めてよく、縄文時代から山陰地方から朝鮮半島まで広く使われている。したがって、弥生時代でも需要が多く貴重であった。
 その隠岐の島の黒曜石を扱う交易はそれまで出雲が主に取り扱い、山陰地方や新羅など朝鮮へも販売していたが、スサノオがなくなると出雲は黒曜石の値上げを要求してきた。
 困った因幡は新羅と組んで青谷上寺地ムラの首長を隠岐に送り、隠岐の首長と交渉して、因幡・新羅にも直接黒曜石を売ってもらうことにした。しかし、その分配法で新羅ともめて、新羅は因幡に騙されたと感じたようだ。そしてその直後に襲われたという。
 この事件を知った出雲からも救護の一団がやってきたがどうも様子がおかしい。もしかしたら襲った一団を裏で煽っているのではないかという。

 大己貴がその青谷上寺地ムラがどこにあるのか問うと、そのムラは気多の前(鳥取市青谷町長尾鼻)の西側にあり、因幡では一二を争う天然の良港で、日本海各地や北九州、朝鮮半島、中国大陸などを結ぶ海運物流の重要な中継湊だという。
 生き延びた人達からの話では襲った人々は見知らぬ人達で言葉が聞き取れなかったから確証はないが新羅がやとった?人ではないかという。
 さらに嫌らしいのは出雲がこれをきっかけに因幡を併合しようとしているらしく、スサノオの息子の一人が因幡の首長の娘、八上姫に結婚を申し込んできたのだという。
 その夜一晩首長の家に宿泊させてもらったが、大己貴は「八上姫」と挨拶を交わすことが出来た。物静かで大人しそうだが芯のしっかりした娘であった。大己貴はすっかり気に入って絶対にこの娘と結婚しようと心に誓ったのであった。

 八上から数人の若者に道案内してもらい、青谷上寺地ムラに着いて見ると、それはまさに惨状という言葉ぴったりあてはまる状態であった。家という家が破壊されたり燃やされたりしていた。ムラの広場の神聖な祈り場も破壊されていた。大勢の人々が死に、さらに多くの人々が怪我をしてにわか作りの葦小屋に横たわっていた。
 小屋の中では怪我人の傷を手当てしたり、食べ物を食べさせたり、また小屋の外ではムラの周りの環状濠を墓代わりにして死者をならべ、上から土をかぶせたりしているのが八上や因幡各地からやってきた救援団の人達である。救援活動の総指揮を取っている男が因幡の首長であった。
 それからのろのろと動き回っているグループが出雲からの応援の一団だとすぐにわかった。彼らの動きはなにか投げやりだった。そしてそのうち彼らはぷいと出雲へ引き上げていった。

 因幡の首長の話では、出雲から来た救助団はとにかくこのムラを解散し、二度と襲われないように山へ移動するべきだと主張し、その線に沿って勝手に活動した。それが受け入れられないと、救助なのか妨害なのかわからない動きをし、さらに大己貴一行が来たことを知ると引き上げてしまったという。
 大己貴らは旅のために携えてきた薬をすべて使って、怪我人や病人の救護活動を行った。そしてムラの再建のために骨身を惜しまず働いた。
 大己貴らの活動が生き残った人々を勇気付け、ムラの再建が始まった。一ヶ月もするとムラは少しずつ立ち直ってきた。因幡の首長は大己貴に非常に感謝し、もし大己貴が出雲の首長になることができたなら、真の友好国になりましょうと約束した。また娘の八上姫を是非娶ってくれと頼んだ。大己貴には勿論、異存はなかった。

 青谷上寺地ムラの悲劇を因幡の首長は後代に残そうと考え、白兎に譬えた物語にした。ただ、場所は鳥取市青谷町長尾鼻(気多の前)の東側という設定にし、犠牲者を祀るために(と著者は考える)白兎神社(鳥取市白兎)を創祀した。この話は古事記に取り上げられて誰知らぬ有名な物語になった。

☆ 青谷上寺地遺跡
 平成三年に高規格道路「青谷・羽合道路」の建設のために、遺跡の有無をなどを調べるために地表を歩いて調査したところ、数点の土器が発見されたのが遺跡発見の発端である。それをもとに、平成八年から九年にかけて試掘調査を行ったところ、非常に保存状態の良い弥生時代遺物が大量に発見され、平成十年から一三年にかけて、財団法人鳥取県教育文化財団が本格的発掘調査をおこない、さらに平成一三年度からは鳥取県が主体となって 総合的学術調査や出土品の調査研究を行っている。
 鳥取県の青谷町というのは因幡の西の端のあたり、長尾鼻の西の付け根にあたる。青谷上寺地遺跡展示館 (http://aoya.city.tottori.tottori.jp/kamijicji/top.htm) や青谷上寺地遺跡ホームページ (http://aoishida.net/index.html) によれば、(一)この遺跡のある青谷町一帯は本来大きな入り江であったが弥生時代以降に徐々に埋まっていき、紀元前二百年ごろから人々が生活するようになった。そして紀元(AD)三百年ごろに再び湿地化し、人々は他の地域に移動した。(二)AD二百年ごろの弥生時代後期の溝から、約百人分の人骨が集中して出土し、それらは埋葬されたものではなく、まるで溝の投げ込まれたかのような無秩序に散らばった状態であった。そのうちの約十体には鋭い刃物でつけられた切り傷や刺し傷があった。(三)出土品(たとえば農具、漁労具、獣骨)からは稲作ばかりでなく漁労、狩猟も盛んに行っていた。(四)土器としては九州系、北近畿系、吉備系のものも発掘された。新潟県のヒスイ、瀬戸内海地方のサヌカイト(ガラス質を多く含む安山岩で、瀬戸内海沿岸では広島県冠高原、讃岐の五色台が主な産地)も発掘された。さらに三六○点を越す鉄製品(鍛鉄製品)や古代中国の貨泉も発見された。すなわち瀬戸内海地方、日本海各地、北九州、朝鮮半島、中国大陸などを結ぶ物流の中継湊基地であったことが明らかとなった。こうした物流中継湊基地は日本海沿岸各地にあったものと推定される。


大己貴、手間の山本で大敗する

 大己貴の一行は出雲に向かった。伯耆では予想された妨害はなく、むしろ順調な旅であった。そのことがかえって大己貴達の警戒心をかき立てた。
 やがて伯耆と出雲の境の低い山にたどり着いた。この山を手間の山本という。
 現在は鳥取県と島根県の境界に近い鳥取県西伯郡南部町天万で、手間の山は現在の要害山(高さ三三四メートル)とされる。この山は古代には出雲に抜ける山陰道が通っていた。要害山と呼ぶのは鎌倉時代に城が築かれたからという。風土記の編まれた頃、山陰道が出雲に入ったところも「手間」という地名でそこには関所がおかれていて、現在の伯太町安田関付近といわれる。

 手間の山を越えれば出雲であるから、スサノオの子達(これからは八十神と記すことにする)がそうやすやすと大己貴一行にこの山を越えさせる筈はない。山の木陰から一行を弓で狙撃してくるとか、なんらかの激しい攻撃をしかけてくる可能性が高いと考えられた。
 まず大己貴の服装をした影武者を一人たてた。影武者を一行の中心にすえ、大己貴自身は従者の服に着替えて一行の後ろを歩いた。また全員が楯を持ってゆっくりと注意深くあたりを見渡しながら山街道を登っていった。その頃の道だから幅一・五メートルか二メートルぐらいなものであったろう。
 突然、どどっと地響をたてながら上から数十頭の猪が駆け下りてきた。見るとどの猪にもその背には火のついた大きな柴束がくくりつけてあった。猪どもは狂ったように道いっぱいに迫ってくる。
 大己貴を守るために皆が大己貴の周りに集まるのが精一杯であった。猪に向かって楯をそろえる間もなく、背中に火をつけられた猪どもは猛り狂って一行に襲い掛かってきた。
 猪どもの奔流が通り過ぎた後は惨憺たるものであった。立ち上がれる者は誰もいず、全員がうめきながら横たわったままであった。大己貴は身を挺して守ってくれた人がいたおかげで軽傷で済んだが、立ち上がろうとした時に上から足音が聞こえてきたので、じっと死んだ振りをした。現れたのはやはり八十神達で、横たわっている者を調べてまわり、大己貴の影武者を見つけると、集まって調べていたが、彼が背中に大火傷をして重症であることを確かめると満足げに引き上げていった。直接に手を下して止めを刺すことは差し控えたようだ。

 しばらくじっとしていて、もう誰も来ないとわかると大己貴をはじめ怪我の軽い数人が立ち上がった。そして倒れている者の手当てを始めた。幸いなことに手当てによってほとんどは回復し、非常な重傷者は数人であることがわかった。心得のある者が木を切って簡単な担架をこしらえ、その数人を担架に乗せて元来た道を麓に降りた。
麓のムラでムラ人の助けを借りて怪我人の手当てをさらに行い、暫く休んでから青谷上寺地ムラへと引き返した。
 一行はほうほうの態で青谷上寺地ムラに戻った。因幡の首長は驚いて一行を迎え、とにかくゆっくりと休養をとらせてくれた。幸い、大己貴が元気あることを知ると不幸中の幸いと喜んでくれた。
 ところが喜んでばかりもおられなかった。大己貴が元気であることが出雲に知られたようで、出雲から武装した集団がこちらに向かっているという知らせが入った。
 今度襲われたら命が危ない。因幡の首長に負傷者の手当てと匿いを依頼し、しっかり歩ける者はヤマトに引き上げることにした。因幡の首長もその考えに賛同して、旅の準備を整えてくれた。

大己貴一行は夜に日を継いで道を急ぎ、播磨のカモの郡に着いた。疲れ果てた彼らを首長は一晩暖かくもてなしてくれた。彼は八十神達が大己貴を追っているという情報をすでに掴んでいた。そして大己貴に言った。
 「ヤマトには戻らないで紀伊の熊野に行き、五十猛命のおじいさんに相談して御覧なさい。なんといってもいろいろな経験をお持ちだし、それに八十神も迂闊には手が出せませんから。」
 熊野の五十猛命(大屋彦命)は一・二回遊びに行った事があった。スサノオの最初の妻の子で同じカモ族なのである。まだ五十代なのでおじいさんという年齢ではないが威厳があり、おじいさんと呼ばれていた。
 翌日、カモの郡の首長が手配してくれた漕ぎ手三十人の大型快速船に乗り、大己貴らは熊野に向かった。

五十猛命の奇策

 五十猛命は八十神の異母兄にあたるので一抹の不安はあったが、会ってみると五十猛は彼の苦労を労ってくれた。「わしの弟達では出雲を駄目にしてしまう。器量が小さくて父のあとの出雲首長は任せられない。あんたのほうが適任じゃ。まあ、わしに任せなさい。」と八十神たちへの対応を請け負ってくれた。
 そして大己貴達を熊野にではなく、海岸に近いムラにかくした。それから同じ人数の若者達を選び、大己貴によく似た服装をさせ、何か策を授けて北の山に行かせた。熊野からかろうじて見えるところに彼らは留まった。
 やがて八十神たちも熊野に上陸してきた。五十猛命は母は異なるものの兄なので、恭しく礼をしてから大己貴を匿っているはずだから引き渡しほしいと威圧的に申し出た。
 五十猛命は「確かに大己貴めらはわしを頼ってここにやってきた。しかしお前達が追っている大己貴をわしが受け入れるわけにはいかん。わしも追っ払った。ほら、見るがいい。あの山の取っ手に逃げていくのが大己貴らだ。すぐに追っかけるがいい。」
 五十猛の指差すところに大己貴の一行が小さく見えた。追いかければ半日もあれば追いつけそうだ。それっとばかりに八十神たちは偽の大己貴を追っていった。
 偽の大己貴らは八十神達を挑発しながら熊野の山中を十日あまりもあちこち逃げ回り、そして姿をかくしたのである。頭に血が上って追いかけた挙句、おかしいと感じて八十神たちが追跡をやめたときはすでに十日以上もたっていた。

 一方、五十猛は従者を連れて大己貴を隠していたムラに急いでやってくると、すぐに大己貴たちに出発の用意をさせた。そして驚いたことに五十猛自身が旅の支度をしていた。
 ひそかに隠しておいた大型快速船に乗り込むと西に向かった。紀州を回り瀬戸内海に入り、播磨の沖を通り過ぎ、吉備・安芸国境近くの港に入った。  
 五十猛は各地の首長達に植林を教えてまわったせいか、どこにでも旧知の首長がいた。その首長達の助けを借りて、出雲への最短ルートを通ることができた。しかし、どのルートかはもはやわからない。
 たとえば、
(一)尾道で上陸し、御調町、(旧)双三郡吉舎町、三次市、赤名峠、出雲神話街道、三刀屋へ至るルート、
(二)同じルートで途中の吉舎町から庄原市へ行き、高野町、王貫峠(おうぬきだわ、出雲風土記には三坂と記載され当時の主要道路であった)、仁多郡仁多町三成に至るルート、
(三)東城街道、すなわち瀬戸内海の福山に上陸し、油木、東城、油木、三井野越、横田、仁多郡仁多町三成に至るルート、
等が考えられる。

 古事記によれば大己貴はまずスサノオの長女、スセリ姫(須勢理毘売)を妻問いしている。
 出雲風土記によれば、スセリ姫は当時、神門の郡、滑狭の郷に住んでいた。そこは神門湖(現在の神西湖はその名残)の南東の湖岸で、現在の那売佐神社(出雲市東神西町)付近に相当する。近くの東神西町麓谷には巨大な滑らかな岩(出雲風土記では「滑磐」と記載)に水が流れてできた壷状の穴の開いた岩があり、すなわち「岩坪(岩壷)」で現在は林道により水が枯れてしまっているが、この岩壷がスセリ姫が産湯を使ったところだと言い伝えられている。
 出雲に残っている八十神たちに気づかれないようにスセリ姫のところに行こうとすると、
(四)上記(一)のルートで出雲神話街道を早々に上刀根で左折し、波多から波多川沿いの道を北上して佐田で神戸川に出、神戸川に沿って神門に至るルート、または神戸川を越えて北東に道を取ると滑狭に至るルート、
(五)上記(一)のルートで出雲神話街道を三刀屋の手前、栗原というところで左折して山を越え、朝山に出て神戸川に沿う道に出るルートなども可能性が高い。

 五十猛命は大己貴らを近くに隠してから、スセリ姫の家の戸をたたいた。
 五十猛はスセリ姫の異母兄で今は遠くに住んでいるとはいえ、かって五十猛が出雲に住んでいた頃はまるで父親のように面倒をみたこともあったと思われる。
 その五十猛が突然訪れて急な話があるという。スセリ姫はびっくりしたのに違いない。
 話は単刀直入に八十神達では出雲を治めるのには力量が不足していること、大己貴というカモ族の若く輝く星が現れ、天照ヒルメ姫から出雲を治めるように指名されたこと、彼なら出雲を治める力量があることなどを説明した。
 彼女にしてみれば、自分の弟達を見捨てる話なのでなかなかウンとはいわなかったと思われるが、最後にしぶしぶながら「その大己貴という男が自分の眼鏡にかなえば」という条件で納得したのに違いない。
 早速、大己貴らが呼ばれてやってきた。ところが一目見て彼女はぞっこん惚れてしまった。「須勢理毘売、出で見て、目合して、相婚ひたまひて・・・・」(古事記)とい次第になってしまった。そしてその夜に婚礼が行われた。
 考えてみるとスセリ姫は大己貴よりも十歳以上も年上ではなかったかと思われる。大己貴も大変である。

大己貴、出雲首長(国造)となる

 翌日、五十猛はスセリ姫にスサノオの愛用していた服を出すように命じた。スセリ姫が遺品の服を探し出していぶかしげに五十猛に渡した。五十猛はその場でそれに着替えた。見るとスセリ姫も驚くぐらい父スサノオに似ているのである。
 スサノオに変装した五十猛はスセリ姫と大己貴を従えて、須賀にあるスサノオの政庁に向かった(雲南市大東町須賀)。
 スサノオがヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治したあと、クシナダ姫(櫛名田比売)との結婚新居を須賀に定め、

  「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

と読んだのが和歌の始まりとある。
 須賀は洪水などの災害が少なく、しかも道が八方に通じて便利なために、政庁をもそこに置かれた。

 須賀に着くと五十猛はすぐに武器庫に向かった。武器庫の前にはいつも数人の門番がいて、しっかりと守っている。しかし、死んだ筈のスサノオが突然現れたのである。しかもスセリ姫とその夫の様子をした男がその後ろに従っている。門番達は混乱と驚愕に陥り、なすすべを知らず、たちまち平伏してしまった。
 スサノオは重々しく宣言した。
 「ここに控えるのスセリ姫の夫たる大己貴である。この男がそなた達の今後の主である。今後は八十神達ではなく、大己貴の指揮に従うように。また武器庫の鍵を大己貴に差し出すが良い。」
 「ははっ」と門番達は平伏しながら答えるのやっとである。こうして武器庫の鍵は大己貴に渡された。
 それからいよいよ一行は政庁に乗り込んだ。
 政庁にいた人々も、スサノオとスセリ姫とその夫、大己貴それに従者達を見て、同様に驚愕と混乱に陥った。
 スサノオはやはり同じような宣告を行った。
 「つらつら我が息子達の政治を見るに未熟である。息子達に出雲は任せられないと決断したので、私はこうしてこの世に舞い戻った。ここに控える大己貴は若いながらも実力のある男である。ヤマトのカモ族出身で、カモ族が天下をとるには、この男の下に結集するのが、我々カモ族のつとめである。我が娘、スセリ姫もまったく同じ考えである。」
 生き返ったスサノオとスセリ姫が同じ意見なら、誰も反対することはできない。留守を預かる人々はあっけなく大己貴に忠誠を誓うことになった。

 それからスサノオは人々に蛇、ムカデ、蜂を捕まえてくるように命令した。数日後にそれらを持って人々が集まった。その夜、スサノオは政庁の一室に蛇を放ち、その部屋に大己貴を入れた。大己貴にはひそかに蛇の嫌うドクダミ草の汁を全身に塗ってあった。またスセリ姫が蛇よけのスカーフ(蛇のひれ)大己貴の首に巻きつけた。どちらが効いたのかわからないが蛇は寄ってこず、大己貴は翌朝、元気で姿を現した。
 次の夜は部屋にムカデと蜂を放した。その部屋にはそっと火付け木と楠の枯葉が入れてあった。大己貴はその部屋の閉じ込められるとすぐに火付け木で火をおこして枯葉に移し、身の回りに置いた。枯葉の煙によってムカデも蜂も寄ってこなかった。翌朝も大己貴は元気に部屋から出てきた。
 その次の日はスサノオは人々集めて山の麓に連れて行った。そこは彼自身が若い頃に猪や鹿を捕らえて遊んだところであった。そこには実は動物を捕らえるための落とし穴が掘ってあった。密かに人をやってその落とし穴を調べさせたところ、まだその穴が残っていた。その穴をもう一度掘り返し、中に水を入れた皮袋をいくつも置いておいた。そして当日、その穴に人を隠しておいた。勿論、大己貴にもそのカラクリを説明しておいた。
 人々が見ている前でスサノオは鳴鏑を射て大己貴に取りに行かせ、すぐに周囲の野原に火を放った。たちまち大己貴は火と煙に囲まれて姿が見えなくなった。
 穴に隠れていた男が飛び出してきて大己貴を隠し穴に導き、皮袋の口をあけて水を大己貴の体に浴びせた。そして火が通り過ぎるのを待った。
 古事記は次のように記載する。
 「鼠来て云ひけらく、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。かく言へる故に、其處を踏みしかば、落ちて隠れり入りし間に火は焼け過ぎき。」
 見ている人々がすべて大己貴は焼け死んだと思う頃に、大己貴は焼け野原の中から鳴鏑の矢を持って現れた。人々はあっと驚き、おもわず跪いた。
 これで大己貴が並みの人ではないことがはっきりした。見ていた人々の間に大己貴を敬う気分が行き渡った。
 スサノオは皆を政庁に連れ戻し、皆の前で八十神が本当のスサノオから引き継いだ「生太刀」と「生弓矢」を大己貴に授けて厳かに言った。
 「我が女スセリ姫(須世理毘売)を嫡妻(=正妻)として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽たかしりて居れ。この奴。」
 そしてその夜、五十猛が扮したスサノオは人々の前から姿を消したのであった。

大己貴命の婚姻政策
 
 こうして大己貴は須賀にあったスサノオの政庁を廃し、島根半島、出雲の宇賀(出雲市口宇賀町から奥宇賀町)に政庁を移した。その頃、宍道湖は西に広がっており(現在の出雲市美談町付近から簸川郡斐川町直江付近までと考えられている)、宇賀まで三キロメートル足らずの近さである。また日本海にも近く、例えば十六島港まで約三キロメートルである。すなわち、海上交通を重視した立地であった。十六島は現在は高級海苔で有名である。
 なお、大己貴は政庁を宇賀からさらに斐伊川の中流、雲南市三刀屋町に移すのであるが、いつ移したかは記録がないようである。

 宇賀に政庁を開いてまず行ったのはヤマトの天照ヒルメ姫への報告である。ヒルメ姫はあまり期待していなかったし、もし成功しても一年も二年も先と考えていたので驚くと同時に、彼を非常に評価するようになった。
 彼女からは恩賞の品々を携えて天菩比命が補佐役兼監視役として送られてきた。これは明らかに大己貴が国造であることを示している。天菩比命は天忍穂耳命の弟で温厚かつ誠実な人であったようだ。それに年齢が大己貴より年上で経験も豊富であった。大己貴はその後、天菩比命を非常に信頼するようになる。
 それから出雲に帰国しようとした八十神達を主要道路に関所を設けて入国を阻止し、大己貴に忠誠を誓う者だけに入国を許し、出雲の国の東半、意宇の郡とか島根半島の東半部に住むことを許した。
 また宇賀の豪族の娘、アヤト(綾門)姫と結婚して宇賀の民心を掌握する。
 それからスセリ姫の妹で八野の郷に住んでいたヤノワカ(八野若)姫とも結婚し、スサノオ一族の信頼をより確固なものとした。
 さて、スサノオにはクシナダ姫との間にヤシマジヌミという男子が生まれている(古事記)。ところが大己貴はヤシマムヂという名の神の娘トリミミと結婚し、その子孫は婚姻関係の名前からすると何代にもわたって出雲に住んだようである。ヤシマジヌミとヤシマムヂと名前が似ているので同一人とすれば、大己貴はスサノオの孫娘とも結婚したことになる。
 また、神門の郡の豪族の娘、朝山の郷のタマノムラ(玉之邑)姫と結婚する。このようにして出雲郡、神門郡をしっかり固め、次第に支配地域を広げていった。
 次に、因幡の八上姫を呼び寄せて結婚し、因幡との関係を強固にする。
 しかし、このあたりからスセリ姫の態度が変わってきた。すなわち「いたく嫉妬するようになった」のである。古事記では「甚く嫉妬したまひき」とある。ヤノワカ姫、タマノムラ姫、アヤト姫までは許せるが、この男は出雲のためと言って新しい女性を連れてくる。自分の立場はどうなるのだ、と怒りだしたのである。もっともなことである。
 八上姫は島根県簸川郡斐川町直江の御井神社の辺りに住まわせられて当然の如く妊娠した(神社御由緒では呼び寄せられたときにはすでに妊娠していたとある)。
 しかし、大己貴はスセリ姫に気兼ねして、出産前後の八上姫の面倒をあまり見なかったようで、八上姫はその冷たい仕打ちに腹を立て、生まれた子を木の股にはさんで因幡に帰ってしまったと古事記に記載されている。

大己貴命、スサノオの軍事力を引き継ぐ

 さて、須賀の武器庫を調べた大己貴は驚嘆した。スサノオが大量の銅剣を保管していたからである。それは実用的なもので、重くもなく、軽くもなく、実に武器として使いやすいものであった。考古学的には中細型というものである。この銅剣はスサノオが出雲の首長となる以前から製作、貯蔵されていてもので、スサノオがさらに製作追加したものである。数えてみると数百本もあった。
 しかも、スサノオは百姓の中から若くて力の強い男を選び出して特別に訓練していた。銅剣、銅矛などを自由に扱う精鋭部隊をいくつも編成していた。出雲では百姓とは農作業ばかりでなく、必要に応じて軍人にもなり、船も漕ぎ、銅剣も作り、さらに製鉄もおこなう民であった。
 大己貴も時にこの軍事力を行使するようになる。その時だけ彼は八千矛の神と呼ばれるのである。

大己貴命、スサノオを祭る但馬、近江などの郡の首長にスサノオの後継者となったことを知らせる

 スサノオはヤマトではごく短期間、首長を務めただけであったが、戦にかけてはなかなかの上手であった。出雲にあってもその評判はあったようである。しかし、出雲では戦いよりも積極的な外交を行い、各地の首長と友好を保つことに腐心した。以下の土地の首長たちは彼を祭る神社を創祀し、彼や出雲の人々が旅行するときには歓待した。いわゆる兵主(ひょうす、ひょうず、ひよす)神社である。兵主という名前にはスサノオの戦上手を讃える意味も籠められている。
 大己貴もこれら首長との友好関係を一層強め、兵主神社のなかにはその後、祭神をスサノオから大己貴に替えた神社もあるようである。
 主に延喜式神名帳よりピックアップすると、
 因幡国 巨濃郡 佐弥之兵主神社 (鳥取県岩美郡岩美町大字河崎)
 因幡国 巨濃郡 許野之兵主神社 (鳥取県岩美郡岩美町大字浦富)

 但馬国 朝来郡 兵主神社    (兵庫県朝来市山東町柿坪字棚田)
 但馬国 養父郡 更杵村兵主神社 (兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷)
 但馬国 養父郡 兵主神社    (兵庫県豊岡市日高町浅倉)
 但馬国 気多郡 久刀寸兵主神社 (兵庫県豊岡市日高町久斗字クルビ))
 但馬国 出石郡 大生部兵主神社 (兵庫県豊岡市但東町薬王寺)
 但馬国 出石郡 大生部兵主神社 (兵庫県豊岡市奥野字宮)
 但馬国 出石郡 穴見郷戸主大生部兵主神社 (兵庫県豊岡市三宅字大森)
但馬国 城崎郡 兵主神社    (兵庫県豊岡市赤石字下谷)
 但馬国 城崎郡 兵主神社二座  (兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)

 近江国 伊香郡 兵主神社    (滋賀県伊香郡高月町横山)
 近江国 伊香郡 兵主神社    (滋賀県東浅井郡湖北町高田)

 さらに付け加えたいのはスサノオの子の大年神の子の大山咋神(すなわちスサノオの孫)と友好関係を持ったことである。大山咋は琵琶湖沿岸西部から京都盆地に勢力を張っていた。比叡山の東西ということになる。比叡山の東麓には大山咋神を祭る日吉大社がある。「ひよす(兵主)」と「ひよし(日吉)」となんとなく発音が似ているのは興味あるところである。
 大山咋は大己貴命を祭る神社を日吉大社の近く穴太郡に創祀した。後年、琵琶湖を渡って野洲の郡に移り、現在の兵主大社となる。

 結果として、大己貴は因幡、但馬、琵琶湖を自由に通行できることになった。

大己貴命、出雲の貿易立国を図る

大己貴はクニとしての出雲を次のように考えた。
(一)平野が狭く、稲の収穫はヤマトにはとても及ばない。少ないどころかむしろ人々を養うのに足らないくらいである。
(二)鉄の生産が多く、さらに鉄器製作加工、青銅器製作加工にすぐれた技術集団がいる。
(三)玉造(花仙山)で青メノウ(碧玉)が産生され、その(勾玉)加工技術にすぐれている。
(四)日本海の荒波をものともせずに航海する、すぐれた操船技術をもつ船乗り集団が島根半島の各港にいる。また島根半島は入り江が多く、良港がいくつもある。

 以上の分析から導かれる出雲の発展策はおのずと明らかで、貿易立国をスサノオ時代以上に推し進めることであると確信するに至った。
 まず青メノウの販売であるが、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)や帯方郡に持っていけば、非常に高く売れる。狗邪韓国(当時、倭人が大勢住んでいた)は朝鮮半島南端にあるクニであるが、そこに持っていけば極上の鉄?(板状の鉄)・鉄斧と交換できる。出雲鉄は良質であるがまだまだ狗邪韓国鉄には及ばない。
 朝鮮半島への貿易ルートであるが、スサノオと天照ヒルメ姫との誓約で、北九州、壱岐、対馬ルートはヒルメ姫が取り、福岡県宗像郡玄海町田島(現在、宗像大社がある)、大島、沖ノ島ルートはスサノオが取っている。このスサノオルートを再確認することから始めた。

大己貴命、タキリ姫およびタキツ姫と結婚する

 スサノオルートは宗像の首長が協力してくれないことには成り立たない。大己貴はすぐに宗像まで赴いたことは間違いない。そしてどのような条件を出したかはわからないが、宗像の首長とは緊密な関係を打ち立てることに成功した。おそらく青メノウの北九州における販売権を彼に任せたのであろう。
その関係を長く維持するために大己貴が求めたことは宗像三神社のうち、沖ノ島、玄海町田島の二神社(奥津宮と辺津宮)の巫女を妻として迎えることであった。それぞれ、タキリ姫(多紀理毘売)とタキツ姫(田寸津比売)いう。タキリ姫はタコリ姫ともいい、タキツ姫はタカツ姫ともいう(先代旧事本紀)。古事記では辺津宮のタキツ姫はカムヤタテ姫(神屋楯比売)となっている。両神社は現在は女人禁制で女性が島に上陸することも出来ないが、当時は巫女がいたものと考えられる。
 新しく二人の妻を伴って出雲に帰ってきた彼には嫉妬深いスセリ姫が待っていた。他の妻も勿論黙ってはいなかっただろう。彼がどのように今までの妻をなだめすかしたのかは男なら誰しも聞いてみたいものである。
 しかし、いずれにしてもタキリ姫にはアヂスキタカヒコネ(味?高日子根命)という男子とシタテル姫(下照比売)が生まれた。またタキツ姫にはコトシロヌシ(事代主命)という男子とタカテル姫(高照比売)が生まれた。
 さらに京都府宮津市の籠神社に伝わる海部氏「勘注系図」では高照姫はまたの名を天道日女といい、彦火明命の妻となっている。彦火明命はニギハヤヒ(邇芸速日、饒速日)のことで、ニニギ(邇邇芸)の兄である。

 
天照大御神の天璽瑞宝十種

 先代旧事本紀によれば、天照ヒルメ姫は後継者と定めたオシホミミ(忍穂耳)に天璽瑞宝十種として息津鏡、辺津鏡、八握の剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉 、蛇のヒレ、蜂のヒレ、くさぐさの物のヒレを授ける。
 息津鏡、辺津鏡というのは宗像の(沖ノ島)奥津宮、(田島)辺津宮に伝来する前漢鏡および後漢鏡を指す。大己貴は奥津宮のタキリ(多紀理)姫、および辺津宮のタキツ(神屋楯)姫と結婚し、二つの鏡を手に入れたと考えられる。
 八握の剣とははっきりしないが、須佐之男の太刀、生太刀でよい。生太刀というのはもしかすると八岐大蛇を切った「蛇の麁正」かもしれない。
 生玉、死反玉、足玉、道反玉はまさに八十神が大己貴を殺そうとしたときに彼を救い、黄泉の国から生還させたと当時の人たちが信じたものである。
 蛇のヒレ、蜂のヒレはスセリ姫が授けたものである。
 そうすると天照大御神が忍穂耳に授けたものと同じ内容のものを大己貴も持ったことになる。こうしてチャンスがあれば、忍穂耳に代って天照ヒルメ姫の後継者たらんと大己貴が考えるようなったとしても不自然ではない。

大己貴命、越のヌナカワ姫と結婚する

 それから越のヌナカワ(沼河・奴奈川)姫(比売)と結婚する。ヌナカワは地名で平安時代に編集された和名抄には越後国頸城郡沼川郷となっており、そこを流れる川が沼河である。現在の新潟県糸魚川市の姫川に当たる。糸魚川南西約六キロメートルの黒姫山を南は小滝川(姫川の支流)が流れ、西側を青梅川が流れる。どちらも極上のヒスイを産する。ヒスイはメノウよりもさらに硬く、緑色が深い。したがって、大変高価で大きなクニの首長クラスしか買えないものであった。この結婚後、大国主は山陰地方、北九州、朝鮮半島などへのヒスイの販売権を獲得したことになる。
 結婚は大国主が越の国まで赴いて行われた。古事記ではヌナカワ姫は初め結婚を嫌がっていたが、大国主が切々たる恋の歌を捧げたので心が動いて受け入れの歌を詠む。しかし、地元の伝説ではそうではない。大己貴がヒスイ交易を申し込んだがヌナカワ姫が拒絶したために大己貴は武力に訴える。彼女はすでに結婚しており、彼女の夫が大己貴と対決するが敗れ、夫は死亡する。逃げる彼女を追い詰めた大己貴が降伏を勧める長歌を送る。ヌナカワ姫は次のような歌を返して大己貴に従うのである。二人の間に交わされた歌が非常に文学的で後世まで伝えられたのである。
 
  八千矛の神の命
  ぬえ草の 女にしあれば
  我が心 浦渚の鳥ぞ
  今こそは 我鳥にあらめ 
  後は 汝鳥にあらむを
  いのちは な殺せたまひそ
  いしたふや 天馳使
  事の語りごとも 是をば

  青山に日が隠らば
  ぬば玉の 夜は出でなむ
  朝日の 笑み栄え来て
  たくづなの 白き腕
  沫雪の若やる胸を
  そだたき たたき まながり
  真玉手 玉手さし枕き
  ももながに 寝は寝さむを
  あやにな 恋ひ聞こし
  八千矛の神の命
  事の語言も 是をば

二人は糸魚川市東方約十五キロメートルの鉾ヶ岳の麓でしばらくの間新婚生活を送った後、出雲に行き、二人の間にはミホススミ(御穂須須美命)が生まれた。その子は成人して建御名方となる。ヌナカワ姫はその子を残してやがて越の国へ戻ってしまう。出雲での結婚生活は幸せではなかったようだ。


第三章 邪馬台国を取り巻く国際情勢

大己貴命、ヤマトのヒルメ姫に年次報告を開始する

 出雲を掌握し、越の沼河を従え、勿論、その途中のクニグニとの友好関係を樹立した大己貴は天照ヒルメ姫に報告するためにヤマトに戻った。

☆ 古事記には大己貴がヤマトに旅立つときに、スセリ姫と大己貴が交わした愛の歌というよりはスセリ姫の嫉妬を大己貴がなだめた歌を載せる。魏志倭人伝では「倭は一夫多妻なのに妻は嫉妬しない」と書かれているが、スセリ姫の嫉妬の歌が言い伝えられているのだから事実ではない。

  「八千矛の神の命や 吾が大国主
  汝こそは男に坐せば 打ち廻る島の埼埼 かき廻る磯の埼落ちず
  若草の妻持たせらめ
  吾はもよ 女にしあれば 汝を除て男は無し 汝を除て夫は無し」

    八千矛の神も命よ わが大国主よ
    あなたは男だから 行く先々に若草の妻をもつ
    わたしは女だから あなた以外に男も夫もいない

 それに対して大己貴は、
  「ぬばたまの黒き御衣を まつぶさに取り装ひ
   沖つ鳥胸見る時 はたたぎもこれは適はず 辺つ波 そに脱き棄て
  ?鳥の青き御衣を まつぶさに取り装ひ
   沖つ鳥胸見る時 はたたぎもこれも適はず 辺つ波 そに脱き棄て
  山縣に蒔きし茜舂き 染木が汁に染め衣をまつぶさに取り装ひ
   沖つ鳥胸見る時 はたたぎも此し宜し

  いとこやの妹の命 
   群鳥の我が群れ往なば 引け鳥の我が引け往なば
  泣かじとは汝は言ふとも 山処の一本薄 項傾し 汝が泣かさまく
   朝雨の 霧に立たむぞ
  若草の妻の命 
   事の語言も 是をば」

    ぬばたまの黒い服をちょっと着てはみても、
    沖に漂う白鳥の、首を曲げて上から見ると胸の形や袖具合、
     似合わないのですぐ脱ぎ捨てる。
    カワセミの青い服をちょっと着てはみても、
    波に漂う白鳥の、首を曲げて上から見ると胸の形や袖具合、
     似合わないのですぐ脱ぎ捨てる。
    山際に蒔いた茜で染めた真っ赤な服、すっと着てみると、
    波に漂う白鳥の、首を曲げて上から見ると胸の形も袖具合も、
     やっぱり自分に一番似合っている。
    鳥が飛び立つように、自分が去ってしまえば、
    茜服を着たかわいい妻よ、お前は泣かないというけれど、
    ススキの穂のように、一人首うなだれて霧にむせび泣くだろう。
    お前こそ若草の妻、泣かせたりはしないよ。
 
 大己貴の歌で機嫌を直したスセリ姫の歌、
  「綾垣のふはやが下に 苧衾柔やが下に 栲衾さやぐが下に
  沫雪の若やる胸を 栲綱の白き腕 
  そだたき たたきまながり 眞玉手 玉手さし枕き
  百長に寝をし寝せ 豊御酒 奉らせ」

    せめて今宵は、
    ふわり綾織の衣桁の下、やわらか苧衾の下、さやさや栲衾の下、
    淡雪の弾む胸をつんつんと弾き、白き腕にあなたの玉手からませ、
    玉手さし枕き、百長に百長に寝をし寝せ
    さあ、一緒に酒を飲みましょうね。


 ヤマトへ戻ったのはおそらく、天照ヒルメ姫の指令を受けて出雲に赴いた一年後ぐらいであったろう。あたかも羽柴秀吉が安土城の織田信長に播磨征服を報告した時のように、多くの出雲物産を手土産にしてヤマトに帰ったに違いない。
 ヒルメ姫は非常に喜んでくれて、それに倍する物を下賜してくれた。
 また、ヒルメ姫から例えば、久努国の首長「卑弥弓呼」が相変わらず強硬な反抗態度を崩さないために、ヒルメ姫の全倭国に対する権威がゆらいで来ている事や、ヤマトの国家収入にも大きな影響が出ていることなども聞かされたことと思われる。
 それもあってヒルメ姫は大己貴を褒め称え、大己貴も感激して、これから毎年ヒルメ姫様にご報告に参りますと奏上したとすれば、考えすぎだろうか。
 大己貴がヤマトのヒルメ姫に一年に一回は報告に行くことは、クニの首長としてはもしかすると異例のことだったかも知れない。スサノオは勿論、王であったからそうしたことは行わなかったし、他のクニの首長も行ったようには考えられない。
 しかし大己貴は決心した。彼にはヒルメ姫の評価が何よりも励みになった。そう、彼には大きな目的があったのである。次期、ヤマトの首長として帰り咲きたいという気持ちがあったのである。

 それからヒルメ姫に是非とも許可してもらわないといけないことがあった。それは朝鮮の韓の国々や帯方郡との交易の許可である。
 こうした国々との交易は、ヒルメ姫の監督(そのために「大率」という監督官が伊都国に置かれていた)のもとに、対馬・壱岐・北九州諸国が行っていた。
 大己貴としては大率の監督を受けないで自由に交易を行いたかった。それをヒルメ姫に乞うたわけである。
 ヒルメ姫は難しい顔をしていたが、出雲特産の青メノウや越の国のヒスイなど、競合しない物産に限り許可してくれた。また、弁韓の鉄に関しても、一定の割合で分けてもらえることになった。ただ、必要に応じて大率に報告し、争いにならないようにすることという条件がつけられた。この許可は大率にも早急に伝えようと付け加えた。

 それからヒルメ姫は遠いところを見るような目つきで物語をし始めた。それは姫がこれまで行ってきた中国や朝鮮半島との外交の歴史であった。

ヒルメ姫の物語

 私は進んでヤマトの王になったのではない。スサノオの命が王になった時に天変地異が相次ぎ、疫病が流行り、これはスサノオの命が王となったことを神々が怒っておられるからだということになり、諸国が反乱を起こした。ヤマトはすでに倭国全体を統治するクニになっていたから、諸国が臣従するような人間でないと、ヤマトの王を続けることができなくなっていたのだ。
 そして、乱れに乱れた争いの結末として政治色が最もなく、それでいて人の上に立てる人間として私が選ばれたのだ。私はその時、倭国ではもっとも厳かな宗像の神の社の奥津宮(沖ノ島)に仕える神聖な巫女だった。ただそれだけで選ばれたのだ。しかもそのとき私はたった十六歳だった。
 宗像の奥津宮、中津宮、辺津宮のうち、奥津宮が一番神聖な宮だ。けれども海の中にあって一番危険な宮、その宮の巫女は一人ではなかったけれどすべて近くのクニグニの首長の娘だった。
 私は年は若かったが伊都国王の娘だったから十六歳でも巫女の中で一番位が上だった。巫女になれば神に仕える身、もう親子の関係も断ち切られた。それに父親よりも私のほうが位が上になったのだ。

 私はそのまま何もなく年を重ねれば、やがては宗像神社を統括する立場になることを約されていた。しかし、私はスサノオと立場が入れ替わることになり、そのための「誓い」を行った。
 「誓い」のあと、私はヤマトの王となり、スサノオは宗像神社の神官すなわち、この世の宗教的最高権威者になったのだ。それは紀元一八四年、中国暦では和光七年(その年は十二月から中平元年)だった。
 ヤマトには四人の有力者(魏志倭人伝では「伊支馬」、「弥馬升」、「弥馬獲支」、「奴佳?」)がいて、その子達にはアメノオシホミミ(天忍穂耳)アメノホヒ(天菩比)兄弟、アマツヒコネ(天津彦根)、イクツヒコネ(生津彦根)、クマノクスビ(熊野久須毘)達がいて、私はいずれそのうちオシホミミに王位を譲ることになっていた。

 私がヤマトの王になった年に中国・後漢の霊帝様に報告を兼ねて使節を派遣した。使節団の大使はオモイカネ(思兼、思金)が務めた。
 オモイカネ達一行が楽浪郡に着いたところ、そこで足止めを食ってしまった。なんでも漢の広い範囲で一斉に乱が起こり、乱を起した連中は黄巾といって黄色の帽子をかぶっていたそうな(黄巾の乱)。乱の張本人は張角という男で、その男が二人の弟、張宝、張梁と一緒に、都の洛陽の北、鉅鹿というところで乱を指導していた。それで洛陽も危険だということなったという。
 その年の十一月にようやく乱が収まって、十二月に中平と年号が改まり、厳重な護衛のもとにオモイカネ達は首都洛陽に上洛した。そして霊帝様にお目どおりして、非常に喜ばれ、沢山の下賜品を頂いた。特に豪華な絹織物や銅鏡(画文帯神獣鏡)と刀(中平銘刀)は立派で私の部屋にずっと置いてあるし、私の心の支えとなっている。
 オモイカネ一行が無事で帰ってきた時はそれはそれは大変なお祭り騒ぎだった。ずっと音信不通だったからもう死んでしまったのではないかと誰もが思っていたからね。
 こうして私は晴れて倭国全体の王となったのだ。銅鏡はよく似た模様のものが沢山もあって、霊帝様が特別に私のために鋳ていただいたということであった。一番気に入ったものは数枚手元においてあるが、残りは各地の首長に折に触れてお分けした。皆、それを喜んでくれた。

 スサノオは宗像神社で神に仕える日々を送っていたが、心が落ち着くと不満に思うようになった。若い身でヤマトから追放されたわけだから、納得できなかったのだ。そして一旦はヤマトを離れたのにまたヤマトに舞い戻り、私に対するさまざまな嫌がらせを始めた。
 嫌がらせが次第にエスカレートしてヤマトが彼のために滅茶苦茶になりかけたときに、オモイカネは突然私に言ったのだった。「天の香具山の麓に天の岩戸(岩屋戸)がある。そこに籠もりなさい」と。そうそう、彼はその前に後漢から持ち帰った暦を一心に読みふけって何回も何回も指折り数えて計算していたが、私には彼が何を計算していたのかその時はわからなかった。
 とにかく言われるままに私が天の岩戸に身を隠した。あとはオモイカネが私をそこから出すためにいろいろな儀式を行った。そして思いがけなく日食が起こったのだ(太陽暦一八九年、中平六年五月三日:NASAのeclipseホームページ参照)。今になって考えるとオモイカネはそれを予見できたらしい。
 私が天の岩戸に籠もったことを神が怒っていることがはっきりしたので人々がスサノオを責め、彼も納得してヤマトを離れることになったのだ。こうして私は日輪の子であることがはっきりし、私の王たる権威は確立した。
 それからまたまたせめてものこととしてスサノオを出雲の王にしてやった。でも一代限りの約束だったから、スサノオ亡き後は息子達には王権は与えられない。そこでお前を国造として赴任させたわけだ。

 さて、話を後漢に戻そう。   
 嘆かわしいことには、楽浪郡に何回か使いをやっては情報を集めるのだが、とにかく後漢という国が瓦解しつつあることだけしかわからなかった。それと大勢の人々が悲惨な状態に追い込まれたり、殺されたりするという恐ろしい話が伝わってきたのだ。
 スサノオの乱行がおさまった直後、中平六年、楽浪郡に使いをやると、霊帝様がご病気で突然お亡くなりになり、お子達の二人のうち兄が即位された(少帝)が、朝廷の中では荷進、蹇碩という二人の大臣が権力争いに明け暮れて、もはやまともな政治が行われていないという。楽浪郡自体も本国の影響を受けて落ち着きがなくなっていた。
 中国の様子が知りたくて、翌年も楽浪に使いをやると多くの情報を持って帰ってきた。
 前年の後半には荷進、蹇碩二人とも殺されてしまい、今度は菫卓という荒くれ男が太師という勝手な位を作って実権を握り、少帝をたった五ヶ月で廃して弟御を皇帝にし(献帝)、その年(一九○)の初めに都を洛陽から長安に移し、年号を初平と代えてしまっていた。
 同じく前年後半に、楽浪郡の北隣の遼東郡に公孫度(公孫が姓、度が名)殿という男が新しく太守に任命されて郡都・襄平(現:遼陽市)にやってきたが、気に入らない上級官吏や豪族を片っ端から有罪に仕立てては殺していた。
 年が明けると公孫度殿は周囲に自立を宣言し、前漢の高祖、後漢の光武帝の霊廟を立て、漢の後裔のように振る舞い、勝手に遼東侯、平州牧(牧は州長官のこと)と名乗っているという。
 公孫度殿は襄平の出身だが、北隣の玄莵郡の太守、公孫域殿に育てられ、官吏として次第に出世して冀州刺吏になったが、故あって罷免になった。そのとき遼東郡出身の徐栄という男が菫卓の幕僚におり、彼の推薦で遼東太守に栄転したという。
 この話をしてくれた楽浪郡太守は落ち着かない様子で、それでもありったけのものを下賜してくれて、「この有様やからたいしたものもお返しできない。」と本当に済まなさそうに言ったと使いは報告したものだ。

 それから六年たって、私ももう二十八歳になっていたが、楽浪郡に使いをやると状態は一変していた。
 その年は中国暦では建安元年(一九六)であったが、楽浪郡には公孫度殿が派遣した補佐役というのが来ていて、太守より威張っていた。太守の話では後漢という国自体が瓦解しており、献帝様が長安から洛陽に逃げ戻られたが、お仕えする人がほとんどいない状態で、勿論、政治は行われなくなっていた。こうした有様だから、楽浪郡守は公孫度殿に実権を握られても、反抗する気もなく、むしろかえって安心している風だった。
 遼東郡には襄平の南に鞍山という所があり、そこで鉄が採れるので公孫度殿も財力を持つようになり、楽浪郡も財政的に援助を受けているらしく、下賜された物も前回ほど貧弱ではなかった。
 それから後になってわかったことだが、中国ではその年に曹操という男が時節に巡り合ったというのか、実力を発揮しだしたというのか、?州(山東省)で起こった黄巾の残党百万の乱を鎮めて三十万を捕虜にし、その中から屈強の男を選んで青州軍を編成して洛陽のある河南省北部から山東省一帯(黄河の南側約二百キロメートル一帯、かつ洛陽から東)を支配した。そして献帝様を安全な許昌という街に一応「宮殿」を築いてお移り申し上げた。まだ四十代半ばというからなかなかの男と思われたが、献帝様より土地と人民を掌握する司空、実戦部隊を指揮する車騎将軍、治安を司る司隷校尉(警視総監)、行政の長官たる録尚書事(総理大臣にあたる)などを頂いたと言うから抜け目ない面があったわけだ。ただ、そうした権力を握っても恐怖政治をやらず、人間を使うのがうまく、人々を貧困に落とさないようにしていることが次第にわかったので、私も少しずつ親しみを覚えるようになった。

 それから八年後、中国暦では建安九年、私が三十六歳の年に、楽浪郡から伊都に使いが来て、遼東の公孫度殿が亡くなられ、ご子息の康殿が跡を継がれたと言って来られた。ただ、弔問はあたらしく作った帯方郡で受け付けるという。
 詳しいことを知るために、伊都に置いた大率を呼び戻して聞いてみると、康殿は父親の喪もそこそこに朝鮮で活動しているという。
 楽浪郡の南といえば馬韓だが、その馬韓との境界一帯が荒地になっている。そこには中国の戦乱を逃れて来た人々が住み着いて開墾に従事していた。公孫康殿は彼らを保護するためと称して、方一里(一里は約五三五メートル)を少し越すぐらいの広さに土塁を築いてそこに人々を住まわせて帯方郡治とし、公孫摸という男をその帯方郡太守に任命して、周囲のいくつかの県をたばねさせてた。
 早速、度殿の弔問を兼ねて、公孫康殿の遼東郡太守就任祝賀使を送ったが、使いはたまたま帯方郡に巡視に来ておられた康殿にお目通りすることができた。康殿というのは若くてエネルギッシュだが、気位が高い人で、こちらに対する扱いが一国の使節に対するものというよりは属国に対する扱いだったと帰ってきた使いが憤慨しながら報告してくれた。
 その後の情報では馬韓、弁韓、辰韓の三韓や?に朝貢を強要して、応じないと兵を出してどの国も属国のようにしてしまった。それ以来、私は公孫康という男が好きになれなかった。
 それから三年後、建安十二年の秋に帯方郡に使いをやるとまたいくつかの情報をもらって帰ってきた。
 その最大の情報は、曹操殿が黄河の北一帯を手中に収め、南は揚子江まで支配域を広げ、もとの漢の地を六割近く回復されたことであった。黄河の北は袁という一族が支配していたのを激しい戦いで袁一族を追い払ってしまわれた。袁尚、袁熙という二人が追い払われた張本人であったが、その二人が遼東郡に逃げ込んできたので公孫康殿が捉えて首をはね、曹操殿に送り、それに応えて曹操殿が献帝皇帝様に上表して、公孫康殿に左将軍・襄平侯という高い位を授けられたという話であった。
 この時以来、曹操殿の領地と公孫康殿の領地とは直接に接することになり、微妙な関係になってきたと見たが、曹操殿が南方の呉などとの戦いに手一杯でこちらには手が廻らないということであった。だから一時的ながら遼東は平和であった。

 それからも帯方郡にしばしば使いをやって、いろいろと中国や遼東の情報を集めた。
 私が四十歳の時、曹操殿が揚子江(長江)の赤壁まで出かけて呉の孫権殿に戦いを挑まれたが予想外の大敗を喫し、結局、天下統一ができなくなってしまった。
 私が四十五歳の時、曹操殿が魏公というたいそうな爵位を戴いた。
 私が四十六歳の時、劉備という男が蜀の中心、益州を乗っ取った。しかし、その後善政を布き、政権は安定しているという。劉備殿という男は前漢の景帝様という方の血を引いておられるというので、後漢を継ぐ正当性を唱えているという。
 それから、劉備殿には諸葛孔明という神様のような知恵を持った男が仕えているということも聞いた。
 私が四十八歳の時、曹操殿が魏王になられたと聞いたときは驚いた。それまでは献帝皇帝を立てて、漢を再興するとばかり思っていたから、これは本当に漢もおしまいだと感じた。おそらく曹操殿は漢に代わる国をお作りになると見当がついた。それ以来、違う意味で曹操殿に注目するようになった。
 私が四十九歳のときに公孫康殿が突然亡くなられた。その御子達お二人がまだ未成年であったので、康殿の弟で恭殿が政権を継がれた。恭殿は兄のご長男・晃殿を人質として曹操殿の手元に送られた。こうして曹操殿に臣従することを誓われた。
 私が五十二歳になった年の正月に曹操殿が亡くなられた。お歳は六十六歳であったとお聞きした。これは大変なことになったと思ったが、魏の国は少しもぐらつかず、ご長男の曹丕殿が政権を継がれた。そしてその年の十月に献帝様がその位を曹丕殿に譲られた(文帝)。皇帝なので曹丕様とお呼びすることにしよう。曹丕様は都を許昌から洛陽に移され、ここに正式に漢が滅んで魏という国が生まれたことになった。
 私は早速に祝賀の使節を送りたかったのだが、帯方郡にお伺いを立てたところお許しが出なかった。なにも遼東郡のようなちっぽけな国に遠慮することはなく、無理に行こうとすればできないわけではなかった。しかし、帯方郡の勢力範囲内を通過しないといけないので事実上不可能だった。それ以来、機会さえあれば洛陽に使節を派遣したいと常に考えるようになった。
 私が五十五の年に蜀の劉備殿が亡くなられた。お歳は六十三歳であったとのことである。ご子息の劉禅殿が政権をつがれたが、その器ではなく、諸葛孔明が必死に盛り立てているということであった。
 さらに三年たって一昨年(黄初七年)のこと、曹丕様が四十歳という働き盛りで亡くなられた。そのご子息の曹叡様がまだ二十三歳という若さでその跡を継がれた。魏という国がまだ固まっていない時に二十三歳という若さで皇帝になるということは大変なことになったと同情もし、また陰ながら声援を送りたいとも思ったものだ。
 今年はまたいろいろと驚くようなことが起きるだろう。私ももう六十歳だ。ただ、なるべく病気にならないようにして長生きしなくてはならない。それがヤマトのためでもあり、倭国全体のためでもある。
 ついつい長い話をしてしまった。さあ、大己貴よ出雲に帰るが良い。


第四章 風雲急を告ぐ中国・遼東情勢

大己貴、帯方郡に朝貢外交を展開する

太和二年(二二八)、大己貴は交易使節団を編成して自ら馬韓、弁韓、帯方郡に赴いた。もともと出雲はスサノオが鍛えておいた海洋国家である。島根半島の大きな港には北風の吹き荒れる冬の日本海をも恐れない腕利きの船乗りたちがおり、韓語や中国語をあやつってこれまでも朝鮮半島と交易を行ってきた。
 スサノオもすでに帯方郡に朝貢していて、遼東公孫氏の旗を授けられていた。船の舳先にその旗を掲げると、朝鮮半島の馬韓、弁韓、辰韓、?などのどの港でも安全に停泊したり、航海に必要なものを買うことができた。大己貴も船団の旗艦にその旗を掲げさせて航海した。

 帯方郡治では、太守は目を潤ませて「ほうほう、倭の出雲から遠路はるばる太守殿ご自身が参られるとはまことに殊勝な心がけでござる。まだお若いのに立派なお方だ。これまでも出雲からは時々参られたが、太守殿自らが参られたのは始めてである。早速、公孫恭様にご報告しておきましょう。」と歓待してくれた。大己貴が持参したヒスイを収め、そのかわりに金銀を織り込んだ絹織物をはじめとして高価なものを下賜してくれた。
帯方郡治には外国からの交易や朝貢に来た人々を泊める宿泊施設があり、身分は下級官吏だが陽気なおじさんが一行を世話をしてくれた。聞くと洛陽付近の出身者で、戦乱を逃れて帯方郡にやってきたのだという。だから心情的には魏を応援しており、こちらの上級官吏とは時々気まずいこともあるようであった。
 帰途、馬韓の月支国やその他の国々、さらに弁韓に立ち寄り、青メノウと引き換えに高価なものや鉄斧・鉄?と交換した。鉄斧・鉄?は出雲や丹後半島でも作っているのだが、弁韓製は鉄の純度が高いと有り難がられて倭国では高く売れるのである。月支国の首長はヒスイを非常に欲しがったので次回にはお持ちしましょうと約束して別れた。
 これに味を占めた己大貴は毎年、ときには年に二度も交易使節を送るようになった。そうした使節は三韓や遼東郡、さらに中国本土の情勢なども聞き込んでくるのである。

公孫淵、伯父の恭を幽閉する

 翌太和三年(二二九)は彼自身は行かずに、朝貢使節団だけを送った。その使節団も交易により大きな利益をあげて戻ってきた。途中で立ち寄った馬韓の月支国王はヒスイには目がないらしく、沢山の大きな真珠と交換してくれた。
 使節団は遼東郡や中国の新しい情報を仕入れて帰ってきたが、重要な情報がいくつもあった。
 一つは前年の十二月に遼東郡では身内の政変があった。それは公孫恭が甥の公孫淵に幽閉され、淵が権力を奪取したというのである。
 もともと淵の父、公孫康が亡くなったとき、その子達の晃、淵兄弟がまだ幼かった。それで康の弟、恭が選ばれ、政権を引き継いだのであったが、淵が成人したあとも政権を渡さないので、淵がクーデターを起こしたのである。
 恭はよく言えば温順、悪く言えば決断力・実行力にやや欠けていたらしい。正史三国志では恭のことを陰萎(インポテンツ)と記載している。一方、淵は若くて怖いもの知らずでしかも決断力や実行力に溢れていたようだ。
 遼東郡は名前は郡でも実情は独立国家である。しかし、今の平和は見かけ上のもので、いつ魏や呉の餌食になるかわからないという恐れが常にあった。淵から見れば叔父の恭ではいつか魏の餌食になるとみたのであろう。
 この時、もし魏にその気があれば、なんらかの口実を設けて介入して、あわよくば遼東郡を併合した可能性がある。例えば、人質として洛陽に送られてきた淵の兄、晃の方が遼東太守にふさわしいなどと横車を押すことも考えられた。
 ところが魏はその時、蜀の諸葛孔明が関中(長安と中心とする函谷関の西一帯)に侵攻してきたために、それどころではなかった。むしろ、淵が皇帝を名乗ったり、呉と組むのを恐れて揚烈将軍、遼東太守の位を授けて、魏に引き留める懐柔政策をとった。

 その頃、魏は蜀の軍事力を侮っていた、というか蜀にはたいした将軍はいないと考えていた。蜀の皇帝・劉備玄徳という不出世の男だけが軍を動かす能力があり、その劉備が黄初四年(二二三)六月にすでに亡くなっているので、魏に攻め込むなんてことは全く考えられないと見ていた。
 それが太和二年(二二八)に突然、長安の西、三百キロの天水郡というところに大軍を催して侵攻してきたので驚愕した。誰が兵を動かしているか調べてみると諸葛孔明だということが判明した。
 諸葛孔明は魏にも聞こえた男で、それも「文官として超一流」の男である。しかし、彼が軍を指揮するとはまったく考えていなかった。すぐれた文官は武官としては劣るというのが常識であった。だからたいしたころはあるまいと侮って考えていたのだが、どうしてどうしてあっというまにシルクロードの要衝である天水郡を奪われてしまったので慌てふためいたのである。

諸葛孔明、魏に侵攻する

 詳細はこうである。
 黄初六年(二二五)春、孔明は主として現在の雲南省一帯に南征し、同年秋にことごとく平定した。南蛮王・猛獲を七度捕らえ、七度釈放して信服させた話は古来有名である。その結果、蜀の財政は豊かになり、大規模な軍の強化教練に取り組むことができるようになった。
 軍備が整ったので、魏に侵攻するために太和元年(二二七)十二月に孔明は蜀の北部、漢中に進駐した。
 この時、孔明は自分に万一の事があった時のために皇帝劉禅に「前出師の表」を奉った。「出師の表」とは本来は出撃に際して軍司令官が皇帝に差し出す文書を言うが、孔明のそれがあまりに有名なためにもっぱらこの「前出師の表」の指す。彼の遺言書みたいな内容ではあるが、出来の悪いわが子に噛んで含めて教え諭すような文調で、古来、”涙なしには読めない”名文中の名文といわれる。これにはまた、この出陣の目的は、漢の都「洛陽」を取り戻すことであると明記している。彼は翌年出兵に際してもう一度出師の表を奉ったので「前・後」二文ある。

司馬懿、孟達を斬る

 蜀から魏に打って出るには二つのルートがある。いずれも漢中をベースキャンプにするのであるが、一つは漢水に沿って東に進出し荊州北部に出るルートである。ところが荊州北部に出る直前の新城郡を魏の孟達が守っていた(新城郡新城か上庸かに拠っていたと考えられるが晋書・宣帝紀では上庸城とする)。
 孟達はかっては蜀の将軍であったが、故あって魏に降り、しかも文帝に厚遇された。ところが明帝になると今までそれを妬んでいた人々が孟達を悪く言いふらし始め、孟達も身の危険を感じ始めていた。そこへ孔明が寝返りを持ちかけたのである。その誘いに孟達も乗ったのであるが、いち早く魏の驃騎将軍(将軍中最高位)兼荊州都督の司馬懿に感づかれ、司馬懿が彼を急襲して殺してしまった。結局、荊州ルートはあきらめざるを得なくなった。
 司馬懿はこの時、新城郡上庸城から東に約千二百里離れた宛(南陽市)というところにいたが(新城なら千里ぐらい)、普通の軍隊移動速度なら二十日前後かかるところを八日間で駆け抜け、猛達の不意を襲った。当時の一里は三五○〜四百メートルとされるので千二百里は四二○〜四八○キロメートルである。司馬懿は騎馬軍団を率いたと考えられるが、それでも想像を絶する速さである。因みに、彼の遼東出兵の時は四万の軍団が洛陽から遼東の襄平まで四千里を行軍したが百日間を要している。
 約千二百年後、秀吉の行った「中国大反し」は二万の軍勢が備中高松(岡山)から約一八○キロメートル離れた摂津(大阪)に四日間で戻り世間を驚かせた。しかし、スピードからいえば司馬懿の方が少し速かったわけなので、まさに驚愕の速さである。

 こうして荊州ルートが消え、残るは漢中から険しい秦嶺山脈を北方に越え、長安から西の蘭州に向かうシルクロードに出るルートしかなくなった。
 このルートには(一)長安に直接向かう子午道(橋が多く、しばしば通行不能となる)、(二)少し西方に出る駱谷道(もっとも急峻)、(三)褒斜道(長安約百五十キロ西方の五丈原に出る)、(四)故道(古くからの幹線道路で長安約二百キロ西方の陳倉に出る)、(五)関山道(遠回りであるが比較的平坦で祁山の麓を通り長安約三百キロ西方の天水に出る)の五道があった。子午道と駱谷道は危険が大きいとして孔明は避け、西方三道を利用した。

諸葛孔明、魏を侵す

 太和元年十二月に漢中に進駐し、太和二年(二二八)春、孔明は満を持して動き始めた。
 まず老将・趙雲らに兵五千を授け、囮として褒斜道を抜け、五丈原の手前、箕谷に陣を張らせた。魏の大都督(総司令官)・曹真は囮作戦とは露知らず、箕谷へ関中(長安を含む函谷関より西方一帯)駐在の兵をすべて集中した。
 そのすきに、孔明自身は主力を率いて西へ迂回して関山道を通り祁山の麓に布陣した。祁山は天水郡、南安郡、安定郡の三郡を見下ろす位置にあり、その三郡を今にも攻撃するかのような偽勢を示すと、守備兵力のない各郡太守は簡単に帰順してしまった。
 この三郡は長安へのシルクロードが通っているので、孔明軍はいつでも曹真軍を西から攻撃できることになった。もし曹真軍が両面から攻撃を受けるとひとたまりもなく敗れるだろうと長安では大変な騒ぎとなった。
 事態を憂慮した明帝は、手持ちの軍を率いて自ら長安に出御し、後方より曹真を叱咤激励するとともに、老人ではあるが経験豊富な右将軍・張?にその兵を授けてシルクロードの北側にある脇街道を通って孔明軍の側面を突かせた。
 一方、その情報を得た孔明は参軍・馬謖に兵を与えて、その脇街道の要衝・街亭で張?軍を待ち伏せさせた。街亭は祁山から近い、シルクロードを越えた北側の山中の小さな盆地のようである。
 街亭の地形は三方が絶壁の山となっており、それを見た馬謖が敵を引き付けておいて山上から急襲する作戦を取った。しかし、それは負けた場合、一気に崩れてしまうので、孔明が禁止していた作戦であった。
 馬謖が山上に布陣した後に張?がそこへ到着した。彼は歴戦の男で戦いに慣れており、馬謖の作戦を直ちに見抜いてしまった。たちまち麓を取り巻き、馬謖軍を山上に孤立させる作戦に出た。大体、急襲して成功するのは相手が気づかない時だけなので、気づかれたらまず失敗に終わる。
 馬謖軍は山上のため水の補給ができなかった事と、張?軍に封鎖されたことでこの戦いは負けだという恐怖心が部隊中に蔓延した。そして切り込みを行うと称して勝手に投降するグループが続出し、軍そのものが崩壊してしまった。馬謖自身も親衛隊が開いた血路を奔って逃げるという有様になった。
 張?軍は勢いに乗って孔明の本隊を急襲する。孔明本隊も崩れて、五月、漢中に逃げ戻った(正史三国志、三国志演義、十八史略とも戦記内容が異なるので正史三国志からの著者の推定である)。勿論、シルクロードの三郡は魏が取り戻した。漢中に戻った孔明は軍令違反を犯したとして「泣いて馬謖を斬った」のである。

 諸葛孔明の魏出兵は初戦の失敗にもめげず、秋の収穫が終わるとまた繰り返された。再び劉禅に出師の表を奉り(後出師の表)、軍を編成すると漢中から故道を通り、陳倉に出陣した(第二次北伐)。しかし、今度は曹真がよく防いで結局は兵糧が続かず撤退した。

 以上のような話を使節団は持ち帰ってきたのであった。

 大己貴がヤマトにもどり、天照ヒルメ姫様にそうしたことも報告するとヒルメ姫様もかなり詳しく状況を把握していた。ヒルメ姫様はとくに魏の明帝について「二十五歳という若さで、長安が危ないと聞くと直ちに長安へ出御して戦いを督励した」こと高く評価し、魏の国力が他の国を圧倒し始めたことも含めて魏がそのうち中国を統一するだろうと大己貴に予想したのであった。

大己貴、父親になる

 この頃、大己貴はいっぺんに子沢山になった。大己貴は現在の出雲市の辺りに住んで何人もの妻を抱えていた。結婚は「通い婚」で彼は妻達の家を巡って歩いた。彼は平等に妻達を愛したようだ。正妻のスセリ姫には子供ができなかったが、他の妻達にはそれぞれ子供が生まれている。
 ヤガミ(八上)姫にはミイ(三井)という男子が生まれた。
 タギリ姫にはアヂスキタカヒコネ(味?高日子根命)という男子、次いでシタテル(下照姫)という女子が生まれた。
 タキツ姫にはコトシロヌシ(事代主命)という男子、次いでタカテル(高照姫)という女子が生まれた。
 ヌナカワ(沼河)姫にはミホススミ(長じてタケミナカタ・建御名方命、)という男子が生まれた。
 トリミミ姫にはトリナルミという男子が生まれた。トリナルミを始祖とする系図が古事記には残されている。カヤナルミという男子も生まれた(出雲国造神賀詞)が、おそらくトリミミ姫が母親であろう。
 母親が伝承されていないが、ヤマシロ(山代彦命)という男子も生まれた(出雲風土記)。

 八上姫と沼河姫は子供を残して帰国してしまうが、子供たちは愛情を持って育てられて順調に育った。後年、父親が危機に瀕した時に、タケミナカタが諏訪湖より駆けつけた話は有名である。これはタケミナカタが愛情をもって育てられた何よりの証拠である。
 大己貴は子供達の成長を見守り、やがてそれぞれに活躍の場を与えるのである。

 大己貴はスサノオが作り上げた日本海沿岸諸国との緊密な関係をさらに進展させることにも心血を注いだ。伯耆、因幡、但馬、丹後、若狭、越のクニグニ(三国・坂井、羽咋、能登、富山、沼河)と絶えず行き来をした。
 また、若狭から琵琶湖北部に抜ける道を確保し、琵琶湖西南沿岸(比叡山の東山麓)に住み着いているスサノオの孫、オオヤマクイ(大山咋)とはまるで家族のように付き合った。

公孫淵と孫権、互いに接近する

 次の年、太和四年(二三〇)に送った使節団はまたいろいろな情報を持って帰ってきた。
 一つは洛陽にいる公孫晃が弟の淵の政治手法を危ぶんでいるというものである。この情報は帯方郡の宿泊施設の世話役”おじさん”の情報であった。帯方郡は高級官吏は遼東から直接派遣されていたが、世話役”おじさん”を含めて下級官吏は戦乱を逃れて中国(ほとんど魏)から帯方郡に流れ込んできた人々であり、魏を中心とする中国各地のいろいろな情報が集まっていた。その中には聞き捨てならないニュースとか、公孫政権の隠しているニュースとかがあるのであった。
 大己貴は世話役”おじさん”のニュースが重要であることに気がついて、彼にも密かに手厚い贈り物をするように指示しておいた。
 それから月支国王からもいろいろな情報をもらえることがわかった。月支国にも中国から逃亡して来た人たちがおり、帯方郡に住み着いている人達と常に中国や遼東郡の情勢を知らせ合っているという。
 すでにその前の年のことであるが、呉の孫権が「皇帝」位の即位宣言をしたということも伝わってきた。呉では魏の黄初三年の秋から、黄武という別の年号を立て、長江から南を領有し、魏の命令にはあまり従わなくなっていた。例えば、孫権の息子を洛陽に人質として差し出すようにという魏の命令はうやむやにしたままであった。そして黄武八年(魏の太和三年、二二九)、夏四月に孫権は皇帝位に登ることを宣言し、年号を改めて黄龍元年とした。
 その五月には遼東の公孫淵に校尉の張剛と管篤という二人の使者を送っている。いわば孫権が皇帝になったことを知らせる使節であったが、淵はその使者をどういうわけか厚遇したのである。そのことはすぐに魏の洛陽にも聞こえ、兄の公孫晃はそれを憂慮しているというのだ。

 大己貴はそうした情報を持ってヤマトに行き、天照ヒルメ姫様に報告するとヒルメ姫様もすでに九州の大率からそうした情報を掴んでいた。そしてこれからは遼東の公孫淵からは目が離せないということで意見が一致したのであった。
 
公孫淵、孫権と同盟を結ぶ

 そうこうしている内に太和六年(二三二)になった。帯方郡に送った朝貢使節が大変な情報を持ち帰ってきた。
 それはその年の二月に呉の孫権皇帝が将軍・周賀、校尉・裴潜という二人の使者におよそ百艘の船を伴わせて公孫淵に送ったというのである。将軍を送ったとなるとこれはただ事ではない。例えば魏から見ると両国が一応同盟関係を結んだと受け止めても不思議ではない。
 帯方郡太守は「公孫淵様が非常に隆盛なので、呉が親交を求めてきた。これで魏の明帝もうかつには手が出せまい。」と満悦の態だったという。ところが世話役”おじさん”がそっと耳打ちしてくれたところでは、すでに洛陽には筒抜けで、淵の兄、公孫晃が「淵に誅を加えたいから、帰国させて欲しい。」と明帝に申し出たが許可されなかったという。
 しかし、明帝は指を咥えて見ていたわけではない。汝南太守で歴戦(とくに鮮卑族など北方民族との)の兵強者の殄夷将軍・田豫に青州(山東半島一帯)軍を預け、海を渡って遼東に侵攻せよと命じた。しかし、その時魏には大軍を運ぶ船がなく、さらに遼東の港には呉の大型船が百艘も遊弋しているという情報が入ったために、明帝は一旦出した侵攻命令を取り消さざるをえなかったのである。

 その話をもってヤマトに戻り、天照ヒルメ姫様に奏上すると、もはや魏が公孫淵打倒に動くのは時間の問題だという認識で二人は一致した。そしてそれは蜀との交戦が落ち着いてからになるだろうとヒルメ姫様は予想されたのであった。
 それからヤマトとしては帯方郡への朝貢は今後しないと明言した。最近は次第に間隔があいて四年に一回くらいになっていたが、それもきっぱりやめてこれからは馬韓の月支国までにすると言われたのである。
 しかし大己貴は情報を集める必要を痛感し、春と秋の年二回、帯方郡へ朝貢使節を送ることにした。ただ、それまで公孫旗を朝貢船の舳先に取り付けていたのをやめることにした。それは魏と遼東郡が事実上、交戦状態に入ったと考えられるので、いつ魏の船に襲撃されるかわからなくなったからである。それで帯方郡の港に入港する直前だけ掲げるように指示した。
 ところで周賀、裴潜は秋の終わり九月に呉に帰国したのだが、海が荒れて周賀の乗った船は山東半島の先端に難破漂着し、成山に上陸したところで、そのようなことが起こるだろうと待ち構えていた田豫に捕えられ斬られている。裴潜の方は無事帰国している。

 話は前後するが、魏と蜀との交戦では一年前の太和五年春三月に諸葛孔明が再び祁山に出撃してきた(第四次北伐)。その直前、大都督・曹真が死去したので、新城の猛達を破った司馬懿が大都督に任命されて祁山の前面で孔明と対戦した。彼は曹真と違って孔明のしかけた戦いに乗らず、持久戦を展開して孔明軍を兵糧切れに追い込んだ。
 この時、孔明は戦略物資の輸送に木牛という牛に似た輸送車を使ったので有名である。また魏の名将、張?が戦死した(正史三国志)。
 この戦いでは孔明と司馬懿の知恵比べの様相を示した。孔明軍団の弱点は兵員数が格段に少なく、補給も乏しいことにあった。その為、奇襲と謀略と相手の裏をかく戦術を多用したが、いずれも一回限りしか使えなかった。司馬懿ははじめは孔明の戦術に嵌まって局地的敗戦を繰り返したが、孔明の戦術を研究して「孔明の仕掛けてくる戦いは、めまぐるしく変化する虚実の組み合わせで、それに相手すると失敗する」と分析解明し、広い土地で大軍同士で戦えば兵力の多い自分の方が勝つと結論した。そして孔明軍が山地から出てくるのを待つ戦術を取った。孔明軍は山地に陣取り、司馬懿軍は平地に陣取って、睨み合いの持久戦になり、補給の乏しい孔明軍団は撤退を余儀なくされたのであった。

公孫淵、孫権を裏切る

 翌青龍元年(二三三)春に派遣した朝貢使節はまた重要なニュースを得て戻ってきた。
 まず、正月甲申の日(二十三日)、魏の?の摩陂の井戸に青龍が現れたのでたいそうな評判になり、二月丁酉の日(六日)、明帝が摩陂に行幸してその青龍を見て感動し、年号を青龍と改元したというのである。帯方郡もその年号に改めていた。
 どうもその前年に、呉が年号を「嘉禾」と改元したことに対抗したらしいのだ。前々年に会稽郡の南始平に稲穂が幾房もなったすばらしい稲(嘉禾)が生えたので、これは瑞兆にちがいないと孫権皇帝に献上したところ、孫権が呉の年号を「嘉禾」にしたのだそうな。
 それに負けまいと、明帝は太和から青龍に改元したらしい。たしかに稲より龍のほうが勢いがいい。中国というのは年号にこだわる国だと今更ながら感心した次第である。

 それから、昨年、呉から遼東郡に派遣された使節団が九月に帰国した事、大使の周賀の船が帰路、暴風雨にあって難破し山東半島先端の成山に漂着し、魏の田豫将軍に捕らえられて死亡したこと、しかし副大使の裴潜は暴風雨を乗り切って呉に帰国できたこと、さらに公孫淵が十月に校尉の宿舒と?中令の孫綜を呉に派遣し、孫権に貂(テン)の毛皮と馬を献上し、孫権呉国の藩国になり、謹んで臣従したいという文書を提出したこと、などを帯方郡太守より聞かされてきた。
 孫権は非常に喜んで公孫淵を「使持節・督幽州・領青州牧・遼東太守・燕王」に任命したというから、遼東ばかりでなく、幽州、青州あわせて三郡の領有を認めたのである。勿論、幽州、青州は魏が領有しているので自分で奪い取るのなら認めようという、まさに絵に書いた餅の話である。
 孫権は三月に宿舒と孫綜を帰国させたが、二人を警護する意味もあり、太常(儀礼・祭祀の長官)の張弥、執金吾(宮中の警備)の許晏、将軍の賀達らに兵一万を授けて遼東に同行させた。彼らは財宝珍貨、九錫(皇帝より臣下に賜る九種類に最高の恩賞)、公孫淵を燕王にする任命書などを携えていた。

 秋になって再度送った大己貴の使節団は意外な事の成り行きを知らされて戻ってきた。
 まず、帯方郡治一帯は厳戒下にあり、港でも船の出入りが厳重に改められ、使節団の船も出雲からの船であることの確認が済んではじめて入港を許可された。その次第を帯方郡太守は次のように説明したという。
 「公孫淵様が呉に臣従を誓ったのに乗じて、呉は遼東を乗っ取ろうとして兵一万を送ってきた。まったく孫権という男は人道に背くことをする人間だ。勿論、淵様はそれを見破られて、張弥、許晏、裴潜らの首を刎ねてしまわれた。その首は魏の洛陽に送られた。賀達だけ生き残って船団をまとめてあたふたと呉に逃げ帰ったようだ。彼らがもしかすると帯方郡に報復するのではないかと厳戒態勢を取っているのだ。」
 さすがの楽天的な帯方郡太守も浮かぬ顔をしていたという。

 帰途立ち寄った馬韓の月支国王の話では、次のようだった。
 呉からの船団は遼東半島の最先端にある沓津(現:旅順口)という港に到着し、張弥、許晏、裴潜、万泰ら四人と官吏・兵士四百人が上陸し、そこから約三百キロメートル離れた首都襄平(遼陽市)に赴いた。約一ヶ月後、一行を襄平で待ち受けたものは公孫淵の裏切りと惨事であった。
 公孫淵は襄平で全員を捕縛し、四人が携えた文書、九錫、財宝珍貨を収奪した。そして四人の首を刎ねた上、印綬、九錫などと共に魏に送った。
 沓津に残っていた賀達らが張弥使節が一向に帰ってこないことに疑問を感じ始めた頃、公孫淵は沓津に使いをやって賀達らの歓迎宴を催させた。しかし、賀達らは警戒して船を離れなかった。そこでさらに沓津に係留している船団の前に多くの馬や遼東産物をならべて交易を持ちかけ、商人五百人ほどが下船したところを隠れていた兵士が襲って三百人あまりを殺傷し、持っていた交易物資とか銅貨(当時、三国では呉が最も高品質の銅貨を鋳造していた)などを奪った。
 賀達は目の前で行われた虐殺に憤激したが、武器も兵士も足りないためになにも報復することができなかった。悔しさに歯噛みしながら船を率いて呉に引き上げざるをえなかった。
 遼東からは「賀達が帰途、防備の手薄な楽浪郡や帯方郡、さらに馬韓の港を襲うかも知れないから警戒するように」と通報があったというのである。

 また、公孫淵から事の詳細の報告を受けた魏の明帝は二人の使者を遣わして公孫淵に揚烈将軍、遼東太守の位に加えて、大司馬(軍事の最高職)を授け、さらに楽浪公に封じ、それを伝達する二人の使節を襄平に送った。
 しかし、公孫淵はその使者が自分を暗殺するのではないかとおそれて二人を迎賓館ではない別の館に導き、その館を歩兵と騎兵と取り囲んだうえ、その館内で二人から任命をうけた。当然のことながら、二人の使者の方が恐怖心を抱き、洛陽に戻ってから公孫淵の非礼を明帝に報告した、というようなことまで教えてくれた。

大己貴、帯方郡への朝貢貿易を中止する

 その年(青龍元年、二三三)の秋の終わりに大己貴はまたヤマトに戻り、ヒルメ姫様にお目通りした。話題は当然遼東の話になった。二人とも公孫淵政権の取った行動が理解できないということで一致した。今や公孫淵政権は魏からも呉からも見放されて孤立無援となっている。見放されたというよりはほぼ戦争状態になっていると言っても良い。公孫淵の軍事力がどれほどのものか未知数であるが、例えば積年の戦乱を戦い抜いてきた魏の軍事力に到底太刀打ちできそうにない。
 すでに事実上途絶えがちになっていたが、ヒルメ姫様は北九州の伊都国に命じて帯方郡には絶対に朝貢せず、せいぜい馬韓の月支国との交易だけに留めるように指示しておられた。ヒルメ姫様は「来年からは帯方郡との交易は出雲も差し控えるように。また馬韓、弁韓との交易は、春は北九州の伊都・対馬・壱岐が行い、秋は出雲が行うようにしよう。」と言われた。もっともな話なので大己貴もそれに従うことになった。

 それから、国内の話に移って東海の久努国首長「卑弥弓呼」がますます勝手な行動を取るようになってきたとヒルメ姫様は言われた。久努国は大型の船を建造して四国の伊予や土佐、それに南九州に関東の物産を運んで交易をおこなっているようだと言われた。熊野や紀の国では大屋彦や名草彦らが目を光らしているが、久努国の船にひそかに協力するムラもあるようで、かなり自由に太平洋を東西に行き来している。ヤマトの権威が次第に蚕食されているのでなんとかしないといけないと言われたが、その言葉に力がないことが大己貴には気がかりとなった。

諸葛孔明の悲願成就せず

 青龍二年(二三四)秋に馬韓の月支国から戻ってきた交易船団は最新の情報として蜀の諸葛孔明が病没した話を聞き込んできた。詳しい話はこうである。

 その年の春の終わり三月に孔明は蜀軍のほぼ全軍、十万の兵を率いて褒斜道を通り、長安約百五十キロ西方の五丈原に出てきた。険しい山道の物資の輸送には「木牛」を改良した「流馬」を用いたとあるが、どういうものかよくわからない。
 これまで補給が続かなくて撤退をせざるを得なかったことを反省し、五丈原では兵士に命じて屯田を行い、稲や野菜を植えて長期戦に備えた。
 諸葛孔明出撃するという知らせを受けて司馬懿も出陣し、五丈原の目の前を流れる渭水をはさんで陣を構えた。司馬懿は公称三十万の大軍を擁し、孔明が渭水を渡って攻撃してくるのを待った。
 一方、孔明は司馬懿に渭水を渡らせようとして隙を見せるが勿論、司馬懿はそれには乗らない。こうして小競り合いはあるものの百日たっても戦いは始まらなかった。
 孔明は出陣前に呉の孫権に使者を立てて、呉からも魏に攻め入ってもらいたいと要請した。孫権は了承し、ほぼ同じ頃に大軍を編成し、首都・建業(現:南京市)より長江を渡河し、約百五十キロメートル西の合?新城(現:合?)を攻めた。この知らせが孔明にもたらされると、孔明は司馬懿が兵を割いてそちらに回すだろうと考え、その陣地の変化を待ち受けた。
 ところがこの危機に当たってまたもや明帝がすばやく行動した。魏の東南各州の兵を集めて合?新城に救援に赴き、油断していた孫権軍を急襲し大敗させた。もともと孫権は義理で出兵しただけなので未練はない。残りの兵をさっさとまとめて撤退した。こうして魏の危機は回避された。司馬懿の陣地には兵の動きはまったく見られなかった。
 この頃孔明はたびたび血を吐いたとある(三国志演義)。吐血なら胃がんか食道がん、喀血なら肺結核であろう。そのことは厳秘されたがやがて司馬懿の知るところとなり、ますます司馬懿は陣を固めて動かなかった。そして秋八月二十三日夜、孔明の魂は部下たちに見守られる中、静かにその身体を抜け出し、天に昇っていった。齢五十四歳であった。
 生前の孔明の指示にもとづいて蜀軍は粛々と撤退して行った。蜀の侵攻は終わった。そしてその後十年、将軍姜維が孔明の意思を継いで再び侵攻するまで魏を侵すことはなかった。

 秋に大己貴がヤマトのヒルメ姫様に伺候し、中国の情勢を報告すると、「魏の明帝様は兵を休めた後、遼東に侵攻するだろう。おそらく一年が二年ぐらい後だから、情報収集のシステムを構築しなくてはならない。」と言われた。情報収集といっても情報源が馬韓の月支国王以外にはないので、せっせと月支国に通う以外に方法はない。
 
嵐の前の静けさ

 翌年、青龍三年(二三五)は中国、遼東郡、帯方郡とも静かであった。
秋に大己貴がヤマトのヒルメ姫様に伺候すると、次のような話を聞かされた。
 その年の春に対馬の沖を巨大な船が数艘東に航行して行き、夏にまた西に戻って行ったというのである。ヒルメ姫様は「魏にそのような船があるとは聞いていないので、まず呉の船に間違いないと思う。」と言われた。
 ヒルメ姫様の推定では、一昨年の公孫淵の呉使節団虐殺のとき逃げ延びた人達がおり、高句麗が匿っていたのを呉が貰い受けに行ったのではないかという。
 「いずれにしても、呉は我々が帯方郡にまだ朝貢していると考えているかもしれないから、気をつけるように。」と大己貴に注意を促してくれた。

 青龍四年(二三六)も魏、遼東郡、帯方郡とも静かであった。
 あまり目立たないことであるが、明帝はおそらくこの年に?丘倹を幽州刺史に任命している。幽州は遼東郡に接しており、幽州刺史とは幽州の長官のことである。
 赴任に当たって度遼将軍・使持節・護烏丸校尉の官をも授与している。使時節とは軍権をもつことで、度遼将軍というからには遼東半島を討つという前提であり、護烏丸校尉とは烏丸国の軍隊をも動かす権限を付与したと考えられる。
 ?丘倹は明帝がまだ皇太子(東宮)であったときからの親しい間柄であり、事に即して計策を立てる才能があり、かつ父譲りの軍事才能があるということで明帝に愛されていたのである。


第五章 大己貴、魏に派遣される

景初元年、明帝動く

 青龍五年(二三七)正月壬申の日(十八日)、山?県より黄龍が出現したと報告があり、担当官が暦を改定すべきであると上奏した。理由は以下のようであるが飛ばして読んでいただいて結構である。

☆ 中国では夏王朝、殷王朝、周王朝が正月を次のように定めた。北斗七星の柄が東北東(寅)を指す月(建寅の月、一月)を正月とする(夏暦)、北北東(丑)を指す月(建丑の月、十二月)を正月とする(殷暦)、北(子)を指す月(建子の月、十一月)を正月とする(周暦)。
また、この頃の儒家の考えでは暦には天、地、人の三統があり、夏暦は人統、殷暦は地統、周暦は天統とする。 その後の王朝はそれを順繰りに用いるべきだという考えがあったのである。魏はそれまで後漢の暦すなわち夏暦人統を使用していたが、黄龍が出現して王朝が変わったことを祝福したのであるから夏暦から殷暦地統に変えるべきだというのである。

 その上奏を受けてそれまで使用してた太和暦を改め、新暦を三月から採用し、年号も新しくして青龍五年三月を景初元年四月とした。すなわち一ヶ月繰り上げたのである。
 景初年号は三年までであるが、景初三年十二月に入って「景初四年正月を景初三年”後の十二月”(閏月)とし、その次の月を年号を新しくして”正始”元年正月とする」と決まった。したがって正始元年正月から繰り上げはなくなったのである。
 しかしこの景初暦そのものは後漢末期の乾象暦を楊偉が改良したもので非常に精密であり、その後約二百年も使われたと言う。たとえば一年の長さが三六五日+一八四三分の四五五日と正確で日食の計算も綿密な工夫が凝らされていたという(金 文京著「三国志の世界(中国の歴史04)」)。

 明帝は景初元年(二三七)おそらく夏頃に、幽州、冀州、青州、?州に大々的に船を作るように命じた。幽州、冀州、青州は渤海を取り囲んでいる。逆に言えば、渤海は遼東半島、幽州、冀州、青州(の山東半島)に取り囲まれ、遼東半島と山東半島の隙間から黄海につながっている。
 明帝が造船を命じた船は大型の輸送船および戦艦であったと考えられる。それらの船は翌年、幽州、冀州の港からは遼東半島北側への侵攻に、青州の港からは遼東半島先端および半島南側、さらに楽浪郡・帯方郡への侵攻に使われた。公孫淵も微力ながら海軍を持っており、また呉が海戦に介入する可能性も考えられたので、戦艦もしっかりしたものを建造したと考えられる。
 ただ?州のみは渤海に面せず、北は冀州に、東は青州に接していて、おそらく両州に造船用木材などを提供したものと推定される。実際の船の組立ては八月から行われたようである(正史三国志・明帝紀)。

 そして明帝は「孫権が高句麗によしみを通じて遼東を討とうとしているという情報がある」として、「遼東郡を救うため」と称して、七月に幽州刺史・?丘倹をして幽州諸軍および鮮卑、烏丸の軍勢を率いさせ、遼東南境の遼隧に駐屯させて、公孫淵に軍事的圧力を加えた。
 さらに?丘倹を通じて「公孫淵に洛陽伺候を命じる」詔勅を公孫淵に渡した。洛陽に伺候すれば捕らえられてまず命はない。追い詰められた公孫淵は叛旗を翻し遼隧の?丘倹軍を攻撃する。?丘倹は直ちに応戦し、さらに進軍して征伐しようとしたが、そのとき十日間も大雨が降り、遼水が洪水をおこしたために明帝は?丘倹に詔勅して引き上げさせた。
 ?丘倹が退却した後、公孫淵はついに自立して燕王を名乗り、百官を置き、年号を立てて紹漢元年と称した。さらに鮮卑族に誘いをかけて魏の北方を撹乱させた。こうして両国は完全に戦争状態に入ったのであった。

ヒルメ姫の決断
 
大己貴がその年の秋にヤマトの天照ヒルメ姫様に伺候し、魏が遼東郡に侵攻する準備を整えつつあることを報告すると、ヒルメ姫様も伊都の大率よりほぼ同じような情報を入手しておられた。そして忍穂耳命、思金神、天児屋命ら主な閣僚(魏志倭人伝によれば伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?ら)を集め、大己貴も加えて会議を開いた。
 ヒルメ姫様の言われるには今までじっと我慢をして公孫淵に形だけ臣従してきたが、ようやくそれも終わりに近づいている。実に喜ばしいことである。元をただせば自分は漢の霊帝に承認された歴とした国王であるから、遼東郡太守より自分の方が位は上なのである。だから公孫淵が倒れたらすぐに魏に祝賀の使いを送りたいと声を弾ませて言われた。長年の思いを一気に吐き出された感じである。
 それからもう一つ驚くべき情報があった。それは久努国の「卑弥弓呼」が「公孫淵が滅ぼされたら、ヤマトを出し抜いて帯方郡に朝貢する」と言っているというのである。しかも密かに計画を進行させているらしい。もし本当にそのような事になればあの男のことである。自分こそは倭の大王であると申告するだろうし、もしそれが通ると大変なことになることも明らかであった。
 そうすると(一)魏が帯方郡を占領した直後に使節を送り込まないといけない、(二)久努国の使節団を阻止しないといけない、という二つの大きな問題が出てきたのである。
 ヒルメ姫様はどちらもやり遂げるようにと強い意思を表示され、皆でその方策を考えることになった。

大己貴、使節団大使に決まる

 魏がいつ遼東に出兵するかは正確にはわからないが、来年中だろうという予測だけはついた。そうすると使節団はなるべく朝鮮半島に近いところに待機しているのがいい。近いということなら一番いいのは対馬に待機することだが、いろいろ情報を集めたりするには伊都がいいだろうということになった。
 使節団として誰がいいかの人選になった。魏が帯方郡を占領した直後となると、治安の問題が大きい。もしかすると無政府状態になっていて、略奪・暴行などが横行しているかもしれない。倭国を代表する人物を送るとなると相当の人間でないといけないが、そうした人間を大きな危険にはさらしたくない。候補者を何人か挙げて消去していくと全員消去されてしまう。
 ヒルメ姫はため息をつきながら言われた。「誰もいないのう。」
 その言葉を聞いて思わず大己貴が手を挙げた。「私が行きましょう。」言ってしまってから、自分でもどうかしていると思ったが後の祭りだ。
 ヒルメ姫様はじっと大己貴の顔を見つめて複雑な表情になったが、それでも幾分ほっとしたように「大己貴ならいろいろな困難にも打ち勝つだろう。頼みますよ。」
 それで決まりだった。その後数日かけて副使を決める人選を行った。副使の人選も時間がかかったが、結局、摂津は三島の首長「都市牛利」に決まった。
「都市牛利」と言う人は魏志倭人伝に出てくる以外には伝説もまた記録も残っていない。現存する神社から考えると茨木市福井の新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたま神社)の祭神・天照御魂皇大神の可能性が強いと筆者は考えている。彼は死後、三島の安満(高槻市安満)に葬られる。
 朝貢という形になるから貢物が必要になるが、治安が悪いと考えられるのでごく質素なものにすることに決まった。たとえ海上で海賊船に襲われてもなにも持たなければかえって安心である。結局、魏志倭人伝に伝える「班布二匹二丈」となった。

☆ 岩波文庫には「班布」とは木綿で更紗の類と注釈している。豊後風土記の速見の郡、柚富の郷の記事に「この郷の中に栲(こうぞの一種)の樹が沢山生えている。いつも栲の皮を採取して木綿を作っている。それで柚富の里という。」とある。
 木綿は栲ばかりでなく、麻、苧麻(からむし)などからも織るという。
 それから更紗(織ってから染色する)ではなく絣(色々に染めた糸で織る)という説もある。絣はきれいな模様を織り出すには精密な技術と大変な手間のかかるもので、そうした織物に詳しい人なら価値あるものと認めるだろう。また、現在はどんな織物かわからなくなっているいわゆる「倭文」だったのかもしれない。

 布としては二尺幅(一尺は約二三センチメートル)、長さ二匹二丈(=二百尺)のものである。また男女の技術者を全部で十人ばかり連れて行くことにした。当時の貢物にはこうした技術者もあったのである。
 またヒルメ姫様の代理であることを示す物として、ヒルメ姫様が霊帝様から下賜された物をなにか持参する必要があった。記録としては残っていないが、推定すると霊帝から下賜された画文帯神獣鏡でそれを包んだ袋に霊帝を示す模様が織り出されていたのではないかと思う。
 冬の初め、一行はヤマトを出発し出雲に向かい、正月を出雲で過ごしたあと、伊都に向かった。冬の山陰の旅行は大変だっただろうと考えられる。
 出雲では西に航海する怪しい船は全て留めるように指示を出した。久努国の船の航海を阻止するためである。

大己貴、伊都で待機する

 北九州、伊都はさすがに出雲ほど寒くはない。ヒルメ姫様からすでに指令が来ていて、航海に必要な細々としたものまで準備されていた。さらに伊都にいる通訳が二人同行することになっていた。
 また久努国の船を阻止するために、北九州の港という港で船の検閲が行われていた。壱岐や対馬でも厳重に警戒されているという。

 当時の北九州の玄界灘に面するクニグニには不彌国、奴国、伊都国、末盧国などがあると魏志倭人伝に記載されている。奴国(人口:二万余戸)は博多湾沿岸、伊都国(人口:千余戸)は前原市一帯、末盧国(人口:四千余戸)は唐津市一帯であることはほぼ異論がない。伊都国にはヤマトからの検察官「大率」が駐在し、これら諸国を統率していた。また楽浪郡や帯方郡からの使節を接待する迎賓館があった。すなわち伊都国は行政の中心地であった。
 伊都国には「王」がいてヤマトのヒルメ姫に属し、長官を「爾支」、副長官を「泄謨觚・柄渠觚」というとある。この長官「爾支」を記憶しておいてもらいたい。
 不彌国、奴国、末盧国には王はいず、長官と副長官がいる。すなわちこの三国はヒルメ姫に属し、その地の豪族を長官としてヒルメ姫が承認し、副長官(官命をヒナモリ:鄙守、夷守)はヤマトが任命していたと考えたい。
 なお、対馬、壱岐にも王はいず、長官は「ヒコ」で副長官は「ヒナモリ」である。壱岐には原の辻遺跡があり、海上交通の要所であったことが遺跡出土品から判明している。出雲の船乗り達もここに滞在していたことが知られている。

 二月の終わりに対馬から情報が入った。まず、昨年十二月(魏で景初二年一月)、明帝が司馬懿に遼東出兵を命じ、すでに一月から四万という大軍が編成され、動き始めていること、同時に魏の海軍が楽浪郡、帯方郡を襲うと噂が流れ、両郡の太守を初め高級官僚がすぐに遼東へ引き上げる準備をしていること、馬韓はそうした動きに巻き込まれることなく平穏であることなどが知らされた。
 大己貴も都市牛利ももう間もなく出航だと思うと次第に緊張してきた。伊都国王が船団を組み立ててくれていた。一隻は大己貴だけが乗船する。もう一隻は都市牛利と通訳が乗船する。それから男子技術者四人と通訳が乗る船、女子技術者六人だけが乗る船、さらにこれら四隻を前後左右に警護する船が五・六隻と合計十隻程度の船団からなる。一隻の船には漕ぎ手が約二十人乗る。警護船は漕ぎ手だけで構成し、もし何者かに襲われたら漕ぎ手が戦闘員に早変わりすることになっている。漕ぎ手は対馬や壱岐の屈強の船乗り達である。彼らは中国語にも馬韓語にもある程度通じており、馬韓のあちこちの港には知り合いも多い。
 それから警護船の一隻には航海の成功のために「持衰」が乗った。「持衰」とは航海中は頭を梳らず、蚤・虱をとらず、衣服を着替えず汚れたままにし、肉を食わず、婦人を近づけない一人の男とある(魏志倭人伝)。海が荒れたときにはその男が海に投げ込まれて怒れる海神をなだめる役を背負わされる。航海が成功すれば大きな恩賞がもらえる。

☆ この時代の船に関しては、大阪八尾市の小阪合遺跡出土の土器に描かれたシカと船の描画、兵庫県豊岡市出石町、袴狭遺跡で出土した線刻画木製品に描かれた十六隻の船の描画、松阪市宝塚町の宝塚一号古墳出土の船形埴輪(全長一四〇、巾二五センチメートル)(以上は古墳時代前期ないし中期)、大阪府・長原高廻り二号墳出土の船形埴輪、福井県春江町出土の井ノ向一号銅鐸の描画、鳥取県の角吉稲田遺跡の土器の描画(以上は弥生時代後期)などより、弥生時代後期から古墳時代前期の船はほぼ同じで、大きなものは一側舷の漕ぎ手が十人から十五人くらいの大型船であったと推定される。また船の長さは十ないし二十メートル、埴輪より推定する艇巾は約二ないし四メートル近くである。読売新聞西部本社編:大王のひつぎ海を行く(海鳥社、2006)も非常に参考になる。

大己貴、帯方郡に着く

 三月の末にまた対馬から情報が入った。帯方郡が魏に占領されたというのである。魏の船が海上に現れると、遼東より派遣されていた太守達が逃げ出したので、戦いらしい戦いもなく新しい統治者に入れ替わったという。
 その情報を受けて、いよいよ伊都より一行は出航した。初夏の海はおだやかで天候も良く、二十人で漕ぐ船は矢のように早く水を蹴立てて走る。
 壱岐、対馬、それから馬韓の南岸から西に回って北上した。馬韓の港で航海に必要なものを交易しながら北上し、恐れていた海賊や呉の船に襲われることもなく、約二ヶ月かけて帯方郡の港に着いた。
 港には一行の船とほぼ同じ大きさの船(闘艦:長さ九丈=約二十メートル)、超大型の輸送船、さらに少数ながら甲板にやぐらを載せたような構造の楼船(高いところから矢を射たりすることができる)などが沢山遊弋したり係留しており、一行は緊張に包まれた。
 上陸すると、たちまち守備兵に取り巻かれた。通訳が大己貴らが「倭」を代表してやってきた事を伝えると驚いて早速に郡治に案内された。

 帯方郡太守は早速に一行を引見した。太守はまだ若く、名を劉夏といい、きびきびとした男で行政官といいながら侵攻軍の司令官のような感じであった。
 大己貴と都市牛利は、倭国王ヒルメ姫の使節大使として、劉夏太守が帯方郡を成功裏に接収したことを祝賀するために参上したこと、さらにまた是非とも魏の首都・洛陽にも参上して明帝(曹叡)様にご挨拶申し上げたいと述べた。今までは公孫一族の妨害のために洛陽に伺候することがかなわなかったことも力説した。

 劉夏は初めに「いや最初に帯方郡を接収したのは私ではない、劉マといわれる方で、私は二代目だ。」と断ってからじっと大己貴を見て、まずヒルメ姫の使節であることを証明するものの提示を求めた。大己貴が差し出した後漢皇帝霊帝の帛袋に包まれた画文帯神獣鏡を手に取ると姿勢をただし、恭しくそれに礼拝した後、再び大己貴に返して言った。
 「この帛袋および帛袋に包まれた神獣鏡はいかにも霊帝陛下の下賜された鏡である。したがってあなた方が倭国王の使節であることは疑いない。それにまだ馬韓でさえ誰も挨拶に来ないこの早い時期に、あなた方が遠路はるばる来られたことは感激すべきことである。自分としては非常に嬉しいことであり、明帝様もさぞかしお喜びになられ、かつ満足されることであろうと思う。すぐにでもあなた方を洛陽にお送りしたいが、まだ海上が完全に安全ではない。せめて楽浪郡の太守殿が安全宣言を出すまでは当地で待たれるが良い。」と言って、部下に命じて厚くもてなしてくれた。
 一行は帯方郡の賓客としてしばらく郡治に留まる事となった。滞在する館の管理人はいつぞやの「陽気なおじさん」であった。大己貴は十年ぶりに会い久闊を叙した。この人が実は劉夏太守に「倭は公孫淵が呉と通じ合ったときからぷっつりと帯方郡に来なくなった」と言ってくれて、それで劉夏太守が心証を非常に良くしたことがわかった。ヒルメ姫様の用心深さがこんなところで効果を現すとは、さすがにいろいろな経験を積まれていると、今更ながら感心したことであった。
 大己貴が面食らったことは帯方郡(勿論、魏でも)では一ヶ月も暦が早いのである。すなわち今は六月だという。季節感がそれに慣れるまでしばらくかかった。

 この六月、遼東では卑衍、揚祚らを将軍とする遼東防衛軍が、襄平の西南、遼隧と言う所に南北二十里以上にわたって塹壕を堀り、来攻してきた司馬懿軍に対峙していた。六月下旬に卑衍が塹壕より打って出ると司馬懿軍からは胡遵が出てきて応戦した。決着はつかなかったが、それをきっかけに戦局が動き始めた。
 七月初旬、司馬懿がまず塹壕線を迂回して東南に兵を動かす陽動作戦を取った。つられて卑衍、揚祚も軍を南に動かした。その動きを見極めると、司馬懿は密かに主力騎馬隊を引き抜き、塹壕西側にそって北上し、その北端を回って襄平城を一気に攻める作戦を取った。
 それに気付いてあわてた卑衍・揚祚軍は隊列を乱しながら急いで襄平に引き上げる。その報うけた公孫淵は手持ちの兵を率いて襄平近くの首山に陣を敷き、そこで卑衍・揚祚軍を収容して軍を立て直し、司馬懿軍を迎え撃った。そして激しい戦いが始まった。
 司馬懿軍は蜀や呉を相手に長年戦い慣れた歴戦の兵で成り立っており、実戦経験のない公孫軍をたちまちに蹴散らしてしまった。公孫軍は戦いに敗れて襄平城に逃げ込んだ。その数、数万というから大変な兵数である。司馬懿軍は襄平城をアリの出る隙も無いくらい完全に包囲して兵糧攻めにした。
 包囲を完了した後、司馬懿は一部の兵を割いて遼東郡南部から楽浪郡までの通路を掃討確保し始めた。勿論、楽浪郡はすでに帯方郡と同じ時期に海上から鮮于嗣という男が攻め取っていた。そして楽浪郡からも兵を北に出して遼東方面への通路の確保を行っていて、やがて両軍は手を握ることになった。

大己貴、中国名「難升米」、洛陽に出発する

 理由はわからないが、大己貴はその名前からオオをとり、出雲国造の尊称であるミミをつけた「ナムチミミ」を名乗ったと考えられる。それを聞いた魏の人は「難升米」と表記した。おそらく「ナムチミ(ナムシミ)」または「ナムチメ(ナムシメ)」に聞こえたのであろう。

 七月中ごろ、大己貴と都市牛利は劉夏に呼び出された。
 「楽浪太守殿から楽浪と遼東半島の安全が確保されたと言う知らせが入った。つまりあなた方を洛陽に送る日がやってきたということだ。明日、その船が出港するから今日中に荷物を纏めるように。
 それから司馬懿大尉殿が公孫一族の籠もった襄平城を完全に包囲された。襄平城が落城するのも、もう時間の問題だ。」と伝えた。

 帯方郡治で退屈な日々を送っていた大己貴ら一行は、出発の話を聞いて喜んだが強い緊張にも包まれたことだろう。
 翌日、一行が案内された船は大型の輸送船であった。一行につきそう守護警備の長官はかなりの政府高官らしく、周囲に対して強い権限と威厳を持っており、一行を安心させるのに十分であった。
 輸送船には任期交代の兵士とか文官達なども乗っていたことであろう。それに洛陽の朝廷に届けるいろいろの物資も積まれていたものと思われる。
 また数隻の中型の船が周囲を警備していた。
 船団が出港した頃から天候が悪くなり、風はそれほどでもないが梅雨のような雨天となった。時に激しく降り、その時は視界が悪くなるので近くの港で天候の回復を待った。この雨は襄平でも約一ヶ月間降り続いた。遼東半島は今も雨の多いところである。
 船団は海岸に沿って北上し、遼東半島沖に達すると西に向かい、半島先端の港、沓津(現:旅順口)で天候の回復を待った。
 雨がやんだ日に船団は一気に渤海海峡を渡り、山東半島の港に着いた。山東半島には沢山の港がありどの港かは今ではわからない。それから一行は魏の兵士達に厳重に護られ、陸路を三ヶ月近くかかって魏の首都、洛陽に着いた。時に景初二年十一月初旬であった。

大己貴一行、洛陽に到着する

洛陽は南北九里(現存する土塁の長さで西城壁四・三キロ、東城壁約三・九キロ)、東西六里(現存北城壁三・七キロ)の城壁(土塁で幅は約十五〜三十メートル)に囲まれた城塞都市である。その南には西から東に洛水(洛河)という川が流れ、永橋という橋を渡ると四夷館という夷国の使節を宿泊させる施設があり、一行はまずそこに案内された。
 二、三日してから担当の役人が来て、大己貴と都市牛利を洛陽に案内した。永橋を北に渡るとその真北に洛陽城の正門、宣陽門が見えた。遠くから見てもまるで竜宮城のように彩色されたきれいな城門である。そこまで約二里の大路には大勢の着飾った男女が歩いていた。大己貴一行はまるで夢の中にいるような気分になった。
 宣陽門をくぐると、また広い都大路で並行してその両脇にもかなり広い道が走っていた。中央の都大路は宮廷関係者だけが歩くことを許されていた。一般の人々はその両脇を並行する道を歩くのである。
 宣陽門から三里ばかり北に宮殿の正門・?闔門が見えた。それに向かって歩いて行くと、興味あることに両側に巨大な銅製の動物像がいくつも向かい合って立っていた。最も大きいのは?闔門の近くのラクダ(駱駝)で、それにちなんでこの都大路を銅駝街と呼ぶということをその後しばらくして知った。
 銅駝街のさらに両側には陽渠という人工川が流れその向こうには、高い高い官庁楼閣がいくつも並んでいた。銅駝街の東側には左衛府、司徒府、それに大学などがあり、西側には右衛府、大尉府、などいずれも華麗を極め、柱、棟などは紅くあるいは緑に、瓦は碧にあるいは金色に彩られており、日に照り映えて燦然と輝いていた。
 やがて二人は迎賓館(鴻臚館)に案内された。そこには大鴻臚卿が待ち構えていた。

 大己貴が帯方郡太守劉夏の紹介状、ヒルメ姫様の漢皇帝霊帝の下賜品である帛袋に包まれた画文帯神獣鏡を提出し、ヒルメ姫様の明帝への挨拶を口伝で伝え、また、男子技術者四人、女子技術者六人、班布二匹二丈を明帝へ献上した。画文帯神獣鏡はのちに大己貴に返還された。
 ヒルメ姫様の挨拶は要するに、今まで魏に(朝貢)使節を送りたいと熱心に望んでいたが遼東の公孫一族に阻まれて果たせないでいた。この度、帯方郡と楽浪郡が魏が戻ったので、直ちに「倭」は取るものとりあえず(朝貢)使節を派遣し、今後両国が友好関係を持つことを切に望んでいるというものであった。
 次にヒルメ姫様のことを聞かれた。大己貴は正式の名前はヒルメヒメミコ様と申し上げること、国のために一生をささげ、誰とも結婚しなかったこと、大きな宮殿の奥深くに住んでおられ、食事など身の回りをする人以外はほとんど誰とも会わないが、数人の政権中枢の人および大己貴だけは直接会うことが出来る、相当の年齢にもかかわらず頭脳は明晰で誰も及ばないなどである。
 
 また、大己貴のことも質問された。大己貴は出雲という「倭国」ではヤマトに次いで大きな国の太守であること、ヤマトに次いで豊かであり、軍事力もあり、自分は八千矛とも呼ばれていると思わずやや自慢げに説明した。それからヤマトは人口が七万人ぐらい、出雲は五万人ぐらい、倭国全体では誰も調べたことがないが六十ないし七十万人ぐらいだろうと人口も説明した。
 また、正確ではないが?、馬韓、弁韓、辰韓あわせて二十万ないし三十万と聞いているので、倭の人口はその倍はあるだろうと説明すると、「倭は聞きしに勝る大国である。おそらく朝鮮の沖から、呉の東海沖に広がる国だろう。」と独り言をつぶやいた。
 大己貴が人口五万人の出雲国太守で、馬韓五十カ国全体で十万と聞いているから出雲は馬韓二十五カ国に相当すると説明すると、見直したようで態度が丁重になった。
 「倭国は驚くべき大国である。明帝様にこの話を正確に申し上げよう。」と大鴻臚卿は締めくくった。
 そのあと、大鴻臚卿による接待の宴が盛大に催され、大己貴も都市牛利も中国の強い酒に酔いしれたのであった。


 さて、明帝伝の景初二年十一月の段には「公孫淵討伐の勲功を功績簿に記し、領邑の加増、封爵を行う。」とある。
 大己貴一行が帯方郡から洛陽に移動している間に公孫淵一族は司馬懿に滅ぼされてしまっていた。 
 すなわち、公孫淵軍が襄平城に逃げ込み、司馬懿軍が襄平城を包囲したあと、雨が三十日以上降って戦線が膠着する。それでも司馬懿は平然としている。それを解く鍵は食料である。数万人が食べる食料となると膨大な量で襄平城に蓄えた食料はすぐに底をつくと読んだからである。
 実際、食糧はすぐに底をつき、人々が互いに食らい合う地獄となる。将軍の揚祚らは投降する。八月七日夜、長さ数十丈の大流星が首山の東北から襄平城の東南に落下した。八月二十三日、公孫淵軍は総崩れとなり、公孫淵はその子・脩とともに数百の騎兵を率いて包囲網の破れ目(わざと司馬懿があけておいた)から東南に逃亡する。待ち構えていた司馬懿が大流星の落下した地点で公孫淵・脩父子を捕らえ、九月十日、淵・脩父子を斬り、その首を洛陽に送り、遼東は平定されたのであった。

 公孫淵父子の首が送られてきたその直後、まさに間髪をいれずに、倭が朝貢してきたというのは洛陽では大層な評判になったのに違いない。明帝としても、呉の孫権が数千人の海兵隊を送って探し回っても見つからなかった東海の蓬莱の国、その蓬莱国から朝貢使者が送られてきたかのような、いい意味での驚愕に近い驚きであったことは想像に難くない。
 使者に面接した大鴻臚卿の報告によると、魏、呉、蜀の三国のうち魏が中国の正当な王朝であるからこそ危険も顧みず、ただちに上洛したと倭の使節が述べたという。
 確かに倭の使節の携えてきた朝貢品は非常に貧弱なものであったが、帯方郡一帯の治安が危険極まりない時期なので敢えてそうしたと聞き、危険を顧みないその熱意と誠意を大いに汲まなくてならない、厚く礼を持って応接することに明帝は決めたのであった。また、今後、東夷諸国を従えるためにも倭国との関係は計り知れない重みがあることは明白であった。


大己貴と都市牛利、明帝に拝謁する

 そして十二月初旬、明帝はおそらく風邪を引いて体調が優れなかったにもかかわらず大己貴と都市牛利を接見した。非常に勤勉な彼は風邪ぐらいで休みはしないと無理を重ねていたようだ。
 洛陽城内のほぼ中央に二里四方の宮城がある。その中には多くの宮殿があるが、最も大きくてしかも重要なことに使われるのが明帝が建設した大極殿である。宮殿の正門・?闔門をくぐって数百メートル歩くと太極殿があった。
 明帝は難升米(大己貴)と都市牛利をこの太極殿で接見した。異例の厚遇である。
 魏を慕ってほぼ十年前、太和三年(二二九)十二月に大月氏国という西域のそのまた西の国から朝貢があり、喜んだ明帝は大月国王の波調を「親魏大月氏王」に任じていた。
 今度は世界の東の果ての倭国から朝貢してきたのだ。解放されたといってもまだまだ危険がいっぱいの帯方郡に六月にはたどり着き、遼東遠征軍よりも先に洛陽にもう到着したというから、魏によせる熱い思いがひしひしと伝わってくるではないか。そうだ、倭国王を「親魏倭王」に任じてやろう。

 太極殿大広間で三公をはじめとする百官の居並ぶ中に大己貴一行が導かれた。一行が所定の席に座る。しばらくして明帝が出御される。警護役の官が警蹕の声を上げ、皆が膝まづく。明帝が主座に着席する。
 担当官が大己貴一行を明帝に紹介する。
 明帝は大様に頷いてねぎらいの言葉を二人にかけた後、担当官に次の勅書を読み上げさせた。

 「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉りて到る。汝がある所、踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀しむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を假け、装封して帯方の太守に付し假授せしむ。汝、其れをもって種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青授を假け、引見し労い賜り遣還む。今、絳地交竜錦五匹・絳地?粟?十張・?絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華?五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く、汝が国中の人に示し、国家汝を哀しむことを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり。(岩波文庫:魏志倭人伝による。一部読み下しを変えている)」

☆ 假:自ら授ける(魏朝廷で授ける)。假授:太守・使節などを通じて授けるが相手がそこにいない場合。拝假:太守・使節などを通じて授けるが相手に直接会って授ける場合(ただし相手の地位は使節よりも上位)、と著者は考えている。

 よほどの高官でないと入れない太極殿大広間で、百官の居並ぶ中、明帝に拝謁するという栄誉に浴した二人は目的を果たしたという感激におもわず涙した事であろう。
 ただ、明帝は顔色も悪く、何度も咳をされ、体調が勝れないからとことわってすぐに立座された。その後引き続き二人に任官印綬を授ける儀式が行われた。儀式は中国式になかなか重々しいものであった。

 それから明帝は風邪をこじらせて、おそらく悪性の肺炎にかかられたようだ。病状は急激に悪化していく。
 十二月八日 明帝、嘉福殿にて病の床につく。
 十二月二十四日 夫人(妃の第一位、皇后に次ぐ)の「郭」氏を皇后にたてた。(郭皇后はその後、秀吉亡き後の北の政所のような役割を担い、魏から晋への政権交代に重要な働きをする。)
 同日 天下の男子に爵位を二等級ずつ授け、やもめ、未亡人、孤児、子のない老人に穀物を賜る。(以前よりこうした人々の福祉のための施策を施していたという。)
 十二月二十七日 曹爽を大将軍に任命。
 十二月三十日 おそらくこの頃、白屋(洛陽より約四百里離れた街)まで戻っていた司馬懿に三日間に五回の早馬使者を送りすぐに洛陽に戻るよう指示する。司馬懿、追鋒車に乗り、昼夜兼行で四百里を二日で走破する。
 景初三年一月元旦 司馬懿、洛陽に帰還し、嘉福殿に伺候する。明帝、病室である寝室に招じ入れ、彼の手を取って「皇太子・芳(八歳)はまだ幼いので、曹爽と司馬懿が芳を後見するよう」と託す。同日崩御。享年三十六歳であった。

 正史三国志はいくつかの史書を引いて、「明帝は天性容姿にすぐれ、犯しがたい威厳があった。沈着剛毅で決断力とすぐれた識見を持ち、大臣を手厚く待遇し、善意に満ちた直言・苦言に耳を傾け、厳しい諌言をされてもその者を殺戮したことはなかった。君主としてまことにすぐれた気概を有していた。」と記す。惜しむらくは魏を確固とした国にする前に夭折したことであろう。

大己貴一行、帰国延期となる

 明帝が次期皇帝に指名したのは彼が養育していた斉王・芳である。明帝には何人か子がいたがすべて彼より早世し、そのため二人の男子を養子にしていた。そのうちの一人である。芳が誰の子であったのかははっきりしない。景初三年(二三九)正月一日、明帝が重体となったので芳八歳を立てて皇太子とした。同日、明帝が逝去されたので皇帝となり、大将軍の曹爽、大尉の司馬懿の二人が輔佐することになった。しかし、その二月に曹爽は司馬懿を太傅に任命する。位を上げたのではあるが、芳の子守役で実権はない。要するに閑職に追いやったのである。

 景初三年元旦は大己貴と都市牛利にとっても元旦らしいことはなにもなかった。明帝様が重いご病気なので元旦の祝賀は一切行わないと説明があった。都の大通りもむしろ人通りが少なく、誰もが明帝様の回復を祈って外出を控えているようであった。
 正月二日になると明帝が崩御されたというニュースが伝わってきて、大変なことになったという実感が湧いた。
 正月休みが明けても朝廷は喪に服しているため、葬儀関係以外は一切の公的行事は行われないと通知された。
 明帝(実際はそれまでは「曹叡」という名前であったが、死後に明帝と諡された)が高平陵に埋葬されるまで、一連の葬式行事が厳粛におこわなれ、大己貴と都市牛利も授けられた朝廷官位に応じてそれらに参加した。
 この高平陵への埋葬がいつ行われたのかは調べてみたがわからなかった。おそらくすぐに葬られたのではなく、別れを惜しんで数ヶ月後のことであったと考えられる。
 そのうち、一切の公的行事が景初三年間ずっと停止されるだろうということと大己貴と都市牛利の帰国も翌年になるだろうということも通知された。二人はじっくり腰を落ち着ける覚悟を決めた。それに生活自体はまるで竜宮城に滞在しているかのようにとてもよかったのだ。

大己貴と都市牛利、出仕する

 二月に入ると大己貴と都市牛利は洛陽城内に住居を与えられ、大尉府に出仕することになった。二人はそれぞれ、率善中郎将と率善校尉に十二月に任命されていたからである。
 率善中郎将・率善校尉というのは異民族(匈奴・鮮卑・烏丸・東夷・南蛮など)を管理する武官職で、定員はなく、必要に応じて任命されたという。もとより二人にはその能力はない。したがって、単なる名誉職で二人がすぐ帰国するものという前提で任命されたのであるが、帰国が一年後ということになり、それでは実際にできることをやってもらおうということになったのだ。また、給料も位階「四品」の大己貴には比二千石という朝廷高官相当の給料が支払われ、位階が一つ下の都市牛利にも中級官吏としての給料が支払われることになったので、二人にとっては豊かな生活を送ることになった。

 しかし、二人とも言葉ができないのでまず言葉の勉強から仕事が始まった。連れて行った通訳ともども、まず簡単な本から与えられ、専任の教師がついた本格的なものであった。字が読めるようになり会話が少しずつできるようになることは苦労も多かったが楽しいことであった。驚くべきことに二人の語学力は最後の頃には普通の日常会話を一応こなし、またやさしい教養書なら読めるようになった。たとえば「孫子」の兵法を読んでその含蓄の深さに驚き、たとえば曹操の人間味あふれる詩に感動するまでに上達したのであった。さらに異民族からの朝貢文書などを読んだりすることもできるようになった。

大己貴、風邪を引く

 大陸でしかも盆地の洛陽の冬はとても寒い。北の芒山(?山)からは肌を刺す寒風が吹き下ろすし、時には雪が降る。出雲もかなり寒いが洛陽の寒さほどではない。洛陽の寒さは大陸的な寒さで、骨が凍るような体にこたえる寒さである。大己貴も風邪を引いて発熱し、寝込んでしまった。早速、宮廷の太医令配下の医官がやってきて脈を取り、舌を出させて観察し、汗の出具合を調べ、額に手を乗せて体温を測ったりして診察した後、薬を処方してくれた。
 その薬が熱のある舌になんとも言えず爽やかで、数回服用しただけで熱が下がり体が回復した。
 あまりに効果があったので驚きもし、このような薬が倭国にあるとどれだけいいだろうと考えた。治療に来た医官にどういう薬か教えて欲しいと頼むと太医令殿のお許しがあればお教えましょうという。
 数日して少府府という所に来るようにという連絡があった。大己貴は通訳を伴って出かけていった。そこは宮中の食物、医療、衣服、刀剣銅鏡などを扱う大きな役所群で、それぞれ独立した建物に長官となる卿や令がいた。
 医療宮ともいうべき建物は太医令が取り仕切っており、医官(すなわち医師)達や薬丞(薬剤師)達が大勢いて仕事を行っていた。薬丞は原料となる薬草や鉱物を魏全国から収集し保管するの分担していた。
 医官達は保管してある薬草を取り出してきて、薬研で粉末にして一定割合で混合したり、丸薬にしたりして薬を作っていた。それらを持って患者を診察し、症状にあわせて投薬し、複雑な病気であれば新たに調合しなおして投薬するのだと言う。
 太医令が先日、大己貴の診療を行った医官に言った。「この方は倭国からやってこられた「難升米」と言われる方だ。倭国では出雲という州の太守をされているが、倭国の使節大使として来られ、今は率善中郎将になっておられる。先日、お前の診療が非常に良かったので、是非ともわが少府の処方を教えて欲しいとお望みである。詳しく教えてあげるように。ああ、そうだ。率善中郎殿が興味をもたれるようなら「神農本草経」を見せてあげなさい。」

大己貴、魏の宮廷処方を勉強する

その医官は書庫から美しい漆塗りの筥を持ち出してきた。机の上に置いて蓋を開けると「神農本草経」と書かれた本が現れた。それを鄭重に取り出して大己貴の前に置いた。
 「これは今より三千年前、神農というお偉い方がおられて、薬草・薬木・薬石を始めて見出され、人々に伝えられたのを一冊の本にまとめたものです。勿論、その後いろいろな人が付け加えもし、近くは漢の名医、張仲景殿も手を加えられたと伺っております。いや、もしかするとこの本が張仲景殿のご本かもしれません。現在、我々が使っている薬はすべてこの本に載っております。
 そもそも、薬というのは三種にわかれます。一番いいのは飲んで副作用なく、いつまでも飲める物で「上品」と申します。次に良いのは副作用が少なく、効果があり、病気のときだけに飲めば安心して飲める物で「中品」と申します。最後に効果も大きいが副作用も強く、薬でもあり毒でもあるものを「下品」といいます。副作用が出てきたらすぐに止めねばなりません。
この本には上品百二十種、中品百二十種、下品百二十五種、合計三百六十五種の薬が載っております。」

 勿論、大己貴は漢字が読めないから何が書かれているのかわからない。しかし、大己貴は何とかして読めるようになりたいと考えた。通訳を通じてそれを伝えると医官はしばらく考えていたが、写本を行ってはどうかと言った。
 そして、早速、紙と硯と筆がそろえられた。紙は非常に貴重であったが、そこは魏の朝廷である、惜しみなく使わせてくれた。
 医官は最初の一ページを写してみせ、後は自分でやりなさいと言った。大己貴は生まれて初めて字を書くことを教わったのである。一ページを写すと医官がその書写したところの読み方を教えてくれる。連れて行った通訳も一緒に発音を勉強する。そして意味を通訳が聞き取り大己貴に伝える。大己貴は少しずつ中国語の発音と意味を覚え始めた。写本が終わるまでに二、三ヶ月かかったが、写本が終わる頃には驚くほど中国語、とくに医療用語に堪能になった。
 写本が終わると医官が言った。「貴方は驚くほど熱心です。私達は多分途中で投げ出すだろうと思っておりました。最後まで写されたので王叔和太医令殿も感心されて、我々の処方をお教えするようにと私に命じられた。これは極秘で少府府から持ち出すことは禁止されているものです。それを特別にお教えします。」
神農本草経は一つの薬草などのそれ自体が持つ効能が書いてある。しかし、実際は数種類の薬草などを調合して服用する。調合法は当時は医師の秘伝であった。しかしそれを公開した医師がいる。後漢の名医、張仲景で、彼は「傷寒論」という本にそれを公開したのである。王叔和太医令を中心とする魏の宮廷医達はそれを研究・改良して処方していたのであった。
 医官は自分のノートを持ってきて、よくある疾患の処方三十種類ばかりを教えてくれた。勿論、それを筆写したことは言うまでもない。
 一疾患あたり三ないし五、六種類、ときには七、八種類の原薬剤を組み合わせて一処方としてあった。薬草などの原料の処理方法、組み合わせの割合、また服用する疾患の時期(疾患の初期、盛期、回復期)まで詳しく書かれていた。実際、医官は「張仲景方論」と題された本を見せてくれた。それは王叔和太医令が後漢末期の混乱のために散逸しかかっていたのを苦労して蒐集したものであった。
 さらに薬剤蔵より陰干した原材料を持ち出してきて分けてくれた。大己貴は通訳や魏朝廷に献上した「生口」達まで動員して原材料の倭名を調べた。大変な労力がかかったが、かなりの材料は倭国にもあることが判明した。こうして、大己貴は魏の宮廷処方を身につけたのであった。彼が出雲に帰った後、それは本当に役立ったのである。

大己貴と都市牛利、特別な銅鏡を上申する

 話はさかのぼるが、大鴻臚卿が大己貴らに帰国が一年延びると告げた時に、「諸事不自由な外国で滞在が一年延びるということは大変なことであろう。ご希望することがあれば遠慮しないで述べられたい」と言ってくれた。
 その時、大己貴はヒルメ姫様の言葉を思い出した。それは霊帝様から戴いた画文帯神獣鏡は、実は特別なものであって、その後同じものは中国でも作られず、唯一のものであるために今でも権威があるというのである。それにまだ楽浪に朝貢していたときには楽浪太守に羨ましがられて数枚献上までしたという。
 大己貴は、滞在についての希望でなくてもいいかと念を押してから、すでに崩御されてしまわれたが明帝様から戴く銅鏡は特別な、唯一無二の銅鏡にして戴くわけにはいかないか、もしそのような銅鏡であればヒルメ姫様も大喜びされるだろうと述べたのである。すなわち「親魏倭王」の印と同じように、世界中でヒルメ姫様だけが持つ銅鏡を下賜してもらえないかと言上したのであった。
 大鴻臚卿はその意味を理解して、曹爽大将軍に取り次いでおこうと約束してくれていた。

 ある日、大己貴が写本を行っていると太医令より少府府の総長官である少府卿が大己貴および都市牛利をお呼びになっていると伝えられた。翌日、二人がそろって少府卿のいる総長官室に伺うと、
 「先日、あなた方は大鴻臚卿に倭国に持ち帰る銅鏡について希望を述べられた。それについて今日、あなた方に来ていただいた。喜びなさい、曹爽大将軍が特別な銅鏡を作ることをお許し下された。ただ、すでに作ってある銅鏡もあり、すべてを新しくというわけにはいかない。それにここ数年の間に作られたわが国の銅鏡にも非常にいい銅鏡があるのでそれも一度見て欲しい。」という話であった。
 二人が感謝の言葉を述べると、早速同じ府の中の「右尚方」という工房に案内された。隣には「左尚方」という工房があり、「中尚方令」という長官が両工房の責任者であった。ここでは天子の刀剣、銅鏡、玩好の器物、などを作っているということであった。少府卿は中尚方令に二人を紹介した。すでに中尚方令は指示を受けていて、彼なりに銅鏡について考えていたようであった。
 中尚方令はいくつかの作業グループの指導者格の一人の男を呼び出した。その男は名を「陳」といった。
 中尚方令と陳氏がすでに案を練っていて、大己貴が持参した画文帯神獣鏡や、また後漢時代よりこの右尚方に残っている画文帯神獣鏡の図面を参考にいくつか実物大の模式図を書いた製図紙を出してきた。さらに特徴を際立たせるために銅鏡の縁を三角にしてあった。すなわち三角縁神獣鏡である。
 二人はそれらの図面を見て特に異議を挟むことは見当たらなかった。製作に当たっては「陳」氏グループが主に担当し、人手が足りなくなった時は「王」氏や「張」氏、その他のグループも応援することになった。
 銅鏡は最初はワンロット約五枚ずつ作り、出来上がりを見て細かいところを訂正し、次の銅鏡を作るということになった。ただ、完成作品は一種類ではなく何種類もあり、その設計図はずっと残すことになった。
 そのうち銘文を入れたものや、製作年月日を入れたものも作った。銘文は大己貴や都市牛利の意見も入れて韻を踏んだ詩的文というよりは理解しやすい文となった。二人がヤマトに帰って説明を求められたときに難解では困るからである。
 こうして銅鏡製作はほぼ一年近く続けられた。十一月になると困ったことが起きた。それは次の年が「景初四年」となるのか、それとも年号が変わるのか依然として決まっていなかったからである。大己貴と都市牛利は翌年一月末に帰国することになっていた。年末・年始は職人も休みを取るので十二月中ごろまでには全部作り上げてしまいたい。銅鏡はもうほとんど百枚になっていたがまだ百枚には達していなかった。
 それで十一月に入って「景初四年」という製作年月日を入れた銅鏡がワンロット作られた。
 ところが十二月になった早々、翌年の年号は「正始」となることと、その年の十二月に閏月を追加することが発表された。したがって大己貴・都市牛利の帰国は一ヶ月延期されることになった。
 十二月が六十日となり時間にゆとりが出来たので、景初四年銘の銅鏡を廃棄して、正始元年銘の銅鏡をその間に作ることになった。ところが景初四年銘の銅鏡の出来が非常に良かったので、大己貴が特に願って個人的に分けてもらい、出雲に持ち帰ることにした。

都市牛利、銅鏡製作を習う

 都市牛利は銅鏡の製作に興味があるようで、製作に実際に立ち合わせ欲しいと頼んだところ簡単に許可してくれた。そして都市牛利は毎日、右尚方にまるで出勤するかのように出かけて行き、そのうちに陳氏の指導を受けて実際に製作に携わるようになった。製図から鋳型の製作、鋳込み、鏡の取り出しと研磨などに手を染め、初めは出来がよくなかったがそのうちに立派な銅鏡を作るようになって陳氏に褒められるほどになった。

☆ 都市牛利は倭に戻ったあと、銅鏡製作を司るイシコリドメ(石凝姥、石凝戸辺、伊斯許理度売)を指導し、三角縁神獣鏡の複製を行ったと著者は推定している。というのは都市牛利は死後、天照御魂神と諡され、奈良県磯城郡田原本町の鏡作坐天照御魂神社(鏡作神社)にイシコリドメと一緒に祀られたと考えるからである。しかし都市牛利をトシゴリと読むとイシコリドメとなんとよく似ていることか。

大己貴、製鉄所を見学する

 大己貴にはどうしても知りたいことがあった。それは製鉄の技術である。これは国家秘密に関することなのでおいそれとは許可されないだろう思ったが、駄目でもともとと申請してみた。
 すると意外に許可が下りた。製鉄は洛陽の南で大掛かりに行われているというのである。
 大己貴と都市牛利は、役人に案内されて数日がかりでその製鉄所を見学した。それは巨大な建物で、中には溶鉱炉というこれも見たこともない大きな炉が作られていて、銑鉄を作っていた。溶鉱炉の大きさと一回にできる鉄の量に圧倒されたが、冷静に観察すると石炭という燃料を使うところにキーポイントがあることがわかった。それは真っ黒な鉱石で高温で燃えるのである。
 石炭がないとこの製鉄法はうまくいかない。したがって、この方法を直接出雲に導入することはできないと大己貴は結論した。
 しかし、銑鉄法という大量製鉄法があること、銑鉄から鋼鉄への変換、すなわち炒鋼法を実地に見、この製鉄法の長所と欠点を知ったことは非常にためになった。

大己貴および都市牛利、曹芳皇帝に拝謁する

 景初三年十二月になって、翌年より暦を夏暦にもどし、景初四年正月を景初三年後の十二月とし、景初四年二月を年号を改めて正始元年正月にすると詔勅があった。
 これで魏の月が周囲の国々の月と再び一致するようになったわけである。また二人の帰国も実質一ヶ月延びたのである。
 正始元年(二四○)正月に明帝の喪が明けて公式の行事が再開された。朝廷ではわずか九歳になったばかりの曹芳皇帝が廷臣の元旦朝賀を受けた。政治の世界では幼子に等しい曹芳が、不安定な大国「魏」を背負っていく姿はむしろ痛々しいものであったに違いない。
 大己貴と都市牛利はその地位に応じて朝賀式に参加したものと思われる。
 それからまた、明帝の喪中のために遠慮していた国々から皇帝就任慶賀使節団が年末に送られてきており、曹芳が彼らの祝賀を受ける日があった。
 その日は焉耆国、危須国(現:新疆ウイグル自治区内ウルムチ付近)、弱水(黒竜江)以南の夫餘国、東沃沮国、および魏の北隣、鮮卑国からの使節団が拝謁した。
 大己貴と都市牛利もいつの間にか着慣れた中国服をその日は脱いで倭服に戻り、曹芳に拝謁した。 
 曹芳皇帝の左右には大将軍曹爽と太傅司馬懿が並び、使節が跪くと担当官が紹介し使節団の祝辞を取り次ぐ。曹芳は教えられていた言葉を投げかける。まだ幼いので各使節に問いを発することもない。そして次の国の使節の接見に移る。大己貴と都市牛利の拝謁も同じように終わった。
 ところで司馬懿は太傅に祭り上げられて政治の中枢から遠ざけられており、各国の使節団について前もって詳しい資料を提供されていたわけではなったと思われる。たとえば大己貴と都市牛利が東夷の国々のうちの倭からの使節であると聞かされて、「東倭」と記憶するぐらいであったようだ。 

☆ 魏王朝はその二十五年後に司馬懿一族の晋王朝に禅譲する。司馬懿は宣帝と諡され、晋王朝の始祖となる。晋王朝の公式の歴史書・晋書は宣帝紀からはじまる。
 晋書・宣帝紀の正始元年の項に「 春正月、東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。」と記載されている。字句の通であれば東倭とは倭の東の国、すなわち久努国のようにも受け取れる。その方が話としては面白い。その後、邪馬台国と狗奴国の争いに魏が乗り出す理由が両国とも魏の外藩国であるからというもっともな理由がつくからである。
 また、上の文章の後に「焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王がみな使者を遣わして来貢した。」という文章が続き、東倭もそれら国々も前年の秋の終わりか冬に使節団を送ったというふうに読み取れる。
 しかし、この頃の政治情勢を考えると内政は曹爽が握ってしまっており、司馬懿は病と称して引き籠ることが多かったことを考慮しないといけない。すなわち、知らないか記録していないことが多かったと推定されるのである。司馬懿は約十年後に突如曹爽をクーデターで捕らえて斬ってしまう。その時に曹爽が記録していた公文書類も消失したと考えられる。もし、曹爽が生きながらえて正始元年の曹爽側の記録が残っておれば、より詳しく正確な記録が後代に残されただろう。

大己貴と都市牛利、帰国する

 拝謁の日が終わると二人はすぐに帰国の準備を始めた。大己貴が個人として持ち帰るものの中には、神農本草経写本、傷寒論に基づく魏宮廷医の処方集、率善中郎将として知りえた夷国朝貢使節の朝貢文集、それから当時の名士達が読んだ教養書(たとえば曹操が補注したといわれる孫子兵法など)、景初暦、それに墨と筆、天照ヒルメ姫様への土産、何人もの妻達への土産や子供達への玩具などがあったことだろう。
 そして大己貴一行は一月末か二月初めには親しくなった人々へ別れを告げ、洛陽を去ったものと思われる。そして二・三ヶ月かかって帯方郡に到着する。 帯方郡では、あらたに太守となった弓遵が出迎えて歓迎の宴を張る。その後、建中校尉梯儁が一行を護衛して海を渡り、約二ヶ月かかって伊都国に着く。
 大己貴は率善中郎将である。魏の位階は将軍、中郎将、校尉の順なので、梯儁よりは大己貴が威張っている。
 伊都国では伊都国王、長官の「爾支」、および大率が出迎える。ここからは梯儁らは今度は客となりヤマトに向かう。このとき、 接待をした男達の中に爾支 の息子だというきびきびとした若者が一人いた。大己貴はその若者が好ましかったので名前を調べたところ「ニギハヤヒ(邇芸速日、饒速日)」という名前であることを知った。

 さて、どのルートを通ったかを考えてみるのも一興である。しかし、この場合は明らかである。すなわち出雲を通過するのである。
 伊都国(福岡県前原市)→(陸路)→奴国(福岡平野、春日市、須玖岡本遺跡?福岡市、板付・比恵遺跡?)→(陸路)→不弥国(福津市津屋崎付近?)→(海路二十日)→出雲稲佐の浜より上陸して出雲の大己貴の館へ。大己貴主催の歓迎の宴の後、再び稲佐の浜かまたは島根半島七類などの港より出航。→(海路十日)→湖山池あたりから上陸。現在の国道一号線に平行ないし一部オーバーラップする道を通る。但馬の和田山からは朝来、生野、姫路へたどる播但連絡道路に沿う道を取る。
 姫路からは瀬戸内海に沿って東に進み、尼崎のあたりから淀川北岸に沿って北上し、都市牛利が自分の館で歓迎の宴を催した。彼の館はかっての溝咋村、現在は溝咋神社の鎮座する茨木市五十鈴町一帯にあったと思われる。もっとも都市牛利の歓迎の宴は一行がヤマトからの帰路であったかもしれない。
 さらに一行は淀川を渡って南に下り、河内湖を船で渡る。その後、いくつかあるルートのどれかを通って奈良盆地(奈良県では大和平野と呼ぶことが多い)に入る。考えられるルートとしては、どこかで生駒山を越える、東高野街道を南下して大和川に沿う亀の瀬越え道を取る、さらに南下して竹内街道を利用するなどである。

 纒向の天照ヒルメ姫は帰国した大己貴、都市牛利、および明帝の詔書・印綬、および曹芳皇帝の詔を奉じた建中校尉梯儁らを迎えて厳かな詔書伝達式を行った。この式は考えるとややこしい点がある。
 天照ヒルメ姫は親魏倭王なので王である。梯儁は建中校尉なので位階としてはずっと下であるが、曹芳皇帝の代理なので詔書を読み上げる時はヒルメ姫よりも上である。その点がややこしいのである。
 おそらく中国に習慣に通じた大己貴が円満にそれらを解決したものと思われる。
 例えば、まず明帝の詔書と曹芳皇帝の詔書を中央台上に置き、式に参加した全員が礼拝する。次に梯儁と天照ヒルメ姫が向かい合い、大己貴が中央の台より恭しく詔書と詔を持って降りて梯儁に渡し、彼がそれらを読み上げる間はヒルメ姫は少し腰をかがめる。読み終わると再び詔書を大己貴が受け取って中央台上に戻し、再び全員で礼拝する。まず、そんなところであろう。魏志倭人伝では次のように記す。

 「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、(明帝の)詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝假け、ならびに(曹芳皇帝の)詔を齎し、金帛・錦?・刀・銅鏡・采物を賜う。」()内は著者の挿入である。

 その式の後、何日にもわたって歓迎祝賀の会や宴が催されたのは言うまでもない。それらが終わると、天照ヒルメ姫様は魏の曹芳皇帝に対する深い感謝の辞を大己貴に書かせた。大己貴は白絹に墨汁も鮮やかに「 詔恩を答謝する」素晴らしい文章を達筆に書きあげそれを梯儁に託した。

 「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。」


第六章 久努国との戦い

大己貴と都市牛利、銅鏡を拝受する

 大己貴と都市牛利はそれぞれのクニへ帰ることになった。大己貴は出雲へ、都市牛利は三島へ帰ってゆっくり休むがよいとヒルメ姫様からお許しが出た。
 ヒルメ姫様は沢山の土産を用意してくれた。それには魏の明帝からヒルメ姫様が戴いた銅鏡も含まれた。
 銅鏡にはいろいろなものがあったが、とくに年号の入った銅鏡(紀年銘鏡)は高貴なものであるとして大己貴は何枚も頂いた。たとえば、次のようなものである。

(一)青龍三年銘 方格規矩四神鏡 (京都府大田南五号墳出土)
(二)景初三年銘 三角縁神獣鏡 (島根県神原神社古墳出土)
(三)景初四年銘 斜縁盤龍鏡   (京都府広峰十五号墳出土)
(四)正始元年銘 三角縁神獣鏡  (兵庫県森尾古墳出土)
(五)正始元年銘 三角縁神獣鏡  (群馬県柴崎古墳出土)

 景初三年銘の銅鏡を大己貴は特に大切にした。景初三年一年間をずっと洛陽といういわば龍宮に過ごし、それはそれはいい経験を積んだのである。銘文は「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、杜地命出、吏人?之、位至三公、母人?之、保子宜孫、壽如金石兮」
 この銘文は陳さんが出したいくつかの案のうち、自分が選んだものである。わかりやすく自分にはぴったりである。自分としてはヤマトに早く三公(王に次ぐ一位から三位までの位階)として呼び戻してもらいたいし、それに子孫繁栄を謳っている。

 一方、都市牛利も何枚も銅鏡を頂いた。そのうちの五面が安満宮山古墳から出土した。記年銘鏡としては青龍三年銘、方格規矩四神鏡の一面があるが、これは二人が魏に派遣される前にすでに作られていたものである。
 残り四面は都市牛利自身がなんらかの意味で製作にタッチした銅鏡で、一枚一枚にその思い出が込められたものばかりである。

 ヒルメ姫様は玉祖命にも紀年(正始元年銘)銅鏡を下賜された。ヒルメ姫様の死後、彼はそれを抱いてヤマトを離れ、現在の山口県防府市に落ち着き一生を送った。その銅鏡は竹島御家老屋敷古墳より出土した。
 同様に天児屋根命にも紀年(景初三年銘)銅鏡を下賜された。その銅鏡は大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳より出土した。

ヒルメ姫様に曹芳皇帝の元服祝賀使節派遣を献策する

 大己貴は相変わらず年に一回はヤマトのヒルメ姫様に伺候する。正始三年秋に帯方郡に朝貢した大己貴の使節団は一つの情報をもたらした。それは正始四年の正月に曹芳皇帝の元服式があるというのである。そして「春に来られた倭の方にそう申し上げておきましたが、その後、祝賀の使節団はお出でになりませんな。」と首をかしげていたというのである。
 早速、ヒルメ姫様にそのことを申し上げるために大己貴はヤマトに急行した。そしてヒルメ姫様に伺候すると、驚いたことにヒルメ姫様は吃驚するほど歳をとられた感じがした。それに話に今までのような鋭さがまるで感じられないのである。彼は「ヒルメ姫様が耄碌し始めた」と感じた。と同時に補佐をしている忍穂耳に強い憤りを感じた。忍穂耳はいったい何をしているのだ。しっかりとヒルメ姫様を補佐しないとヤマトが危なくなるではないか。
 おそらく曹芳帝の元服の話は夏ごろにはヤマトにもたらされたに違いなかった。ヒルメ姫様との話を適当に切り上げて、忍穂耳やそのほかの閣僚に「最近、ヒルメ姫様のご様子は如何か?」と聞くと、皆「一向に変わりなく、仕事をこなしておられる」という。それでは魏の曹芳帝の元服式になぜ祝賀使節団を送らないのかと詰ると「ヒルメ姫様が指示をお出しにならないから」と答えるのみである。一緒にいる人間にはヒルメ姫様の衰えに気がつかないのかもしれなかった。いや忍穂耳も六十歳を越しているから衰え始めているのかもしれなかった。
 ヒルメ姫様にもう一度お目通りし、曹芳帝元服祝賀使節団派遣の建議を行った。
 ヒルメ姫様は、ひどく困惑した顔になり、
 「実は派遣する適当な人物がいないのです。それと私は近頃迷うことが多くて決断が出来ないのです。」
と言われるのである。大己貴は唖然とした。考えてみるとヒルメ姫政権があまりに長期政権となったために閣僚が老化し始めているのである。
 彼は忍穂耳達に礼を失しないようにしながらも、使節団の編成から細々とした事まで指示を出した。
 派遣大使にはヤマトにいる男を考えたが適当な人材がいず、伊都国の長官「爾支」の長男「ニギハヤヒ(饒速日)」に白羽の矢を立てることにした。大己貴一行が魏より帰国したときに伊都国での彼のきびきびとした働きぶりを思い出したのである。

 副大使にはヤマトやその他のクニの優秀な男達を何人も選んだ。魏志倭人伝では使節団は合計八人であったと記す。
 それからヒルメ姫様の祝辞は大己貴が書いた。また、別に出雲国太守としての祝辞も書いて使節団に託した。この祝辞は大己貴が洛陽滞在中に学んだ中国文素養を駆使して書き上げたので洛陽朝廷の人々を驚かせるような名文となった。洛陽朝廷は改めて倭国には「難升米」というすぐれた男がいると認識したのである。
 使節団が元服式にもはや間に合わないことが明らかなので、翌年少し寒さが和らいでから出発した。魏志倭人伝には次のように記す。

 「その四年、倭王、また使大夫伊声耆掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青?・緜衣・帛布・丹・木?・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。」

 この使節団はなんとか正始四年内すなわち十二月に洛陽に到着し(魏書「三少帝紀」)、曹芳帝の春正月の元服式には全く間に合わなかったが、それなりに歓迎された。そしてニギハヤヒは率善中郎将の印綬を拝している。
 ニギハヤヒは魏では「イソニキ・イヤヒコ」と名乗った。魏志倭人伝には伊声耆掖邪狗と記す。ニギハヤヒも三角縁神獣鏡を拝領して戻ったと推定される。
 彼の最初の妻は天道日女で大己貴の娘であるとされるが、その名前からみるともしかすると魏から連れ帰った女性のようにもとれる。彼は二人の間に生まれた子供(天香語山命)にもイヤヒコの名前を付けている。

その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。

 大己貴が洛陽にいたときに、「自分は八千矛と言われている」とその軍事力を自慢したことがある。それが洛陽朝廷に記憶されていたに違いない。彼に奮起してもらおうという詔が発せられた。
 「奮起」にはどうも二つの意味があるようである。
 まず魏の立場から考える。
 景初二年(二三八)の年、一年かけて遼東郡、楽浪郡、帯方郡を手中に収めたが、その周辺の諸国、とくに高句麗、?、三韓の実質支配はまだ出来ていなかった。馬韓を除いてはどの国も朝貢してこないのである。
 公孫淵を打ち破った直後は情勢が不安定であったので、魏はそれらの国々を厚遇した。それが結果的にはまずかったようで、情勢が落ち着いてきたので支配関係を再構築しようと試みたのだがうまくいかない。次から次へと反抗、反乱を起こし始めた。
 そこでやむを得ず、正始五年(二四四)から軍事力を行使することに内定した。?や三韓は帯方郡に攻められると、もしかすると倭国に応援を頼むかもしれない。その場合、倭国は毅然として三韓に対応して欲しいというのが魏の魂胆である。とくに大己貴を指名したのはヤマトよりも出雲が辰韓・馬韓・?に近いことと、大己貴の知力・軍事力に期待したのであろう。

 さて、高句麗と?は同盟を結んで魏の臣従要求を拒絶した。そこでまず正始五年に幽州刺史?丘倹と玄莵郡太守王?に命じて高句麗を攻撃させた。二人は迎え撃った高句麗軍に破れ、一旦は撤兵した。
 翌正始六年、?丘倹と王?は準備をぬかりなく整えて再び高句麗に出撃し、激戦の末、高句麗軍を壊滅させた。首都丸都城(鴨緑江中流の中国側、通溝付近で好太王碑が近くにある)は陥落し、高句麗王「位宮」は東沃沮に逃亡した。それを追って二人はさらに東沃沮に進軍し、東沃沮軍を壊滅させる。位宮はさらに北沃沮に逃亡した。王?は?丘倹と別れてそれを追って進軍しやがて日本海に出た(おそらく北朝鮮清津と北朝鮮・ロシア境界線の間かといわれている)が、結局、位宮を捉えることが出来ず、ここで彼は軍を返した。
 同じ時期、すなわち正始六年、魏は楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵に命じて?を攻撃させた。二人は連合軍を組織して?に攻め入った。?は頼みとする高句麗からの援軍が来ず、?王「不耐侯」は全邑をあげて連合軍軍門に下った。
 こうして正始六年末には高句麗と?への支配関係が確立され、その方面での問題は解決した。
 魏の高句麗と?への侵攻を見ていた三韓には魏に対する強い不安と不穏の空気が漂い始めていた。次ぎに侵略されるのは自分達だと感じ始めたのである。その動きを予測して魏は大己貴に詔書と黄幢を賜ったと見ることが出来る。

 一方、倭に目をやると次のような状態であった。
 魏朝廷は帯方郡からの報告として、女王ヒルメ姫政権が狗奴国(久努国)の反抗に手を焼いているということを知っていたようだ。さらにヒルメ姫が老齢で先があまりないこととか、梯儁のヒルメ姫に関する報告が芳しくなかったこともあり、むしろヤマトに次ぐ国力と軍事力を誇る出雲国の太守、大己貴に奮起を促した。

☆ 梯儁はヤマト滞在中に、ヒルメ姫が中国では信じられないほど長年にわたってヤマト王ひいては全倭国大王として君臨してきた理由を、彼なりに観察して分析を試みたが掴みきれなかった。結局、「王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以って自ら侍せしむ。ただ男子ひとりあり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。」という状態を見て「鬼道に事え、能く衆を惑わす」為と解釈した。そして中国に戻ってそのように報告したと考えられる。
 中国では漢の頃より女性の占い師が活躍していた。それを鬼道といった。占いの常として良い場合もあれば悪い結果を生む場合もある。次はその悪い典型例である。
 景元四年(二六三)秋七月、魏が大軍を催して蜀に攻め込んだときに、劉禅皇帝は巫女を宮中に呼んで祭壇をしつらえ占わせた。彼女はその室に劉禅皇帝と宦官の黄皓の二人だけを残して他の廷臣を追い出し、祭壇に向かって祈りを捧げていたが突然、神懸りして髪を振り乱し、素足で殿中を数十遍も跳ね回り、祭壇の上をまわりはじめ、「我こそは西川の守り神なり。陛下はただ泰平を楽しんでおられるがよい。・・・・・何も憂うることはない」と叫んでばったり倒れた。劉禅皇帝はそれを信じて魏軍が成都に近づいてくるのに無為無策であったために、まもなく(年内に)成都は陥落し、蜀は滅亡してしまった(立間祥介訳「三国志」)。このように「鬼道」という言葉には「妄信すれば危険」という意味がこめられている。

 大己貴なら一年間、率善中郎将として朝廷に勤務していたから、その人柄も良くわかっており、すっかり中国式文化を身につけている。大己貴が功績をあげてヒルメ姫の後継者になれば、倭国がさらに一層親魏国になるから好都合である。そこで正始六年に曹芳帝の詔書と魏の軍旗ともいえる黄幢を帯方郡に送り届けたという次第である。

 しかし、正始六年は楽浪太守劉茂は不在で、彼は帯方太守弓遵と連合軍を編成し、?に出撃していたのである。太守が不在であったから詔書と黄幢は帯方郡治の重要書庫に納められたままになってしまった。
 その年ほとんど丸一年間、?を攻めるのに明け暮れた。そして?をようやく降伏させほっとした途端、あけて正始七年(二四六)になると、突然、馬韓・辰韓連合軍が帯方郡の崎離営(おそらく出張所か)を攻撃してきた。
 これは楽浪郡が辰韓十二カ国のうちの八カ国の割譲を要求したことによる。魏志東夷伝・馬韓の項によれば、その時、帯方郡の役人の説明が不確かでしかも一回ごとに説明内容が変わったために馬韓をはじめ韓諸国の人々が激怒したためと記すがそんなレベルの話ではない。辰韓八カ国割譲という途方もない要求であったことと、馬韓もそのうち割譲を迫られるだろうと不安に襲われ、連合して反乱を起したのであろう。
 辰韓の反抗は予想していたが、馬韓も加わっての激しい反抗は予想外だったようで弓遵は崎離営を救うためにあわてて出陣した。準備不足のせいと思われるが、弓遵自身が(おそらく五月頃)激戦中に戦死してしまうという予想外の結末になった。帯方軍は四散しかけたが、応援に駆けつけた楽浪太守劉茂が必死になって建て直した。そして楽浪・帯方両軍の兵を率いて奮戦した結果、ついに馬韓・辰韓を降伏させた。


正始七年、久努国、ヤマトへ侵攻を試みる

 正始七年、初夏の田植えが終わった頃、大己貴はヤマトより使いが来て至急にヤマトへ来て欲しいと呼び出された。ヒルメ姫様が何かのご病気というのではなく、久努国から法外な要求があり、その対応の相談に乗って欲しいというのである。
 景初二年、ヒルメ姫様が朝鮮半島に向かう久努国の船をすべて阻止したことから、両国関係が険悪になっていることは大己貴も了承していた。やはり卑弥弓呼も使節団を組織して帯方郡に送ろうとしていたのだった。
 大己貴は情勢が読みきれないので五十人ばかりの親衛隊を引き連れてヤマトに向かった。
ヤマト纒向のヒルメ姫様の宮殿には三島の都市牛利、河内の天児屋根、阿波の天太玉、生駒の長髄彦、伊勢の伊勢津彦などの有力首長連中と忍穂耳らヒルメ姫政権閣僚達が集まっていた。伊勢津彦は一応、初代としておこう。神武天皇の時の伊勢津彦は二代目とする。
 大己貴の到着を待って会議が始まった。忍穂耳が説明した。
 久努国の卑弥弓呼より申し入れがあり、次期ヤマト首長には卑弥弓呼自身かまたはその王子にすることを要求してきたというのである。そして返事次第ではヤマトを攻撃すると三河湾一帯に兵を集めて盛んに訓練しているという。
 それから卑弥弓呼はどこからか銅鏡を手に入れてきて、それを周囲に見せびらかし、久努国こそ倭国を代表する国と認定されたと宣伝しているというのである。銅鏡には赤烏と銘が入っているようだ、すなわち呉鏡らしいと都市牛利がいう。

☆ 日本では呉の紀年銘鏡が二枚出土している。一枚は山梨県鳥居原狐塚古墳から出土した赤烏元年銘・平縁神獣鏡であり、もう一枚は兵庫県宝塚市旧安倉村(宝塚市南部、武庫川東岸)の安倉高塚古墳から出土した赤烏七年銘・平縁神獣鏡である。
 赤烏元年は呉の年号で、景初二年と同じ西暦二三八年である。著者は非常に飛躍した推理であるが久努国がヤマトと争って帯方郡に朝貢しようとしたが、ヤマトの警戒が厳しく、やむを得ず?または高句麗に行ってこの銅鏡を手に入れたのではないかと推定する。赤烏七年銘銅鏡もまたしかりである。ただし、赤烏七年(二四四)と言う年は魏の正始五年にあたり、高句麗が?丘倹の攻撃を受けたが一応撃退した年である。

 容易ならざる事態である。最も悪いことは後継者に決まっているオシホミミ(忍穂耳)が、判断力・決断力・実行力・勇気など全ての面でヒルメ姫様の後継者としてはふさわしくないと思われることにあった。
 大己貴としてはヒルメ姫様が忍穂耳を断念して、できれば自分を後継者に指名して欲しいと内心どれくらい思ったか知れない。毎年、二ヶ月もかけてヒルメ姫様に伺候して来たのはそのための準備工作なのである。
 しかし、この難局に当たっては一致団結して皆で忍穂耳を支えていかなければならない。一致団結しなければこの難局は乗り切れない。
 ヒルメ姫様は皆の強い団結を確認すると、自分の後継者は忍穂耳に変わりないことを卑弥弓呼へ返事された。また伊勢津彦を伊勢に返された。卑弥弓呼が攻撃してくるとすれば伊勢にまず攻めて来る可能性が高いからである。

鞍取峠の決戦

 その結果を一同で待つこと約一ヶ月、よれよれになった伝令が一人また一人と走り込んできた。伊勢津彦からの報告である。やはり卑弥弓呼軍が海路、伊勢に来襲したというのである。卑弥弓呼軍は非常に強く、伊勢津彦軍を一蹴し、まもなくヤマトに入ってくるだろうと伝令は告げた。
 それからは戦争の準備でてんやわんやである。長髄彦がすでに臨戦対応となっている自分の兵三百人ばかりを率いて、伝令のもたらした情報をもとに、とりあえず伊勢街道のどこかの峠で応戦することにして纒向を出陣した。
 当時の伊勢街道はおそらく大和川(初瀬川)に沿って桜井市金屋から東に向かい、高原地帯に入っていく。西峠、榛原、高井、石割峠、田口、栂坂峠、山粕、鞍取峠、御杖までが高原地帯の西半分で、さらに桜峠、菅野、牛峠、敷津、杉平、奥津、飼坂峠、上多気、櫃坂(仁柿峠)を通過して伊勢へ降りたものと推定される。
 このように峠ばかりの道であるが鞍取峠が一番の難所である。すなわち急坂である。長髄彦は鞍取峠を先にとったほうが勝ちと判断してとにかく急ぎに急いだ。大己貴も五十人の親衛隊を率いて同行した。

 鞍取峠の峠下に着いたが峠の上の方は人気がなさそうであった。長髄彦は二人の男を斥候として頂上の様子をさぐらせたがやはり頂上には敵はまだいないと報告した。
 長髄彦は「この戦いはわれらが勝だ!」と大声で叫ぶと全員に「エイ・エイ・オウ」と雄たけびを上げさた。そして一気に百メートルあまりの急坂を駆け登った。
 鞍取峠は第十一代垂仁天皇の娘、倭姫が天照大神の神鏡を奉じてこの坂を登った時に、頂上で強い風が吹いて乗っていた馬の鞍が飛んだという伝説がある。すなわち鞍飛峠が元の名前だったというのが言い伝えである。
 この峠の伊勢側の道の両脇の木々の間に弓を持った狙撃兵を隠し、数日待ち構えているとやがて卑弥弓呼軍が急坂をものともせずに登ってきた。
 長髄彦の合図でまず狙撃兵が弓を射かけ、相手の動きが止まったところで本隊が満を持して襲い掛かった。互いに矛や銅剣で渡り合うがこちらは坂の上なので勢いがある。じりじりと押していったが、相手もなかなか鍛えてあると見えて崩れない。やや戦況が膠着した。
 この時、大己貴は自軍の兵に鉄剣の鞘を抜かせ、敵兵を突きながら一気に坂を駆け下りよと命じて乱戦の中に飛び込ませた。戦いに加わった大己貴軍の働きはすさまじかった。相手の兵を左右に跳ね飛ばしながら、まるで大蛇が坂道を降りるように進んでいく。相手の軍に動揺が見えた、とみるまに後方へとその動揺は広がり、相手方兵士達は逃げ始めた。

 追撃戦となった。卑弥弓呼軍は非常な損害を出しながらもやはり鍛えてあるせいか、軍の形態を取りながら逃げていく。やがて再び急な飼坂峠にやって来た。ここで卑弥弓呼軍は体勢を立て直した。峠の頂上に陣取ってこちらを追い落とそうとしてしているのがわかった。
 長髄彦はここで追撃を差し止めた。無理に登れば今度はこちらがやられてしまう。峠の上と下で睨み合いとなった。
 そこへ天児屋根が河内の兵を率いて追いついてきた。これで兵力としてはこちらが圧倒的に多くなった。
 膠着した状況を打開するために、天児屋根はひそかに北の迂回路を通って飼坂峠の東麓を攻撃した。卑弥弓呼軍は退路を絶たれてはいかんともしがたく、伊勢へ敗走した。伊勢では伊勢津彦が離散した兵士を集めて軍に編成しなおしていた。そして敗走してきた卑弥弓呼軍を攻撃した。
 こうしてヤマト軍の総反撃を受けて卑弥弓呼軍は船で久努国へ逃げ去った。

 戦いが終わって、天照ヒルメ姫様は皆を大いにねぎらった。長髄彦が戦いの総括を行ったが、卑弥弓呼軍がよく訓練されていること、弓矢なども十分に携帯して来たこと、鏃は高価な鉄鏃をふんだんに使っていることなど、強力な軍隊に仕立て挙げられていることが明らかになった。
 そして次に彼らが侵攻して来た場合は容易ならざる事態もあり得ることが明らかとなった。そこで戦いになれた魏の武官に戦術を習おうと誰からともなく意見が出され、事態が切羽詰っていることから衆議一決した。
帯方郡に送る使者には「載斯烏越」が選ばれた。「載斯烏越」の読み方は未だに解明されてはいない。魏志倭人伝には次のように記す。

「その八年、太守王?、官に到る(=帯方郡太守に任官した)。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭(の)載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝假け、檄を為りてこれを告喩す。」

 


          中の上の人生        徳永力雄

 

 78年しか生きていない身でも明治維新や徳川時代が単なる歴史としてではなく、自分より少しだけ昔のように思えてくる気がする。生まれて10年間が戦争時代、戦後復興期から大学に入るまでに10年、アルバイト・クラブ活動・インターン闘争などで漂流しながら卒業したら30歳、公衆衛生学教室でポルフィリン研究を7年、職業病健診機関で7年、関西医大衛生学教室主宰26年・常務理事8年で職業活動は合計48年であっけなく終了した。自由の身になって3年が過ぎこれからが悠悠自適になるところ、以下些事でお目を煩わさせていただく。

 

1、戦中生活の記憶

 1歳の誕生日に台湾に渡り台中州近郊の員林郡で国民学校3年生まで10 年過ごした。台湾は当時日本の統治になって40年が過ぎ、人心も安定し特に台中州は気候も良く平和な衛生文化都市だったと父がよく言っていた。父が勤務した員林公学校教員宿舎に住み、日本人子弟は全員本国と同じ教科書で教育される国民学校に通った。当時の台湾は本国より恵まれていたことも多く、何不自由ない日々だった。特に食べ物は豊富で、バナナ、パパイア、パイナップル、マンゴー、竜眼、釈迦頭などの果物も毎日食べていた。戦争は終戦前の1年間ぐらいが戦時的雰囲気だった。灯火管制で窓をカーテンと黒い紙で覆い、住宅の前の粗末な防空壕に度々駆け込んだ。近郊に捕虜施設があったとかで員林郡の爆撃はほとんどなく、敵のB24が秋の赤とんぼのように空高く無数に往来するだけだった。多分都会の台北や沖縄などの本土に向かっていたのだろう。1度だけ友人たちと校庭で遊んでいたら敵戦闘機が急降下してきて自分たちをめがけて(とそう思った)機銃掃射をしてきた。校舎に逃げ込んだがその時の恐怖心はいつまでも消えなかった。また、戦闘機が煙を出しながら頭上を掠めて飛行士の顔が見えたことが数度あったが近所に落下することはなかった。父は応召して南部の高尾に駐屯しており3年半余り母子家庭だった。応召中も台湾人の父兄の自宅に度々招待されてご馳走を頂いた。終戦の日も日帰り疎開中の女中さんの実家のラジオ放送を母が聴いて知った。帰国は昭和21年3月、和歌山県田辺に着いた引き揚げ船で上陸し、DDTを米兵に頭上から全身真っ白になるまで噴霧された。後に歌ったDDTの歌 “ノンノンのみも、シンシンしらみも、みんなたいじてしまいましょう、きれいなお国にするために、そこでまきましょDDT、DDT‥”が懐かしい。

 

2、小中高の戦後10年

 和歌山から鹿児島までの鉄路は、広島駅から見た一面の焼け野が原、鹿児島市内の焼け跡と粗末なバラックが印象的だった。父の郷里の種子島の東海岸に面する安城小学校の1クラス40人の4年生に進級した。食糧事情は、台湾よりはるかに悪かったが、国内ではましな方だったらしく、本州から食べ物目的の移住者が大勢いた。黒糖と芋がおやつで、ご飯は芋と麦が混ざっていた。5年生になると.島で一番大きい榕城小学校に転校した。城跡に建つ学校は、アコウの大木が茂り運動場も広く品格があった。服装だけは父の文官服のお古で、多くの引揚者も同じような服を着ており一目でそれと分かった。各学年3、4クラスで朝礼は講堂に入りきれなく、運動場で校長の”民主主義とは・・“の話が終わるのをじっと待つ日々だった。学校給食が始まるとのことで、給食室を新築するために海岸から砂や小石を運ぶ授業も度々あった。在校中は完成せず、ついぞ給食は受けることなく卒業した。もう一つの苦い思い出は、回虫駆除のマクリ飲みだった。マクリとは、海藻の海人草のことで、寄生虫駆除に卓効があった。もちろん自分の飼っていた虫も出てきた。

中学校は小学校に隣接していた。運動場の周囲は芋畑で、別に学校農地もあって度々開墾と芋づくりの授業があった。運動部は野球部、バレーボール部など少数で、能力の高い者だけが掛け持ちしていた。中学3年からは受験モードとなり、成績が廊下に張り出された。国文や万葉集の大家らしき先生はいたが、系統的な受験授業はなく、ただ試験をするだけだった。その数年前から鹿児島市にラ・サール高校が開校して、裕福な家庭の生徒が毎年5,6人進学していたが、貧乏系はご縁がなく島内の4つの高校に進学した。人口3万の島に4校とは不経済だが、要は交通手段の所為だった。受験モードになったのは、島内に就職口が乏しく農地がないものは島を出て働くか進学するしかないためだった。卒業の前、サンフランシスコ講和条約が締結され晴れて独立国家に戻った、という世論の中なんとなく明るい気持ちになった。

 進学した種子島高校は、前身は鹿児島1中の分校として大正15年に開校した熊毛郡(種子島と屋久島)の最高学府で両島から進学しており寮もあった。ついでに記すと、屋久島は薩摩藩の統治が強く九州一の山岳地帯、一方の種子島は平地で近畿との縁が深くて交易の島、言語も異なっていて鹿児島弁とは全く似ていなかった。高校生活は、私は自宅通学で平凡だったことが後で判った。寮と下宿の級友は旧制高校的ライフを楽しんだようだ。つまり、近所の畑の野菜や鶏を失敬して食べたり飲んだりしたらしい。昭和27〜30年は戦後の復興期に当たり、田舎でも復興への意識は高かった。教師もユニークな人が多く、京大哲学科卒で苦学生の味方の先生、学位論文の実験をしながら校庭の大木を移植して庭師もする生物の先生、生徒と香草を栽培してポマードなど化粧品を作って文化祭で売らせた化学の先生、万葉集と漢文で生徒を常時静かにさせた国語の先生、ラーメン屋でダシだけのお替わりを注文した先生、暴力事件で懲罰を受けた生徒を裏でかばってくれた校長、など多彩だった。大学受験は旺文社一色、3年次早朝の補修講義と帰省で会う少数の先輩大学生が頼りだった。2年の時進学適性検査が廃止されて気楽になり、放課後はみんな部活動に没頭した。私は演劇部、ハーモニカバンド、化学部、新聞部に入り、休日は校外でのドサ回りに励んだ。3年2学期には、3月の卒業とお別れが近づいて男女・クラスの別なく惜別モードになり、約160人みんなが仲良くなった。3学期には受験で離島するものもあり、勉強などする気になれない日が多かった。秀才が2人いた。1人は毎日片道12キロを徒歩で通う赤貧の級友で、入試も在校3年間の各種試験も全校生徒中で常に1番だった。通学時には本を読みながら歩くので怪我ばかりして有名だった。卒後代用教員になり東京学芸大を経て大蔵官僚になった。もう1人は、高3の数千人規模の全国模試でベスト10に入り東京工大に現役合格し、A社のコンピューター関係に勤務して“電算機は人間の脳を壊す‥”と悩んでいたが40歳前に他界した。今は、東大生や東大教授も出てさらに意気盛んである。

島の玄関口西之表市の沖合に馬毛島という周囲約16kmの小島がある。飛び魚漁の時期に賑わう以外は一時無人島にもなったが、最近は民間事業関係者が少数住んでいる。営利事業や米空軍施設などの話が持ち上がり対岸の市町民の間で反対運動が起こったりしている。本州では全く報道されないが、昔から平地の種子島は沖縄に次いで注目されており、敗戦直前には島内小学生を全員鹿児島の山奥に疎開させた歴史もある。南方の離島の宿命ともいえるが、本州人には遠い外国の話のようにしか映らない。国の防衛や国際紛争が複雑化する中で、100キロも離れると他人ごとになる日本は正に島国文化風土というべきか。海という国境かつ防衛線の存在は限りなく大きく膨大な軍事力に匹敵するのに、能天気な国民にはその意識が全くない幸せな国であると思う。


 

3、米沢郁雄君のこと、能の稽古のこと

 同級生で能楽部生活を共にした米沢郁雄君について追加したい。40年史にも少し書いたが、彼は3回生(1960年)の時京大能楽部宝生会に入会してきた。私は2年前から宝生会に所属していたので先輩面をしながら、また嬉しい同級生として彼を迎えた。謡曲の盛んな福井の藤島高校の現役入学生で秀才だったらしい。私は高校の時種子島で観世流の謡を聞いていたために、宇治分校の1回生の文化祭を機に入会して全国大会などに参加しており、その点では先輩であった。3回生の初夏の頃米沢君の黒谷の下宿に行って抹茶をご馳走になって以来、共にクラブ生活を楽しむようになった。

 能楽部のボックスは近衛通りの吉田寮の手前・楽友会館の裏の南食堂の一隅にあった。週2日が我々の集会日で当時は病院の事務職や看護師も一緒に稽古した。師匠は阪大数学の坪光教授、仕舞は小川芳職分、顧問が理学部長で地球物理学者だった長谷川万吉先生と宝生流職分の辰巳孝師だった。観世会もあり39会の田上君や小西君も会員で、三林産婦人科教授や生島仏文教授も顧問格で片山慶次郎師が教えていた。戦前から、京大では観世流・宝生流・大蔵流狂言、戦後には金剛流などの能楽各流儀の会が盛んで、独特の声で朗詠すると共に、舞(仕舞)や所作(型)も共に習うのが一般だった。能の伴奏に当たる鼓や太鼓・笛の囃子方の稽古を受けている学生・職員もかなりいた。伴奏というのは正確でなく、囃子がなければ能は成り立たないので音楽性の基本が囃子で本来は囃子も稽古しなければいけないが、学生には費用と時間の制約で囃子を習う人は一握りしかいなかった。

 米沢君と私は医学部でしかも熱心という共通項のために卒業まで他学部生より2年長く在籍し、卒業後もOB稽古会の青雀会を作って熱心に稽古を続けた。彼は昭和47年から福井日赤に移ったが、共に共通の師匠の同門会にも所属して福井と京都で社会人として稽古を継続できた。年に2回の発表会と数回の玄人の定期能の地謡(合唱)に駆り出され、OB会の稽古もあり、ほとんど毎月1回は一緒に稽古をしていた。稽古は夕方から夜にかけて約3時間大声で謡うことになる。謡わない人から、大声を出して健康に良い趣味ですねといわれるとおり、大声を出すのは確かに気持ちがよい。正座して謡うのが玉にキズで膝は痛くなったが、姿勢は多少良くなる。

仕舞は踊りに似ているが、むしろ太極拳に近い。男役の型(所作)が基本で、約20種類の基本型と曲目特有の型からなり、曲の役柄によって緩急やメリハリをつけるだけである。例のスリ足でも、歩幅や歩数や速度、付ける装束なども含めて微妙な違いがあり、素人が1年かけて稽古して表現できるのはほんの一部に過ぎない。社会人が年に3回も違う曲を発表するとなると生活時間にかなりの影響が出ることになる。また、練習といわず稽古というのにも理由がある。長い歴史を繋いできた先達に学ぶ、古(いにしえ)を稽(かんが)ふ、という意味で、師匠について1時間でも多く稽古する以外に上達はないとされる。長谷川先生は、学生は幼時から稽古している能楽師には決して追いつけないから玄人を志してはいけないと諭していたが、京大卒の能楽師はかなりいる。

 さて米沢君の声は綺麗で重みと張りがあり、福井銘菓の羽二重餅のようだった。仕舞も上手だった。理論家でもあったが、屁理屈のような拘りもあり学生時代には舞囃子(仕舞と舞との組み合わせで囃子と共に演ずる。皆卒業までに一度は演じたがる)はしなかった。謡と仕舞だけでも自分が目指すレベルには達していないと自覚して、他の部員の軽挙に反抗していたのかもしれない。平成5年から10年間師匠が亡くなったために米沢君と二人で現役宝生会の謡の師匠代行を務めた。米沢君は福井から終業後に馳せ参じて熱心に指導し、当然学生部員の尊敬を集めていた。福井日赤皮膚科部長として後輩医師の指導にも熱心だったと聞くが、日赤の年末懇親会では部下と組んで猿回しのサル役をして度々院長賞を取っていたそうで、そんな剽軽なところもあった。狂言にも興味を持っていて新作を披露したいと本気で思っていたらしい。舞囃子嫌いを公言してはいたが、能を演じたいと決心して「清経」の稽古を始めた最中に病に倒れた。その前のある日に、出町柳の飲み屋で後輩の活動について議論したのが最後になった。平成7年9月21日に逝去した。


     (合掌)

後年、福井医大の非常勤講師になり講義に行った折に、米沢君によく似た息子さんが医大生として聞いていたのに気付いて、思わず胸が熱くなって後で名乗り出て話をした。その遺息も多分皮膚科医になっていることだろう。

 

4、鮎釣りのこと

 運動部に入らなかったこと、留学と海外生活をしなかったこと、ピアノなど楽器を習得しなかったことの3つは、いつも後悔している。その代わりに、鮎釣りを覚えて今も楽しんでいることは嬉しい。昭和45年頃、アルバイト先の診療所で患者でパン屋のKさんから鮎釣りを誘われて、安曇川に行ったのが最初だ。釣りなら海釣りだと思っていたが、きれいな清流と腕で釣る若鮎の美しさに1回で魅せられてしまった。Kさんは鮎釣りでも友釣りではなく素掛け(ころがし)の名人だった。川を見てその時の最高のアユを小気味よく掛ける腕の持ち主だった。2年ほど共に釣行して教えてもらった。

師匠はもう一人いる。職業病の健康診断の場で日焼けした受診者のTさんと知り合った。初回の釣行は安曇川上流の麻生川のアマゴ釣りで、川岸に立った彼は20メートルほどの巾のある川を見ながら、“あの石、あの波、あのよれ、のところで1尾ずつ釣りますからネ”といってその通りに立て続けに5,6尾釣り上げた。正に神業だった。夏になりアユの友釣りに奈良県吉野川川上村にも同行した。自己流で友釣りを始めていた私に、アマゴと同じように

”あの瀬、あの石の上手、そこの際で・・“と言って実演してくれた。Tさんはすでに、釣った鮎をその川のおとり屋に卸したり、業者主催の釣り大会に出場する上手として知られていた。朝の釣り始めに、今日の川の状況・ここでのポイントなど、を手短に話したあとはさっさと一人で別の場所に移動して後ろ姿を見せて釣るという指導法だった。昼食時に再度落ち合うと彼は2,30尾も釣っており(私は0〜5尾)、夕方納竿時には4,50尾になっていた。今は、年末に鮎とアマゴのKさん自製の甘露煮を下さり我が家の正月のご馳走になっている。

 鮎釣りを通じて、釣り具の進歩とアユの生態の変化、環境の変化を実感してきた。まず釣り糸が強く細くなった。井伏鱒二の随筆にある如く馬の毛や女の髪の毛、テグス、ナイロン、カーボン、メタルと変化して、水中での抵抗が減りおとり鮎への負荷が小さくなった。竿の進歩も驚異的だ。昔は竹竿で6mぐらい、やがてカーボンになり7から11mになった。重さも800gぐらいから200g以下になり片手で操作できる。昭和47年頃、カーボンの7.5mの竿を7万円で購入して、床の間に飾ったものだ。今は値段も40万円にもなり高級カメラ並みだ。その他の道具類も使いやすく高価になっているが、商業主義に惑わされないように気をつけてTさんの中古を貰い受けたり、新製品落ちのバーゲンセールで済ますよう心掛けている。もっとも鮎は占いの字がつくように、道具の性能と釣果は一致しないので、要は読みと運だヨと静観している。

 鮎も変化した。アユは海産と琵琶湖産の2種がある。海産は、秋の孵化後河口周辺の海に下り春に再度川を遡上するもの、湖産は琵琶湖が海に相当して冬を琵琶湖で過ごしたもので海産より小さいが闘争心は強いとされる。しかし、年々川の石などが乱取されたりコンクリートで固められたりして河川環境が悪化した。釣り人も増えるなどで自然に長距離遡上する鮎が少なくなり、人工的に養殖場で10数センチまでエサで育てられるようになった。自然の川で生存競争に晒されなくなった鮎は、解禁日の約1か月前に川に放流される。餌肥りして空腹感がないのか、石に生える苔を食(は)む縄張り習性が劣化するのか、仲良しで群れて過ごす鮎が多くなった。ダムのない大きな川では昔と変わっていないようだが、今の多くの川では自陣に侵入したおとり(友鮎)に激突して竿を弧に曲げて抵抗する鮎が少なくなり、その分釣趣も下がってきた。

とはいえ、一応のセオリーを頭に描きながら、技を凝らして臨む友釣りは独特で、他の釣りとは異なる面白味がある。この45年間に、吉野川、安曇川を本拠地に長良川や九頭竜川、美山川などに通ってきたが、仕事の合間を縫っての遊びは制約が多かった。一般に大雨が降ると2週間は釣りができず、その後運が良ければ3週間ぐらいは楽しめる。夏休みになると釣り人が増えて人間と魚に関する心理学の知識も必要になる。という訳で年に10回も遊べれば上々で釣果も平均で10〜18尾 だった。退職していつでも行けると楽しみにしていたが、今度は体力や意欲が減ってしまった。ともあれ、80歳までは川に行くと決めて昨年は6回計51尾釣った。家族から川で死ぬのだけはやめて、といわれているが、今年はぜひ平均10尾を達成したい。おわり。

 

 三九会お世話さまです
 勝手ですが、小生、急に体調を崩し、参加できそうにありません。
 申し訳ありませんが、3月22日は 【 欠 席 】  とさせてください。
              3月9日 松本 雅彦


                昭和53年 南 極 地 域 観 測 隊 日 記 南 亮

 我々第19次南極地域観測隊40名は、夏隊10名、越冬隊30名から成っていた。昭和52年11月25日晴海を出港し、オーストラリアのパースに入港。
 2月に越冬を交替。 翌年4月に帰ってくるのである。
 そこで昭和53年1月1日から12月31日までの我々の1年間の動きを書き出した。
 オーロラと天の川など、普通の人ではなかなかお目にかからないでしょう。毎日、どういう事をしているかと言う事は、日記を見るのが一番。
 そこで私の日記をひっぱり出してみました。日記だから、事実と違うことは書いておりませんが、消してる部分はあります。 平成18年1月18日

         −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

1月 1日 9時頃飛行甲板で記念写真撮影。10時頃より食堂で艦長挨拶。たる酒をあける。今日も天気悪くヘリは飛べない。本日は真水風呂で24時間いつでも入れる。水は横須賀の水だという。朝はお雑煮、昼は三段に重ねた折箱で伊勢海老をはじめ豪勢だった。氷が更に大きくなり、視界が悪い。
    2日 夜おそくまでキヤロムをやっていたが、午前1時頃、艦は後方に流されその内に右に大きく僚きだした(最大16度)。氷海が2ノットで流れている。かなり早い。
    3日 昼12時頃、今度は左に傾いた。夕方4時頃ヘリでの偵察によると、この氷山までは4kmで流れと氷山の間は30〜50Mという。この向こうはやや開けているので、ここで方向を変えられそうだという。海水がとれないので水をつくれず、風呂もシャツも洗濯もできない。
    4日 朝3時頃やっと流氷より脱出、自力で動いた。
    5日 Dr.アルさんにキヤロムを教える。英語で教えるのはむずかしい。夕方6時頃今度は快調に走る。クジラが潮を吹く所をカメラに収め得た。いよいよ明日は第2便以後が出そうなので皆今夜は静かである。
    6日 昨夜よりヘリで誘導しながら狭い水路をすすむ。昼頃、昭和基地より50マイルの地点に来て停止。4時頃より氷柔らかくなってきたので、再び前進。大利根水道
の広い所に出てきた。明日はいよいよ飛べそうだ。夜は送別会。
    7日 早朝2時頃昭和基地まで33マイルの地点の定着氷に入って止まる。朝8時第一便が飛ぶ予定だったが、秀のため昼になった。人間は一便だけで計6便飛んだ。荷
物を積み込むのを午後いっぱい手伝う。
    8日 朝から5番ハッチの荷物を出し、奥にあるみずほ行きの荷物を出す。昼過ぎにようやく終わった。3時頃氷の薄い所が出来たので、その方(東)に向かって進み、定着氷に入り直して前進する。薄いので時々チャージングすれば進める。
    9日 午後12時頃昭和基地より31マイルの地点に来て止まる。午後より晴れとなってきたので第一便が2時半に出、これに乗って十人が30分位で昭和基地にようやく着いた。思ったより基地内の建物間の距離が短い。岩と砂のような土でできた島で雪もまだ所々残っていた。一服して早速地学棟建設の穴掘りにかかるも岩ばかりで苦労する。
夜はバアで飲む。
  10日 昨夜は疲れでぐっすり寝た。今日からコンクリートを混ぜる係となる。ミキサー内に以前のコンクリートが沢山ついているので、これをはがす。しかし厚いので困難。0さんと自衛隊の4人で行う。午後9時終了。本日は午後より晴れたが、ふじ側が天気悪くヘリは飛ばず。
  11日 昨夜は12時まで、両ドクターから色々話を聞いた。本日は朝より天気悪く強風で寒い。時に小雪が降る。勿論ヘリは来ない。建設作業もかなり遅れている。夜までに何とかコンクリートミキサーが完成した。夕方Y岸さんが左環指を切り、縫合を行う。だいぶ、基地内の様子もわかった。両ドクターも協力してくれるのでありがたい。
  12日 今日も風強くヘリは来ない。コンクリートのミキシングを初めて行う。なんとかやれそうである。しかし古いコンクリートがミキサーのなかに、まだ残っているので、なかなか難しい。吹きっさらしの中でやるので寒い。セメントや砂利が、目に入って健康的にもよくない。ヘリが来ないので、資材がなく、本日は夕食後はたいした仕事もなく7時に終わる。7時からまた、両ドクターに色々話を聞く。
  13日 ヘリは一度飛んだが、途中で天候悪く引き返したという。食料不足しついに18次隊より融通してもらったという。9発前の廊下をなおしコンクリートを流すよう
にした。
  14日 午後より快晴となり、久しぶりにヘリが飛び、残りの越冬隊員がほとんど来た。午前中は9発前の廊下のコンクリートつくり。午後はダンプを運転し道路を直す。自衛隊員は予想外に滞在が長引き喜んで帰って行った。
  16日 朝からコンクリートつくり。自衛隊の数を3名.に減らし、重要な砂入れ等は観測隊がやるようにした。4時頃にやっと終わった。越冬内規の作成や医療倉庫をどのようにするか等を考える。夜は地学棟の建設現場を手伝う。南極では風邪はひかないが、
鼻水が良く出る。夜11時からバーに行き1時まで0川先生と語る。気が合う。
  17日 地学棟建設現場で働く柱ができ、床をあげるまでになった。ふじはついに接岸し、艦長以下8名が基地へくる。昭和基地の接岸は11次隊以後8年ぶりとのこと。
夜はバアで2時半ごろまでさわぐ。バーテンになり、カクテルをつくる。
  18日 朝から強い吹雪となる。吹雪の中ブルドーザで砂利をとり、燃料置き場の整地を行う。ショベルカーは初めてだが何とか運転できた。3時頃より風も収まり晴れてきたので、コンクリートつくりを4時ごろより行う。夕食後7時からふじへ皆行く。雪上車にひかれたそりに乗り、皆ごきげん。
  19日 朝はふじで朝食。飯場棟より1時間位早く6時半に起床、7時に朝食7時半出発。午前中は地学棟の床をあげる。午後は水素ガス発生装置の小屋作りを手伝う。医療関係の荷物は全部着いた。夜はふじ泊。
   20日 午前中は地学棟建設現場へ。クレーン車を操縦するのがT内さんしかいないので、18次隊の機械の人にならう。午後は冷凍食品を冷凍庫に運ぶ。とても重く、数が多いので疲れる。地学棟はようやく外壁が完成し、18次隊、ふじの6名を招待して夕方は棟上げ式をおこなう。ふじにはあと、石油の輸送が残っているだけだという。
   21日 そりで朝、昭和基地へ。地学棟はようやく内側の壁を立て午後はりを入れ終えた。N岡さんがふじでロケットの荷卸しの際に右親指を骨折する。どうも皆疲れているようなので、5時で終わりふじに行くことになった。地学棟の建設も危険が多い。
   22日 今朝は皆で歩いて基地へ行った20分位で到達。地学棟の屋根を上げる。昼過ぎに屋根は終わり金具を閉めたり、隙間を埋めたりする。6時に作業が終わり今日もふじへ。越冬内規を一応書き上げた。
   24日 午前中は調理の物品を運ぶ。午後S藤さんのレントゲンをとり、其の後H島先生に基地を案内してもらい大体の様子はわかった。越冬内規の作成を急ぐ。職務分担のアンケートも大休できた。だんだん生活主任としての仕事が忙しくなる。夜、飲みながら隊長と大まかな話をする。その後12時半まで新聞について会議を開く。
   25日 午前中はふじで個人の荷の送り出し、及び18次隊の船室内へ入れる荷降ろしを行う。午後は基地で医務室の整備。夜は職務分担を決める。本日よりほとんどの隊員が、基地へ泊るようになった。
   26日 歩いて今朝は昭和基地へ。午前中は書庫をK池さんに手伝ってもらって医薬品倉庫と医務室前倉庫に入れる。午後2時より0川先生と土の標本をとりに行く。ようやく越冬内規を書き上げ隊長に提出する。
   27日 午後5時15分より18、19次隊艦長出席のもとに福島隊員の慰霊祭。6時より食堂で18次隊による歓迎パーティ。10時頃まで騒ぐ。そのあと0川先生を中心とした新聞社の連中と我々の係とが話し合う。
   28日 11時頃より、近くのマークの土の採取に行く。午後よりスキーを履いて0川先生とネスオイヤ島に行く。雲母が非常に多い島だ。今日も基地に泊まり、11時10分打ち上げのロケット見るのに成功した。
   29日 ポオルホルメンへ0川先生と行く。午後はアンテナ島をまわる。3時より隊長、0クボさんと3人で交替について打ち合わせる。
   30日 雪が降って5cm位積り、午前中はふじより外出禁止となる。視界が良くなったので、午後より基地へ。夜は新聞社員13人で会議。
   31日 今日は打って変わってよい天気,9時より退艦式。隊長、艦長挨拶のあと、乗組員が輪になった所を全員でまわり、お別れをする。深い雪の中を手を振りながら、歩いて帰る。センチメンタルになる。午後は艦長,補給長、副隊長、K先生の5人で福島隊
員の遭難現場西オングル島へ行く。楽しいピクニックと言う感じ。片道1時間半。夜は全員集合。
 2月 1日 内陸棟を引き払い10時より越冬交替式。自分が司会をする。寒くて口が動かない。NHK取材、両隊長挨拶、19次越冬者名呼び上げ、両隊長により国旗掲揚、握手。0瀬副隊長により万歳三唱、花火。その後5,6名がNH正により取材される。自分が喋って締めくくる。午後より個室入居。部屋は狭いが意外に入る。夕食は鍋物でごちそう。8時より越冬内規の検討の全体集会。10時より各居住棟で話。
    2日 午前中かかってようやく個室の整理を終わる。5時よりふじ及び夏隊主催で見晴岩にてバーベキュウお別れパーティ。最後はホタルノヒカリを歌う。バーテンを務め、11時頃寝る。
    3日 午前中は診療室前の倉庫の整理を行う。午前中に飯場棟は閉鎖。ふじ乗組員は帰艦。本日は半時間食事を速めてふじを見送りに行く。午後1時離岸した。当分はまだ近くにいるので、あまり淋しさはない。
    4日 今日一目で何とか薬だけは整った。古くて使えないものはどんどん捨てた。午後はじめて洗濯をおこなう。上着やカッターシャツを洗ったが砂や土が多く2回洗う必要があった。
    5日 相変わらず天気はよくない。夏隊とのお別れパーティもできなくなった。本日は日曜日課で朝食はつくらない。しかし、パンで牛乳、コーヒは飲める。規則正しい生活をするために日曜も朝食をとる事にする。昼食後に九居の住人を集めて名札や外套かけを作る。その後NHKより診療室の撮影と取材あり。11,13,14次隊のも注射液を捨てる。
     6日 一時より送信棟の送信機火入れ式に出席。明日よりビューラックスを水道に入れる予定。注入前の水のサンプルをとるべくビンを滅菌しょうとしたが、ポンプ動かず。乾熱滅菌とする。NHKの正さんよりM林さんが疲れ気味だとの相談を受ける。午後9時55分ロケット打ち上げ。
     7日 毎日6時半頃起床し、新聞(我々の新聞)を配達するのが日課になっている。1時よりK池さんに散髪をしてもらう。きれいにやってくれた。診療室内もきれいになった。明日より開院とする。NHKのM林さんの血圧高く、9居のT沢さんの室に入れ安静させる。
   8日 本日開院ということにしてチラシを配った。午前中残留塩素をはかったら撹拝されていたので、更に800ml注入した。十一倉庫整理もあるが寒いので1日医務室で本を読む。特に水中の細菌検査の仕方を勉強した。夜は夏隊、18次隊残りとのお別れパーティー。天気悪くヘリが飛ばないので夏隊全員そろわなかった。Dr。アルさんに持ってきた着物を着せてやると喜んでいたQ
   9日 久々の快晴となり、S16に居た0山さん他18次隊のピックアップができた。NHKや隊長は自瀬氷河を見に行った。機械を残して18次、夏隊は帰った。午後の便にはAさんとK沼先生が帰った。太陽は低くなり夜は寒い。夕食はみずほより帰った18次隊の一人と0山さんの歓迎パーティー。その後11倉庫を片付ける。真理に最後の手紙を出した。
  10日 いよいよ最終便となり10時過ぎ、18次隊の残り3人と0瀬副隊長がヘリに乗り込んだ。ヘリは昭和基地上空を三回回って去った。さびしいけれどもなんとなく落ち着いた感じだ。その後11倉庫のかたづけ。かなり捨てた。夕食後連絡事項多く、7時を過ぎる。その後全員作業についてN野、T内さんと話す。早く落ち着いて勉強がしたい。
  11日 午前中は雑用におわれる。午後環境棟に入れる0山さんの荷物搬入を手伝う。忙しくて本をなかなか読むひまがなく、検査もはかどらない。明日より半日全員作業となる。その人員の振り分けが面倒だ。午後7時半より隊長公室でOPE会議。10時頃
終わり、その後0内さんと消火訓練について話し合う。
  12日 午前、午後の2蓼に分けて、10KL水槽の清掃を行う。午後6時半頃に終わる。屋外作業が続くので当分の間天気だとありがたい。さすがに夕方はさむい。夜はパーティンをやる。
  13日 昨夜12時半頃、初めてオーロラが見えたという。今日は朝9時頃より、10時頃まで北西の方向に蜃気楼が見えた。氷山が並んで面白かった。ようやく水道中の細菌検査の用意が出来た。忙しくなかなか思うように出来ない。午後の全員作業は9発屋根の張り替え。今日ははがして塗ってあるコールタールをはがした。夜はビデオで映画を見る。皆2日間共遅く、疲れた様子。
  14日 午前中池の水をとってきて細菌培養を行う。忙しくて塩素を入れる前の水道の水の細菌は生きているいか、どうかわからないので、取水口の水をとった。しかしもぶ厚い氷がはってきている。一昨日は本年の最低気温で−14度位。午後は9発の 屋根工事。夜は消防についての話を、T内さんにやってもらった。
  15日 朝雪が降っていた。9時頃より吹雪となる。水の細菌培養では菌はほとんどつかなかった。13時15分、消防訓練を行う。午後の作業は吹雪のためコルゲート通   真理の電報うれしかった。
  17日 今日は自分の誕生日ということで、調理は気を使ってくれた。朝食はおぞうにだった。
  18日 大陸に大きな低気圧があって小さいのが次々に来ているのだという。午前中細菌培養とみずほ組の血清の検査をする。夜みずほのM岡先生と無線で話す。本日は入浴日で体重測定を行った。夜はパーティンをする。土、日曜日のみ夜遊ぶことにした。
  19日 午後全員作業で隊長公室、食道サロン、絨毯張り替えなどを行う。夜はバアに行ったが客少ない。夕食後オペ会議。越冬内規について話し合う。
   20日 殆ど外へ出ず、医務室で仕事をする。夕方より食堂でパアティの用意をする。第19次越冬成立式記念撮影。6時よりパアテイ。8時よりバーの開店。夜遅くまで騒いだ。21日 吹雪6日目。もっぱら本を読む。夕食後、第1回目の全体会議。越冬内規の検討。その後、9居で新聞社会議。10時頃終わる。
   22日 昨夜T沢君の肝臓が悪いと言う事だったので、肝機能検査をやった。午後より全員作業を久しぶりに始める。
   23日 素晴らしい天気になった。昨夜もオーロラが見られたという。十時より観測部会。11時半より海水へごみ捨てに行く。午後はドラム缶運びを行う。4台でやって予定2日が1日で終わった。これで重労働は大体終わった。
   24日 10時より設営部会。昨日の続きのピロータンクに灯油を入れる仕事が残っていたので、朝より一人でやる。布団を今度持ってきた新しいのと変える。
   25日 午前中は強風あるも、午後電離棟の現像装置の引越しを計画する。その後11倉庫や昭和基地周辺の清掃を行う。皆よくやってくれるので仕事が早い。これでほぼ全員作業は終わった。夜はバーへ。
   26日 午後はみずほ組の血液の検査を行う。本日は2月誕生会のため全員作業を中止する。夕食より誕生会。盛大にやってもらって楽しかった。その後バーでパーティンをやる。夜ははじめてオーロラを見る。黄色で動かないものだった。また、同時に南十字星を見ることができた。
   27日 午前中は各棟に配布する救急薬をつくる。午後の全員作業は9発屋根の補給、内陸棟及び医務室及びペンキ塗り作業棟周辺の片づけを行う。午後昨日のつづきの屋根の補修と屋外清掃。作業等付近を片付ける。明日電離棟の前垂を撤去すれば、全員作業は終わる。
 3月 1日 とうとう1カ月経った。もうずいぶん経ったように思う。午後全員作業は電離棟前室の取り壊し。夕方には雪が降ってきたが、皆今日が最後だと思うのか頑張った。6時過ぎに終わった。明日から皆落ち着いて仕事ができる。夜8時から第一回の映画が始まる。楽しかった。パーティンをやる。
    2日 午前中環境棟の整理。午後10人くらいで氷山へ氷を取りに行く。鶴囁ではなかなか大きな塊はとれない。ソリに2杯積んで帰った。これから写真の現像もできるようになった。
    4日 朝より暴風20m。遠足は延期になる。環境様に行くのも寒く、一日医務室にこもる。おかげでだいぶ仕事ができた。南極へ来る医者が楽なように、指針のようなものを書き上げた。
    5日 今日も暴風。雪は降らない。しかし夕方より雪も降りだし、視界が悪くなり初の外出禁止令がでた。風が隙間より吹き込んで寒い。一日医務室にこもっていてだいぶ勉強できた。夕方は短波放送を聞いている。モスクワ放送が良く入る。今日はドイツ語の放送があったがどこの局かわからなかった。
    6日 南極についての勉強をはじめる。まづ総論より書き始める。一日医務室に籠っているので仕事がはかどる。運動不足になるので、毎日ランランで2千メートル走る。ふじは南緯35度で、冷房を入れはじめたという。
    7日 午前中、南極の総論を書く。午後は12人で、東オングル島1周の遠足。曇っていたが寒くもなく丁度よかった。1月に0川先生と行った頃とはだいぶ違っていた。久しぶりの運動で楽しかった。真理のお父さんに誕生日祝いの電報を打つ。
    8日 午前、午後南極について資料を読む。一応南極についてすべてわかりやすく記述するつもりだ。天気が良いので夜オーロラと星(南十字星)の写真を撮る。気温は−10度だが、風がないので寒くはない。その後、隊長等と2時頃までバーで飲む。
    9日 付ける。5時より全員作業で、送水ホースをかたづける。、白黒のフイルム現像。オーロラ以外はうまく映っていた。
  10日 朝は快晴であった。しかし気温は今年最低の−19度。朝から暗室に行きコダックの現像液をつくりトライ]の現像をした。幸い南十星は映っていた。スコット隊のビデオを見、世界最悪の旅を読み始めた。本日ふじはポールルイスに入港した。
  11日 例によって朝から南極についての原稿を書く。うまくいけば南極大学でもしやべりたいと考えている。最近、特にニュースといったものもなく、新聞社でも困っている。12日 一日中南極の勉強をする。南極大学の要項もできた。学長をやらされることになった。来週からは身体検査もやらなくてはならない。なかなか忙しい。
  13日 南極の勉強は一時止めて身体検査の準備をする。観測棟よりオーロラが出たとの電話があり、見る。カメラを取りに行っている間に激しいのは終わった。しかし、初めて赤い色を見た。すばらしい。
  14日 午前中身体検査の準備をする。午後はT内さんの案内で先日遠足に行けなかった人を連れて東オングル島一周を行う。途中から雪が降りだし、寒かった。しかし、蜃気楼が見えたり、中の瀬戸であざらしが居たりで面白かった。
  15日 午前中は誰も来なかったので、南極についての原稿を書く。午後は3人検査したが大変忙しい。あれもこれも検査しょうと思うので大変だ。本日の映画はビルマの竪琴。いい映画であった。オーロラを1時間位12時頃まで見たが、たいしたことはなさそうなので寝た。
  16日 朝から快晴で一日蜃気楼がみえた。朝食後、雪上車運転講習会の旗を立てたり孔をほったりした。50cm位雪があり、氷は2メートル以上もあった。午後は少し昼寝をして身体検査3人行う。
  17日 八時にS藤さんの身体検査を大急ぎでして、九時より雪上車運転講習。昨日より午前、午後に分かれて各4人づつでやっている。]C20とKC40.両方共運転しそのあとソリを引っ張った。ソリはちょっと難しいが、大体なれた。身体検査は多くの項目をやるので忙しい。9時半ごろやっと検査を終った。
  18日 午前中は身体検査のまとめ。雪上車講習を吹雪の中でやっていた。ワイパーがこわれ、前が見えないそうだ。午後より検査2人。排水設備がないので、環境棟でやるしかなく面倒で困る。夜は映画もみず、身体検査のまとめと来週からの準備をした。最近では寒さにも慣れ、マイナス10度以上だと暑い,以下だと寒いと思うようになった。
  19日 朝から快晴だった。午前中に身体検査の用意を済ませ、12時よりK池、A谷さんの三人で西オングル島の大池スケートに行った。気温がマイナス15度なので、頼に当たる風がとても冷たい。池には雪が10センチほど積っていた。しかし雪の少ない所を目指して滑った。Kちやんはうまい。往復2時間も要したが楽しかった。
   20日 一時より第一日の職場訪問で、RT、組調室。2時間かかって説明してくれたがなかなか面白かった。特にロケット発射のリハーサルなどは、とてもよかった。4時より明日使用するスノーモービルと浮上車の運転訓練をする。浮上車はアルミで軽量でなかなか面白い。本日第一日目の囲碁教室、そのあと続いてどリヤードも練習した。夜、気象棟でオーロラを2時まで見る。
   21日 快晴が続く。1時半に隊長、0山さん、K戸さんの4人でトッツキ岬ルートの偵察に出かける。スノーモービルは調子悪くおいて行くことにした。岩島や氷山を越して2時間位で岬の近くまで行った。この辺りは氷山もなく大海原で寒かった。途中氷に孔をあけ、氷の厚さを測定し、旗を立ててきた。アザラシが1頭いただけで何もいない。
   22日 午前中は昼寝。午後及び夜の映画の時間にフイルム現像と焼き付け。オーロラの写真は白黒だが、意外に良く撮れ皆に感心される。その後ビリヤードをやる。なかなかうまく当たらない。
   23日 午前中、身体検査の準備。午後検査。4時よりロケット公開のため、撮影に行く。1時間かかったがとても寒かった。夕食後ビリヤード。少しうまくなった。NHKが19次隊の放映をしたという。おそらく越冬交替式だろう。
   24日 午前中室の整理と身体検査一人。夜はいつも夕食後碁、続いてビリヤードをして医務室に帰り仕事をするようになった。どリヤードも少し上達した。碁はまだまだ。
   25日 午前中南極に関する原稿を書く。1時半より職場訪問。気象棟。3時過ぎまで説明を聞く。夜は3月。K池勝っちやんの誕生会。楽しくやれた。その後例によってバーでビリヤード。少しずつ上達する。
   26日 いい天気だが、風速15メートル位あり外に出られない。昨夜は2時頃までバーに居たので8時まで寝ていた。相変わらず南極についての原稿を書く。夜は昨日映画が出来なかったので今日行う。その後バーでどリヤード。ロケットが上がりそうなので2時頃までRT棟で待つも、雪がでてだめだった。
   27日 午前中昼寝。午後本日から十居の身体検査用意。夕食後囲碁。その後またどリヤード。調子が出てきたので9時頃より2時まで、ほぼ連続して行う。お蔭でロケット打ち上げも、本年一番きれいと言われるオーロラも見なかった。
   28日 昨日のロケット打ち上げは大成功だったそうで、オーロラも非常に素晴らしいものだったという。惜しいことをした。午前中昼寝。午後1時より観測部会、3時より設営部会。夕食は、ロケット打ち上をヂ大成功を祝って、ごちそうであった。夕食後ビリヤード。今日は調子が悪い。
   29日 午前中、カラーフィルムの翻訳や、4月の予定表作成等の雑用をする。午後も同様、身体検査一人。夕食後ビリヤード。また、少し腕が上がった。
   30日 朝より身体検査で忙しい。午後久しぶりの全員作業で内陸棟のベットを地学様に運び、内陸棟に卓球台やバーベル、足踏み自転車などを入れ体育館とする。夕食後早速卓球、そのあとどリヤードを行う。
   31日 身体検査の残り五人を一日かかって終わる。明日は医務室の職場訪問なのでその準備も要る。夕食後も検査。
 4月 1日 雪はかなり滴り、気象棟へ行くにも観測棟へ行くにも胸までつかるようになった。午後一時より職場訪問。医務室、手術室G棟を行う。夕食後にはY田さんに碁を教えてもらった。夜は映画を見てどリヤードを行う。明日から少し勉強したい。
    2日 午前中は南極についての原稿を書く。もう50枚を超えた。昼食後囲碁、どリヤード、卓球をする。碁も少しづつわかるようになってきた。雪は今日は降っていないが風が強く雪が舞う。あちこち雪がたまり歩けない所が多い。
    3日 朝から南極についての原稿を書き続けている。健康診断の結果を隊長に」報告する。福井に地蔑あり、寮度4というので、H先生にお見舞いの電報を打つ。夕食後ビリヤード。調子暮し。
    4日 風が相変わらず強い。夕食後、どリヤードと卓球。9時頃よりオーロラが出たので写真を撮る。1時まで気象棟でねばる。
    5日 1週間ぶりにM本さんが高血圧となり、心電図を撮ったりする。午後1時半より0山、N山さんと3人でトッツキ岬の方へ氷厚を測定に行く。40cmでまだうすい。KCなら40cm、KDなら70cmの厚さが要るという。夜は映画を見る。ようやく、M理、M弥から電報が来た。
    6日 快晴は一目だけだった。Mさんの血圧がまだ高かったので、腎機能の検査を午前中行う。夕食後囲碁教室の2回目。だいぶわかってきた。その後ビリヤード。
    7日 今朝は眠くて午前中、昼寝をする。午後雪の中氷山の氷をとりに行った。オングルカルベンへ行った0山さん等は雪のため途中から帰って来た。夕食後は、碁、とビリヤード。本日はH先生より電報が来た。非常にうれしい。
    8日 相変わらず南極の原稿を書いている。もう百ページを超えた。1時半より通信棟の職場訪問。3時より送信棟でアマ無線を聞く。日本人が三人出た。よく聞こえた。夕食後、碁をやり映画を見て寝る。
    9日 日曜はいつも起床8時にしている。相変わらず南極の原稿を書いている。午後はどリヤードや碁。どちらもたいしてうまくならない。今日初めてラジオ、日本放送,すなわちNHKの放送が入った。ニュースだけだったがうれしかった。
  10日 午前中南極大学の案を練り、午後N野さんと相談。今日はデリンジャー現象から2日任地つのでオーロラが出るということで、2時まで粘る。期待したほどではなかった。
  11日 本日は一日中ブリザード。午前中1時間昼寝。その後医務室の暖房機の調子悪く色々調整する。久しく雨漏りはなかったが、今日は気温が午後上がり13居は雨漏りがひどい。これが凍って又滑りやすくなる。
  12日 午前中ようやく南極の話は総論を終えた。心電図の勉強を少しする。午後昼食後雪入れを初めて行う。明後日から毎日居住棟単位で行う予定。風が吹き雪が目にはいって眼を開けておれない。太陽がどんどん逃げて行く。毎日4分づつ日の出が遅れていくという。
  13日 久しぶりの快晴となる。室に居ても、天気の良い日は落ち着かない。洗濯はだいたい2週間に1回位である。夕食後ミッドゥインター祭実行委員会の集まりをおこなう。夜気象棟でオーロラをみていたら10居より火事。全員駆けつける。暖房機より火が出、基地は煙だらけになった。3時までオーロラをみる。
  14日 さすがに眠く午前中は昼寝。夕食後は碁とビリヤード。ビリヤードは個人では隊長が優勝となる。夜みずほのM岡先生と話、みずほへ持っていくものを聞く。
  15日 今日も午前中は昼寝。昨夜は遅くまで眠れなかった。午後雪入れをして電離棟の職場訪問。夕食後は碁、映画、どジャード、卓球。碁が少しづつでも上達するのがうれしい。映画「火の鳥」大変良かった。映画は古いものが多いが、昔の服装や街並みが思い出されて楽しい。又、今活躍中の俳優の若い頃が見られるのも楽しい。
  16日 午前中にカラースライド現像の用意をして午後より現像する。夜10時までかかって6本現像できた。現像は難しくない。毎日、碁とビリヤードを1回以上することにする。
  17日 午前中吹雪いていたが、午後から次第によくなる。昨日に続いてカラー現像を行う。3時頃までかかった。
  18日 晴れたが一日中マイナス20度で寒い。今年最低らしい。隊長、T内さん、0山さん等はトッツキ岬へ偵察に行き、自分は留守番となる。午後は11倉庫全員で食料を出しその後環境様に氷を入れる。
  19日 8時S16へT内さん等が3台の雪上車で出発した。午前中、食堂の椅子のカバー30枚を洗濯した。午後は氷取りに出かける。小さい氷しかとれず。午前1時までオーロラを見るもいい写真とれず。
   20日 朝少し昼寝。職場訪問の準備をする。細菌培養をした。しかし内陸旅行前であわただしく皆が何となく落ち着かない。夜は1時まで粘ったが、オーロラは出ず。ふじは晴梅に着いたらしい。
   21日 職場訪問の準備とみずほへ行く0山、U木さんの身体検査をした。午後隊長より相談あり。M岡先生が精神的に参っているようなので、交替してほしい、ということだった。自分としてもあまり自信はないが、引き受けることにした。しかしすべての計画が狂ってしまい面倒なことになった。取りあえず生活主任の仕事はY田さんがやってくれるらしい。南極大学もいろいろと企画したが駄目になった。あの狭いみずほ基地では果たしてうまくやっていけるか気がかりである。
   22日朝ようやく風がおだやかになったので、S16へ11人が急に出発することになった。9時半頃に出発する予定が雪上車一台の調子悪く、11時半頃出発した。午後よりみずほ行の準備を始める。どうやら本決まりらしい。午後U木、0山氏の腎機能検査。申し送りが沢山あり、非常に忙しくなる。
   23日 行くと決まると、一つづつ片付けることにする。午後Kちやん等と外でバドミントンをする。風もあったが面白かった。S16のパーティは7時に到達した。ティータイムの時、M理の作ったケーキ出す。皆に喜ばれた。
   24日 昨日夜S16から旅行隊が帰り今日は休日日課となる。午後4時よりオペレーション会議。自分がみずほへ行くことが決まる。出発は5月1日頃の予定。
   25日 気温−20度に近く寒い。しかしいつも網シャツにウールのシャツ、及び上着の3放である。午前中身体検査、午後環境棟で検査する。あれこれやることが多く整理ができない。内陸旅行に出るので、Y田さんに散髪してもらう。7時半より全体会議。みずほ行が決定される。碁、どリヤード。共にだいぶうまくなった。
   26日 生活主任及び医療担当として申しおくりも色々と考える。夜は4月誕生会とみずほ旅行壮行会とても盛会で楽しかった。みずほには餞別をもらったりして面白かった。まだ、行く用意は何もできていない。
   27日 午前中カラー現像を行う。午後観測部会。その後みずほへ行く食料を運ぶ。夕方カラー現像。夕食後もカラー現像。結局12本現像し得た。うまく撮っていてうれしい。そろそろみずほへ行く準備をしなければならない。
   28日 晴天が続く。日の出9時頃、日没4時頃。午前中申し送り事項を色々と書く。みずほ行の食料整理の後環境棟で明日の職場訪問の準備。それから電離棟でカラースライド整理。夕食後Re s Ba gの説明。新聞社の集まり。みずほ行きの三人で相談。続いて新聞社がバーで三人の壮行会をしてくれた。いよいよあわただしくなってきたが、自分の荷物は何もできていない。
   29日 めずらしく上天気がつづく。医薬品を詰め申し送り事項を済ました。午後は環境棟の職場訪問、細菌の話をする。明日は自分の荷物を作らねばならない。夜2時までオーロラをみる。月が明るくしてあまりきれいに見えない。
   30日 一日中荷物整理。夕方には雪上車に積む。夜はみずほ旅行者のために、特別に映画をやってくれた。その後ビリヤード。毎日やったお蔭でだいぶ上達した。いろいろ申しおくりを済ませて12時頃寝る。
 5月 1日 何とか出発できそうな天気になった。9時出発。六名の旅行隊M,U木、高原と0山、Y岸、M橋のサポートの他、S16へ行くN野、N山等、またS16までついて行くもの等計14名位出発。10時20分トッツキ岬出発。12時街道アンテナ着。12時半S16に着き荷物の積み替え、ソリの掘り出し。14時昼食、15時皆に見送られて出発。16時45分、S23に着き、キャンプ。食後トランプをして10時に寝る。
    2日 9時出発 ドラム缶は旗竿とちがって、遠くからでもよく見える。10時半S30に到着。12時運転を交替して昼食。午後より天気悪くなり、3時頃には太陽が沈み道は平坦だが見えない。気温も下がる。4時半頃遂にHlO.8で止まる。本日走行距離約56Km。8時頃オーロラがきれいに北の空に見えた。昨日に続きトランプをして9時半頃就寝。
    3日 朝から地吹雪きで視界悪し。9時25分出発。1旗ずつ方位を見ながら慎重に進む。]ちやんが時々退屈しのぎに音楽を流してくれる。視界100〜300m。#114で115を見つけることが出来ない。]Cで偵察するもだめ。ついにあきらめて11時頃キャンプする。結局3km進んだのみ。居住カブースでラーメンの昼食。読書、碁、トランプで過ごす。
    4日 朝から猛烈なブリザードとなる。起床後すぐに大便をする。手袋をはめないでいたので、たちまち両手が数分の間に凍傷となる。すぐ居カブに入り腹のなかに手を入れて温める.良くはなったが指先が痛む。午前中風速20mくらい、気温マイナス23度。読書、昼寝、碁、トランプなどで過ごす。小便するのも大変。皆は1斗缶で大便をする。明日もプリだと灯油や軽油を入れなければならない。視界悪く居カブにライフロープを付ける
    5日 9時15分出発。10時頃少し晴間が出て視界がよくなったが、午後より再び悪化。150m位となる。サスッルギ大きくソリが少しもぐる。車を方位表に合わせても雪上車はまっすぐに進むとは限らず、時には200mも旗からそれる。午後3時H153で次の旗わからずキャンプする。八甲田山の本を読む。あの時の苦労がわかる。
    6日 風もおだやかで視界良く、1000〜2000mも見える。8時半出発。10時半頃には地平線も見えるようになった。H180で燃料ソリ2台をおいて2ルートに入り11時適地発。時速15kmでとばす。しかし、KC29のポンプの調子が悪く、時々止まる。気温が上がったのか、右のキャタピラに解けた雪が凍る。それをハンマーで叩いてとる。15時Alに到着。機械の調子をみてここでキャンプ。現在着ているもの、網シャツ、長袖シャツ、ウールのシャツ、カッターシャツの4枚。夜はこのまま又はカッター、靴下を脱いで寝る。暖房は入れないが、SMの2段ベットに寝る。
    7日 地吹雪で視界悪く作業できない。午前中隊長より借りた剣岳の本を読む。午後昼寝。凍傷の後はまだ痛み、皮が突っ張った感じ。それにしてもSMは力がある。三台の内では最も調子よく、乗りごこちが良い。燃料20本を二台に積み、計4t居かぶ1t合計5tをひいて15km位で走る。2速で発進。3速で走っている。暖房もよいし、タイヤなのでクッションがよい。自分とU木、Y岸さんの三人がこれに寝てる。
    8日 八時半よりAl点の機械をはずして収納した。風力発電がうまく作動していなかったらしい。午後2時半H180に到達。3時同部を出発。視界はよくなった。薄暗がりの4時頃H197に着きキャンプする。夜星が良く見え冷え込んだ。明日は天気だろう。
    9日 朝はとても寒かった。−38度。7時にオーロラがまだ出ていた。8時15分出発。久しぶりの良い天気だ。高度1500m。雪靴でも親指がつめたく靴下3枚履く。羽毛服のズボンもはく。雪の吹き溜まりの様になったサスッルギの連続で乗り越すのに注意を要する。船のように車はゆれる。このためせいぜい時速5kmである。4時半Z3でキャンプ。好天のおかげで約60km進んだ。7時から8時頃までオーロラがよく見えた。夜は−42度となる。久しぶりに通信状態よくみずほは−51度だという。
  10日 天気はよいのに朝から強風で雪が飛び、視界は200m位。一旦8時半頃出発の用意をしたが、旗は見えず殿となる。具合の悪いことに地点から見えやすいドラムカンまで1.5kmある。しかもこの辺りは雪が多いのか今夏立てた族もかなり埋まっている。昨日、北逓信病院とHみさんから電報が届いた。久しぶりの電報でうれしい。昨日は通信状態よく、尾道のお母さんへも誕生日のお祝い電報を打つことが出来た。
  11日 昨夜はベットが冷たくて寝られず、羽毛服上下を敷いてやっと寝ることが出来た。今日も晴れているのに地吹雪きで視界悪し。こんな事でみづほ、復が出来るのか心配だ。だんだん昼がなくなる。15日にみずほ月末に昭和基地予想しているが果たしてどうか。隊長から借りた八甲田山と剣岳の本は読破し、今はY岸さんから借りて、碁の本を読んでいる。3日同じ所に泊まるのは今日が初めてだ。
   12日 昨日は、1kmまで旗を立てたのでそこまでは行けるはずだったが全くうごげけない。ソリのドリフトも大きく、スコップで雪を除く必要がありそうだ。午後車の燃料を入れたが、目を開けていられない。ゴーグルをかけてもわづかの隙間に雪が入り、吐く息でたちまち凍ってしまう。目出栂も出ている部分大きすぎて、額などがしびれる。目だけ出したびったりしたものがよい。居カブの暖房も調子悪く不燃焼の煙が入ってきたりすべてが凍りついて、次々とトラブルが起こる。KCもY岸さんが6時間置き位に、、エンジンを夜もかけている。
  13日 昨夜居カブの暖房機より出火。幸いにも大事にならす‘‘消し止めた。今日はやや視界よく、200m位見える。ソリを引き出したり、ハーマンネルソンの箱を壊したり、いざ出発しようとするとmの調子が悪かったり結局出発になった。しかも各車の通信機の状態が悪く、]Cは2kmを超すと送信がむづかしく、KDの通信機もよくない。0山さんはKCに乗ったり、KDに乗ったりして方位を測定し、ひと旗づつ進む。気温は低く、靴下3枚履いてもまだ足が冷たい。手袋は毛糸の薄い手袋に、毛が裏に着いたオーバーミトンをはめてやっと暖かくなる。羽毛服の上にオーバーズボンを履く。後半は夏のシュプールを見ながらどんどん進み、8時半Z41。5に着く。夜も走って40Km走る。標高2000で寒い。−41度だ。
  14日 昨日ドラムを途中で動かす作業をしている時、鼻先が冷たかったが、今日鼻が痛い。以前の手の凍傷は1週間位かかって治った。昨夜はヤッケを着て寝たが、朝は寒かった。皆も1時間遅れて7時に起床。10時20分出発したが視界100m。トラブルは毎日あり、今日もTこDの引き綱が切れた。寒さでどうしても弱くなる。雪面硬くシュプールもつきにくい。次第に風強くなり、午後より吹雪となった。Z81.5で旗がわからず午後8時キャンプする。居カブの暖房調子悪く、震えながら食事をする。
  15日 9時15分出発。天気、視界とも比較的よく、順調にすすむ。時速9Kmで走り、Z93でみずほと交信でき、以後連絡を取りながら進む。12時45分みずほに到着。門の所でみずほ隊員の出迎えを受ける。軽油使用料7本半。さっそく荷物を降ろしたりの作業を明るい内に行う。みずほ基地は高原上にあり、風が強い。夜はパーティとなり、12時頃までしやべって飲む。シュラフで床の上に寝るが暖かい。
  16日 7時起床、8時食事、9時よりソリの荷物の食料品を降ろし、帰りの隊員私的荷物をソリに積む。午後は燃料ソリの積み込み、積降ろしを行った。風強く、気温も低く気圧の低いせいもあって、息が苦しく少しの作業でもはあ、はあと言う。明日 KCを積み込んだりして、準備を終る予定。
  17日 朝食後、M先生より隊長としての引き継ぎを行う。食料、装備の整理がなかなか大変だ。廊下や地下室は−20〜30度あり、寒い。廊下の天井は低いので腰をかがめなくてはならない。しかし霜がとても美しい。隊長としては、人間関係がもっともむずかしいようだ。風呂がぬるくて困りものだ。昭和基地を出発して以来、歯もみがいていないし、風呂に入っておらず、下着も変えていない。夜はお別れパーティ。
  18日 ECをやっと昨日ソリに載せたがまっすぐでないので今日それを直し固定する。居カブの暖房はようやく治すことが出来た。しかしSMのエンジンがかからない。このためSMの通信機の調整もできない。出発が遅れるので帰りが心配だ。夜2時までかかってSMを見るもスターター悪くだめ。]D609で帰り]D607をエンジンをかけておいておくことになった。
  19日 SMのスターターは見つかったが2日位かかるという。結局みずほに残すKD607を動けるようにすることになった。これが動かないと、発電機の燃料ドラムをとってくるのに困る。旅行隊が出るまでに直さなくてはならない。何となくみずほの苦労が判ってきた。だんだん生死にもかかわるようになってきた。皆は夜遅くまで努力したが、部品の少ないここではうまくいかなかったようだ。自分は午後からはもっばら食料品の整理を行った。   20日 朝より15mの強風あり、視界も極めて悪いという。自分は昼、夜の食事当番を行い、その間食料品の整理を行う。午後3時頃ようやく \Dの修理が終わり、これでいつでも旅行隊は出発出来ることになった。夜は久しぶりに皆にこやかになった。隊長より電話あり、様子を聞かれた。Y田さんからもたいした病人はないとの話。精神的にも皆は参っていたが、これでよくなった。
   21日 とうとうみずほで1週間経った。又、昨夜はKD601のクーラーファンベルトが折損しその交換に早朝の6時半までかかったという。そのため休養。天候も悪いので朝食を抜きブランチとして昼まで寝た。日曜と言う事で食料品の整理もせず、碁をしたり本を読んだりして過ごす。旅行隊も昨夜の仕事でぐったりと言う感じ。北逓信病院院長と外科に電報を打つ。
   22日 風速10m位で天気はまあまあなので、旅行隊は9時10分出発した。遂に4人だけになった。その後エンジンのかからなかったSM501のエンジンがかかり、一同大いに喜ぶと同時に、ますます旅行隊が気の毒になった。旅行隊は Z(;まで行ったという。夜全員でOPE会議と称して今後のやり方を色々相談する。
   23日 風があるが久しぶりの上天気となった。旅行隊も調子よく行き、H289まで行った。午後Tさんの案内で皆で基地内を歩いて見学する。気温もー40度に下がり気圧も上がってきたので、明日も良い天気で旅行隊もどんどん進むだろう。生活も落ち着いてきた。毎日12時か1時に寝る。朝食は9時半と決めた。
   24日 風が弱い時に軽油を5本程近くにデポしたいのだが、今日も10m以上吹いている。午後風呂の水交換。あまりにも汚く、汚れているのに一同びっくり。自分はまだ入っていないし、下着もそのままだ。雪のかたまりを入れるのだが、これはドラム置き場を作っている所から切り出したものだ。しかし昔の小便の跡やチューインガムがあったりしてよくない。夜は久しぶりに1時頃まで皆で飲んでしやべる。
   25日 曇り空で風が強い。旅行隊が心配だ。昨日洗った風呂に雪を入れ、夕方には入れるようになり、入った。1カ月ぶりである。外は−20度位なので裸になるのが大変だ。風呂に入っている間も髭が凍る。頭を洗うとすぐにタオルで拭かないと髪の毛がばりばりに凍る。しかし次にはタオルが凍る。裸足の足が服を脱いだり、着たりする時につめたい。12時頃まで皆でトランプをした。今日は昭和基地とも旅行隊とも連絡が取れず。
   26日 風弱く、8mのため気になっていた燃料ドラムを運ぶ。3本をデポ、2本を下のドラムに入れた。これでブリザードで軽油が運べなくても、デポからなんとかとれる。1本で4日位もつから12日は大丈夫だ。今日は食事当番。別に辛くはないが、あまり自分の仕事はできない。旅行隊は昨日H189本日S29まで行ったので、明日には昭和基地に着くようだ。
   27日 だんだん夜遅くなり、朝食は10時となった。本を読む時間が出来てうれしい。旅行隊は調子よく本夕4時頃昭和基地に到着する。明日は日曜でブランチとなるので、3時過ぎまでは皆で酒を飲み、食べる。
   28日 時に風速は20mを越した。しかし気温は上がり−20度。ブランチにて一時頃食べる。もっぱら読書で、阿川弘之の「山本五十六」を読破した。この前は松本清張「考える葉」を読んだ。今は「編笠十兵衛」を読んでいる。今の所四人すべて順調に行っている。KちやんとTやんも仲良くやってくれておりひとまづ安心。
   29日 風速8mから10m位のためゴミ捨てや小便袋を捨てに行った。12時半頃、一番太陽高度が高い時をねらって、写真を撮りに行ったが、地平線付近は見えなかった。3時頃夕焼けが美しく、この頃には地平線も見えた。例によって夜さま1時頃まで酒を飲む。
   30日 夜半より激しいブリザードとなる。このためか静電気がたまって各観測機械が壊れる。アースがここでは、うまくできないためらしい。観測室にいても、バリパリと放電する音が聞こえる。夜はすき焼き、今日は鉄板焼きにしたが、好評だった。昨夜よりセブンブリッジをやっている。今日も12時まで皆でやる。
   31日 気温が下がり、昨日−20度だったのが、−42度にもなった。急に気温の変化を来すと雪寮が起こるそうで、ドシンとか、ドカンという音がする。クラックが出来るらしい。毎夜12時までブリッジをする。仲良くするためには良いことと思う。
 6月 1日 燃料ドラム置き場を作りながら、切った氷を風呂水に使っている。寒くても風呂は気持ちが良い。勉強の方は時間があってどんどんはかどる。オーロラを注意しているがなかなか見えない。見えたとしても10m以下の風でないと、写真撮影はむずかしい。毎日11時から1時間ほどブリッジをする。これは皆仲良くするのに意義があると思われる。
    2日 3時頃まで眠れず。]の悲劇を読むおかげでねむく、午前中は昼寝。午後5時半頃、すばらしいオーロラをみた。帯状の真っ赤なオーロラだった。最近よく勉強できてうれしい。
    3日 気圧は718に下がり、気温もー45度と低くなった。今日は食事当番で忙しく働く。今日も夕方すばらしいオーロラが見えた。雪が舞うので写真はなかなか撮れない。明日は日曜でブランチなので2時半までトランプ(ブリッジ)をした。
    4日 全員12時頃起き1時にブランチ。食事前に風呂に入る。50度位で熱い。裸で雪を入れる。風は12m位あったが天気が良いので小便袋やごみを捨てに行き、貯雪場の穴を開けた。今日から英会話のテープを聞くことにした。気温は−47度のままで気圧は720位で少し上がった。
    5日 風呂場と12KVA発電機室の間の通路の天井が、ベニヤ板の上に霜と雪がたまり、垂れ下がってきた。つつかえ棒をする予定だ。ついでに風呂水を替えた。夕方オーロラが出ているか見ようとしたら、アンテナより放電しているのが見られた。静電気のためで千ボルト以上あるという。観測機はまたダメになった。午前1時頃みずほに来て初めてオーロラの写真をとった。
    6日 午前中昨日落とした雪を川へ捨てる。たいした仕事ではないが、息苦しい。午後下がってきた天井に柱を3本立てた。夜Kちゃんから長い電話がかかってきた。1時間位、皆で2時間位しやべる。
    7日 特に風強く、ブリザード以外の時は地吹雪の記載をやめる。南極について書いている原稿も各論の気象を終り、いよいよ超高層に入る。通信を1日3回にしているが7時半より8時と遅れ、ついに9時半頃にするらしい。T沢さんの観測計器にノイズが入りまずい。しかも通信は最も電気を喰うので、発電機も心配だ。
    8日 風が10mとなりおだやかになったので、午後皆で外に出てT沢さんに案内してもらう。その後通信の職場訪問とした。3時の通信の時、夜の通信をどうしょうと考え、結局隊長と相談した。午後7時半に交信、だめなら翌日としその代り、9時20分から30分の間、昭和基地で緊急用としてワッチしてもらうという自分の実に賛成してもらった。オーロラをみるため頑張ったがだめ。久しぶりに午前3時まで皆でだべる。
    9日 結局朝遅くブランチとなる。午後より職場訪問。fさんに超高層、雪氷の話を聞く。昼間部屋が暖かい(−20度)ので眠くなり夜が眠れないという困ったことが起こっている。今日も風がよわいのでオーロラを狙って3時まで頑張り少しは写真がとれた。
  10日 スノーモービルの入っている非常口の所の天井に雪がついて、下がってきたので午後全員で雪をとる。その後風呂に入る。10時と2時頃にオーロラが出たので写真を撮る。マイナス50度まで気温が下がり、ドーン、ドーンと小農がすごい。
  11日 今日は当直。ブランチは天そば、夕食は張り切って湯豆腐、きんぴら、高野豆腐、春雨、蟹の酢のものを作り、皆に喜ばれた。昨日がんばってオーロラを撮ったが、フイルムが切れていてパア一になった。寒いとどうも具合が悪い。
  12日 珍しく風なく8m。午後3時より南極大学を開講する。南極概論についてしやべる。N野さんからも長文の電報が来た。自分の学長のままらしい。10時頃素晴らしいオーロラが出た。普通のずぽんのままで飛び出したが、寒くはなかった。気温マイナス48度。2時まで待ったが出ず。
  13日 珍しく風の弱い日が続く。燃料ドラム運搬のため、SMを動かそうとしたがプレヒータの不凍液が、シャーベット状になって回らない。仕方なくKDを試みたがバッテリーの電圧弱くバッテリーを充電し、ヒーターを一晩入れる事にした。ヒーターも普通のコードしかなくすぐに折れる。M理とM弥から電報がやっと来た。うれしい。
  14日 KD607の燃料パイプが詰まっているらしくあきらめる。SM501をマスターヒーターで不凍液をあたため不凍液を回してエンジンを回し、ようやく午後5時までかかった。今夜一晩かけっばなしでおいておく。不思議に良い天気が続く。
  15日 朝食後さっそくドラム運搬。更に灯油もなくなったので、上から補給した。天気も同じくよい。食事当番で忙しく一日が終わる。朝から煙のようなものが、16KVA発電機室辺りから出ているようだったが、夜11時頃になって煙突の周辺から煙が出ているのがわかった。シートが燃えて、くすぶっていた。外へ出て煙突周辺のドラム缶をとり、周囲の焦げているものを取る。2時半に作業を終る。
  16日 いつもながら朝は眠く、朝食は誰もしやべらずに食べる事が多い。午前中は皆寝た。2時頃昼食にした。本日は家族会。M理は出席したらしい。ビデオをやったという。K沼さんと0瀬さんが隊長と話したらしい。午後11時から1時間ほどオーロラが出たので撮影した。どうも6月は天気が良いらしい。
  17日 かぜは10mを越しはじめた。昨日よりジグゾーパズルをはじめた。誰かがやった彼らしく、足らないのがあるので困る。夜2時半までトランプをする。今日はオーロラも出ないのか、よく見えない。
  18日 風が10mを越し気温は−30度にあがり気圧も上ってきた。視界が悪いが、小便とゴミを捨てに行った。我々はビールをよく飲むのか、小便量多く4日はだめで、3日位にしょうと思っている。ジグゾーパズルはほとんど出来た。意外に早くできた。明日は当直、風呂掃除、南極大学と忙しい。
  19日 ジグゾーパズルは完成し糊で貼って揚げた。M理から又電報が来た。夕方Tちやん、T藤と話した。九居はミッドゥインターに向けて頑張っているらしい。いよいよ明日は前夜祭。特に食事をよくする以外には、何も行事は考えていない。
   20日 午前中は燃料置き場の拡張工事や風呂場の氷入れをする。非常に良い天気で地平線が全て見え、写真も撮った。明日からのミッドゥインター祭にそなえて酒の用意や、ごみ捨て等をした。3時には隊長から電話があった。明日から3日間は休日日課とし、朝食はなくなる。前夜祭として飾りつけをし、写真を撮る。打ち上古ヂ花火も試みたが火がつかなかった。
   21日 風は13mで打ち上げ花火は中止。抹茶を飲んだためか、朝6時頃まで寝られず。午後少し昼寝する。その後T沢さんと将棋などをする。ミッドゥインター祭と言つても4人だけでは飲んだり食ったりするしかない。4時頃ケーキを食べ、8時頃より夕食。午前2時までトランプをして3時に寝る
  23日 今日は食事当番。昼のブランチはソウメン、夜は毛ガニ、ゾウスイ、きんぴら、高野豆腐、シイタケの煮物、茶碗むしとした。3日間ごろごろして皆却って疲れたようだ。時々T沢君と将棋をする。戦績は2/3位は自分が勝っている。昨日に続いて今日も風呂に入った。これからだんだん日が長くなるのが何と言ってもうれしい。
  24日 ブランチ続きで調子が狂ったらしい。結局、朝食を抜いて昼食まで寝た。三日間の休日がこたえた。さっそく燃料置き場の拡張工事に精を出す。皆も疲れたのかトランプも午前1時で中止した。
  26日 今日本部総会で20隊員が決定された筈だ。今日は8時頃オーロラがよく出てた。しかし飛雪のため写真が撮れない。
   27日 どうも夜が眠れない日が多い。南極大学三回目。U木さんの雪上車の話。半時間経で昼寝。夜はオーロラが何度も出た。風は15mと強かったが何とか写真はとれた。お蔭で右頼又凍傷になった。
   28日 午前中は燃料置き場の拡張工事か、食料品整理をし午後より勉強する。午後健康診断をする。12時までオーロラが出て寝る事にした。
   29日 午前中は食料品の整理、貯雪場の穴をあける。今日もオーロラ出ず、1時に寝る。H先生一家から電報が来た。今、皆が一番食べたいもの、それはキュウリ。
   30日 やっと半年過ぎたという感じ。昨夜は皆4時頃まで飲んでいたらしい。自分は毎日ビールしか飲まない。それも2本くらいだ。他の連中は二日酔いでぐったり。やっと超高層を書き上げ次は、雪氷に入る。一昨日凍傷にかかった右頬がまだ少し痛む。フイルム巻き上げのボタンを押した右中指の先も,凍傷になった。
 7月 1日 相変わらず夜寝付きにくい。特に観測室は22度位で、どうも昼机に向かうと眠くなる。18〜20度位がよい。夜会議をし改善点を色々指摘した。毎月1日には会議をするつもりだ。久しぶりにセブンブリッジをする。2時に終わる。昨日、今日とオーロラは出ない。
    2日 アクセントをつけるため、日曜日は仕事や勉強をしないことにしているが、本を読む以外にすることがない。T沢君も将棋に負けてばかりで、相手になってくれない。雑誌もほとんど読んでしまった。唯一の楽しみと言えば風呂しかない。それで夜はかなり勉強した。午前1時頃オーロラが出たが、曇っていて見えない。来週から次の旅行メンバーの人選が始まるのではないかと思う。
   3日 午前中風呂掃除や貯雪場の穴あけ、洗濯をする。午後は3時より南極大学。Kちゃんの通信の話を聞く。夜ヨーロッパ旅行の話をする。こういう話は楽しい。オーロラは待機していたが先に寝た。Kちゃんはフォトメーターのブザーを消していたらしく、ブザーが鳴らなかった。しかし揺れが大きかったので、よいオーロラだったと残念だ。
   4日 南極についての原稿はついに雪氷も終了した。後、地学、海洋、生物で終わる。昨日のオーロラを見逃したのが残念でならず、本日はがんばって注意していた所、午前1時より1時間、これまでで一番すばらしいオーロラが出た。月夜のように明るくなった。夢中でシャッターをきった。4本以上撮影した。寒さのため1本は途中で切れた。
    5日 昼はいなり寿司を作った。好評だった。20次隊は今日から土曜日まで、菅平で訓練をやるそうだ。今日もオーロラが出た。昨日ほどではない。これからはいいオーロラだけ撮るつもりだ。1時半までトランプをする。
    6日地学の原稿もだいぶ書く事ができた。今月中にすべて出来そうだ。次は誰が来るか皆注目しているが、隊長からは未だに話がない。
    8日 南極の原稿は一部資料が昭和基地にあるものをのぞいて総論、各論とも書き終えた。午後隊長より電話あり、みずほ隊員を内定したいとのこと。ついてはT沢君の意見を聞きたいと言う事だった。機械隊員はしっかりした者を連れてくることを希望し、又、雪上車の部品が不足していること、みずほへ来る人は調理を勉強してくるように頼んでおいた。
    9日 日曜日と言ってもすることも無いので、風呂に入った。3回ほど入った。M先生達は2週間に1回水を変えていたので、あまり入っていなかったようだ。しかし、燃料置き場もだいたい掘り終ったので、今度は便所堀でもしないと水がない。ハーモニカを吹く。みずほへ来てはじめてだ。英会話も1週間前から聞き始めた。
   10日 明日雪上車を動かすべく、U木、T択はマスターヒーターで温めに、Kちゃんと自分は風呂掃除をした。その後雪上車の後ろのドリフトをこわす作業をし、すっかり疲れた。雪上車のエンジンはかかったので、明日までかけっばなしにすることにした。夜、久しぶりにトランプをした。
   11日 朝食後よりドラム缶運搬をした。7本運ぶ。昼過ぎまでかかって入れ終つた。重労働で疲れ、風呂に入った。
    12日 昨日ドラム運びをやってよかった。風強く14mで雪も降っている。気温も珍しく−28度だった。3時より南極大学。疹痛と鎮痛について話をした。
    13日 隊長より朝電話あり。今後のみずほ隊員、旅行隊員の内偵の提示があった。自分は今度帰ることになった。昭和基地はブリザードで観沸、電離、環科棟にそれぞれ閉じ込められているのが数名づついるそうだ。夜、臨時会議を開き、この度の決定に着き、皆の意見を聞いた。
    14日 ブリザードは止んだが、通信状態悪く夜になってやっと通じた。風呂の温度高く60度位なので氷が沢山要って困る。そのたびに氷を切り出さねばならない。燃料置き場もいよいよ終わりなので、今度は装備庫より便所を掘ろうと思う。
    16日 久しぶりにぐっすり眠れた。造水屑槽や風呂の温度が高く、60度以上ある。従って観測室の室温も上がり、今日は−24度。あまり温度が高いと身体がだるい上に眠くなり、勉強に差し支える。
    17日 午後3時頃16kvAに切り替えたが、それ以後順調に発電機が動いている。今晩の全体会議で、今後のスケジュールが決まるはずだ。次の旅行隊は8人という話なので、みずほも食事その他忙しくなる。
   18日 南極についての医学論文は大体書き終わった。午後Kちやんから電話があった。いつも話が長いので閉口する。今後、帰国までのスケジュールが発表された。
   19日 昭和基地は1週間目の今日、太陽が見えたという。気温−42度位まで下がった。昨日ドーン、ドーンと氷震すごかった。燃料ドラム置き場は一応掘ったが、まだ高さが足りないので、上を少し掘って下も掘るつもりだ。旅行隊が来るのはよいが、8人も来られるのはうんざりする
    20日 昨夜一気に松本清張の不安な演奏を読んでしまった。地平線が飛雪のため見えないので太陽はまだ見られない。M弥から又電報がきた。歯が抜けたと言ってきた。N緒はまだ字が読めないのかと心配だ。
    21日 昨日昭和基地では、南極大学卒業式を学長の自分を不在のままやったらしい。昨日更に温度が下がり、−48度になり氷震がよく起こったのでテープに取った。半時間で10回位聞こえた。−52度以下に下がる。16KVA発電機の調子がまたおかしくなって、夜U木、T沢さんの二人が調べたが、よくわからないらしい。
    22日 はっきり聞こえなかったが電報料が9万円位になっているそうだ。かなり高くつくものだ。気温は久しぶりに−51度になった。しかし風は10mでさむさはたいしたことなく、立入り禁止区域の変更を一人でやった。越冬報告を大体書いた。
    23日 Hagensennの本をかなり読むことが出来、総論は終わった。勉強できるのは、みずほにいる今の内だ。ハーモニカをちょっと練習したが、クロマチックは髭が飛かかって困る。
    24日 風速12m位で相変わらず飛雪で太陽が見えない。もってきた専門書も大切な所は大体読み終えた。
    25日 気温は久しぶりに−52度になった。11時20分やっと太陽の頭だけが見えた。夕食はもち米を入れて飯を炊いたが、うまくできておいしかった。夜11時又発電機がおかしくなり、ブラシの部分から火花が出ていたという。それから、全員で午前2時までかかってブラシ4つの交換をした。今まで、ブラシの交換をしていなかったらしい。
    26日 本日身体検査で医学の採血があったが、昨夜のことで皆疲れているので明日に延期した。今日もー52度。外に出ると風は11mでさすがに寒い。室内も17度位で20度にならない。温水循環の不凍液の温度が上がらないからだ。
    27日 身体検査と医学用採血を行う。昨夜オーロラがきれいだった。今日は風速14mでだめだった。
    28日 室温は24度。24度だと裸でいても寒くない。旅行隊が来るまであと1カ月位だがいよいよ、旨いものが無くなってしまった。皆から選別にもらったウイスキーもあと2本だけだ。
    29日 やっと2回目の太陽が見えた。かなりもう高くなっていた。今日、ロケットを昭和基地で上げる予定だったが、天気悪く中止になった。みずほはの方向300kmというから、この基地より40km離れた所に落下する予定だ。
    30日 日の出から日の入りまでの写真を撮るつもりだったが、風速14〜15mでプリ気味で太陽はよく見えず。今週中に不足品を訴べて、持って来てもらうようにしたい。将棋、トランプ今日も負け続けた。
    31日 3日間15m位の風が吹き荒れている。オーロラも全然出ない。今日から少しづつ基地内を整理し、不足物品を見つけて報告せねばならない。取りあえず調理用具と装備品を調べた。昭和基地へ帰ると決まると、早く帰りたい気持ちだ。
   8月1日 太陽が少し見えたので、太陽の動きを撮ろうとしたが、曇って駄目だった。隊長より電話あり。明日以後ロケット打ち上げがあるそうだ。みずほに向けてあげ、基地より30〜50kmに落ちる予定という。
     2日 風が14m位になった。昭和基地もプリらしい。朝から食事当番の上、風呂の水を替え、洗濯をし、忙しく働く。マカロニグラタンを作ったが、牛乳の代わりにスキムミルクを使って、何とかそれらしいものができた。夜11時半、また、16KVA発電機より火花が出た。大仕事になりそうなので、明日やることにした。
     3日 午前中かかって発電機を修理した。ブラシホルダーが緩んでいたらしい。大体500時間点検といってもエンジンだけで、発電機は見ていないらしい。午後食料の野菜を整理して不足分をチェックした。
     4日 午前中、食料残量を調べやっと調味料だけができた。寒い所で仕事をするのは疲れる。N緒ちゃんが字が読めるように成ったら、知らせてほしいと言ったが、まだ知らせて来ない。まだ読めないのかと心配だ。トランプも調子がでてきた。
     5日 昭和基地もこちらも天気悪くプリ気味。ロケットは上がらず。次のロケット打ち上げが遅れると旅行隊出発も遅れる。この1週間毎夜トランプをしている。今日は調子が良い。しかし将棋はこの所負け続けている。2週間ほど前より、左下腹部痛あり、結石を心配している。
     6日 昨夜、Kちやん酔い、朝の6時頃までT沢、U木の3人で飲んでいた。自分は寝床でうとうと。一旦寝た後U木さんがKちやんが寝床にいない、というので、探そうとしたら観軸室にいた。プリの中酔って外に出たら命が危ない。皆は二日酔いで元気がない。明日以後天気がよければ燃料ドラム運びをやらねばならない。風速は20mに近くこちらに来てからの最高風速だ。どうも8月中には昭和基地に帰れそうにない。
    7日 風速14mのため燃料ドラムの運搬は延期した。一昨夜皆飲み過ぎたためかあまり元気なく、酒もあまり飲まないようになった。基地内の施設の写真を撮って回った。早めにやっておかないと旅行隊が来ると忙しくなる。久しぶりにオーロラを見ることが出来た。しかし風はまだ強く、夜でも12〜13mだった。
    8日 久しぶりの良い天気だ。太陽を撮影しようとしたが、回路が消え寒さのため3時間目にはシャッターが動かなくなり、フイルムが切れた。気温は再びマイナス52度に下がり、こう寒いとかいろはベンジンが冷えて燃えないらしい。風も12mあったが、明るくて気持ちが良い。基地内外の整理をした。内部はだいぶすっきりした。この所トランプも勝ち続け一位になっている。
    9日 周りの地平線が皆見えるほど、よく晴れた。風も弱くなり気温−53度でも寒くない。真夏のような明るさで楽しかった。主な医学書も読破した。後は時間のある限りHagensennを読むしかない。英会話も毎日聞いており1週間で1課済ませるようにしている。しかしオーロラはいいのが出ず、ロケットも上がらない。したがって旅行隊が来るのはかなり遅れそうだ。
  10日 珍しく−50度台の気温が続く。KD607を動かしてみる事にした。以前にせっかく充電したのにバッテリーが上がっていた。結局今夜中充電すること.にした。
近くのデポより、人力で3本の軽油を運び上げた。
   11日 四日間連続−50度台。今日は最低気温で−54度。KD607をマスターヒーターで温めてエンジンをかけたが、すぐバッテリーが上がってだめであきらめた。気温が上がるのを待って、SMのエンジンをかけて動かし、次いでKDのエンジンをかける予定とした。後10日以内に気温が上がり、風が強くなくて軽油を運べる日がなくてはならない。
   12日 気圧は714mbと低いのに良い天気で低気温が続く。U木さんと二人でみずほ基地の看板を立てた。
   13日 今朝の気温はついに−54度。相変わらず好天が続くが、昭和基地はずっと天気が悪いらしく、ロケット打ち上げが遅れている。いいオーロラが出たようだが、少し見に行くのが遅かった。フォトメーターの針が、ある程度以上になると、ブザーが鳴る仕掛けがあるが、いつもKちやんが切ってしまっている。この頃ではまったくあてにせず、自分で見に行くことにしている。
   14日 ロケットが打ち上がるかもしれないので、2時までワッチ。観測棟で飲みトランプしながら待ったが、天候悪く、中止になった。こちらもオーロラは出なかった。
   15日 気温が−45度になったと思ったら、風速13mとなりドラム運びは延期した。昭和基地も天気悪くロケット中止。
   16日 朝気温−43度風速13m。しかも気温は下がり気味のため、ドラム運びを決行することにした。残りは一本あまりで、5日分しかない。SMはオイルを温めると}ターが点火せず。しかし昼前に成功しエンジンがかかった。午後1時よりドラムー気に十本(デポ4本)運ぶ。しかしブレーキオイルが冷たく舵が切れず、地に帰るのに苦労した。ついでKDのエンジンをバッテリーをつないでかけた。これも簡単ではなかったが、かかったので動かし、ソリの位置にまで持っていくことが出来た。ずっと基地前においていたので、大きなドリフトができた。ようやく6時半に終了した。幸い気温もどんどん下がり−51度になった。皆疲れ、10時頃寝る。
  17日 相変わらず風強く、飛雪ありブリザード。昨夜より静電気により観測機器壊れ、T君と]チャンは修理していた。昭和基地は天気によりロケットをみずほに向かって上げるという。しかし静電気がバリバリ、ピチビチといって観測機械を動かせない。午前0時半頃より、観測棟でトランプをしロケット打ち上げを待つ。ようやく3時35分頃上がり7分間でみずほに来るがプリで見えなかった。気圧は703mBにまで下がり、これまで記録された最低らしい。気圧計の目盛は700mbしかない。
  18日 今朝は昨夜遅かったので、ブランチとした。気圧はついに701mbなった。風速20m、瞬間では24m。8月に入ってから忙しいせいか、日が経つのが早い。左下腹部の鈍痛が気にかかる。
  19日 気圧は702mb、風速14m、気温−51度と変わらない。持ち帰り最の整理はでき、申し送りもすべて書き上げ、帰りの用意はできた。ロケットは24日に上げる予定らしい。相変わらずのプリで、3日ぐらいFAXがとれず、新聞が見られない。トランプはKちゃんが又1万点を越したので、やめた。
   20日 ようやく気圧は上がり始め、710mbとなった。風も12mとなったが気温は−50度のままで低く、温水循環も50度のため室温も17度位で寒い。廊下はいつも−15度位だが−25度にもなっている。静電気のため観測室の機械を止めていたら室温が−10度となり動かなくなったという。
   21日 気温がようやく−40度になったが、まだ温水循環の温度は上がらず室は寒い。少しづつ気圧も上がり、風も弱くなってきている。
   22日 ようやく好天気になった。この様子だとロケットは今週中に上がりそうだ。ロケットは皆のサインをして、明後日上げる予定だという。
   23日 風が6mと最低になったので、Uきさんと屋外灯を修理し,更にドラムデポへ行き、ドラムの数を2人で調べた。午後気圧と気温は下がり、708mb、−48度になった。室内は相変わらず寒い。オーロラは最近一向に出なくなったので、明日の打ち上げは無理かもしれない。
   24日 午後T沢君の氷震伝播実験のコードを埋めるのを、皆で手伝う。穴を掘って埋めていくだけだが息苦しい。気圧が低いためだと思う。
   25日 ようやく天気は落ち着いたが、オーロラは昼間に出て夜は出ずロケットも上がらない。
   26日 昼にTさんよりUきさんに電話があった。その話によると、不凍液の濃度を濃くし、プレヒーターを使えば、KDもSMも簡単にエンジンがかかるような話であった。又ハーマンネルソンもマスターヒータよりも良いと言うb
   27日 気圧も変わらず気温もー50度のままなのに、昨夜より風が急に強くなり15mとなる。室温は観測棟16度、居住棟は12度でどうもさむい。気温が少しも上がらないためか、温水循環も50度から上がらない。風呂も殆ど氷を入れないで入れる。夜1時から2時、すばらしいオーロラが出た。激しく動くピンク色だったが風が強い。昭和基地は天・気らしいので、ロケットは上がったと思う。
   28日 やはり昨夜はロケットが上がった。9月2日に出発するらしい。静電気のため各観測機は動かせず気象計は壊れたので、正確にはわからないが、20m以上吹いているらしい。気温もー50度を超えたらしい。幸い室温は上がり−18度になった。
   29日 昨日と同じようなブリザード。風速は22mだという。出入り口も雪で埋まってしまったので、風呂に入り雪を風呂に入れた。この頃ようやく観測棟の室温は20度になった。どういう原因で良くなったのかわからない。造水槽はやはり50度から上がらない。オーロラが良く見える日なのにプリで残念だ。Tちやんが電話に出たので色々用件を話した。
   30日 風は16mになったが、やはりブリザード。気圧も720mbを超えた。昭和基地ではすっかり出発の用意ができたらしい。この頃はすっかり帰りたくなった。毎日毎日、テープ、しかも同じ曲ばかりで気が狂いそうになる時もある。
   31日 風が14m位になったので、ごみを捨てに行き、基地を見て回った。雪が雪面を流れて行くのは美しい。それから急に送別会ということになった。カラオケで皆が歌った。飲んで、食べ騒いだ。自分は一人で角瓶1本飲んだ。結局朝の7時まで騒いで寝た。
 9月 1日 風は16mとなり、昨日の14mより強い。頭がどうもすっきりしない。だれもグロキー気味である。本日は休日日課とした。昭和基地はずっと天気で、明日は出発出来そうだという。
 9月 4日 少し風が弱くなり14mになったので、ごみを捨て新雪場の穴をあけに行った。昭和基地ともやっと連絡がとれ、旅行計画がとれた。FAXも1週間ぶりに読むことが出来た。夜オペ会を行い、旅行隊が来た時の事について話し合う。
    5日 昨夜は皆4時半まで起きて飲んでいた。おかげでこちらも寝付かれず困った。燃料置場の氷切りは殆ど終わり、明日には完成しそうだ。相変わらず15mの風が吹いているが旅行隊との連絡が、昼も夜もとれた。現在Alで、明日の午後にはAlを出発するという。
    6日 ようやく風速10mとなり、SM501の清掃を行いエンジンをかけ整備する。ハーマンネルソンを運び込む。新燃料置場も今日完成した。風呂用氷も非常口の所に積み上げた。食事当番もいよいよ明日が最後になりそうだ。
    7日 素晴らしい天気になり水平線が見えた。ハーマンネルソンをかけKD67を動かす予定だったが、ベルトが硬化し数か所できれかかっており、とても回せなかった。外に置いておいた為らしい。SMのエンジンを借りたが、パンクしているのがあり、これをはずす。KDは小さな発電機を持っていき、マスターヒーターでやろうとしたが、発電機が′J、さすぎて駄目だった。旅行隊は90km走りH300に来た。後100kmだから無理すれば明日来れる。
    8日 曇天となり視界が悪くなった。SMから電気を取ってマスターヒーターをかけたが、電力不足で駄目。仕方なく1KVA発電機を持って来てバッテリーをSMからひき、やっとエンジンがかかった。旅行隊はZ70まできた。あと35kmだが視界がやはり悪かったらしい。
    9日 今日も曇天で視界悪く旅行隊も苦労している。ようやく4時36分みずほに到着した。我々よりも康行隊の方が大喜びだった。8時から夕食にし11頃まで食べて騒いだ。
  10日 昨夜は皆疲れているということでブランチとした。N山さんと二人で申し送りを兼ねて、食事当番とする。昼食後は基地内外を案内し、その後申し送りをする。他は昨日降ろせなかった荷を降ろし、非常口に雪が詰まっているので、それを取る。出発は13日の予定。のんびりしている。
  11日 旅行隊8人で込み合っているが、想像したよりもつらくない。トイレは前回はよく臭ったが、今回はあまり臭わない。寒さのせいだろうか。今日はKD607のバッテリーを交換しただけ。機械は16KVA発電機の点検をした。久しぶりに碁をした。3人としていずれも負けたが、楽しい。将棋は負けると楽しくない。
  12日これまで最高の良い天気となり、360度地平線が見えた。11時に外で全員で記念撮影。午後から私物、空のペールカン、バッテリーなど持ち帰り品を積み込み、ソリ編成をし、出発の準備をして遠方に置いた。今日でもうここへは来れないと思うと、なんとなくなつかしい気がする。夜は送別会とT沢君の誕生会を兼ねてパーティ。
  13日 快晴でこれはありがたいと思ったが、6時半に朝食を済ませ出発しょうとしたら、自分の乗ったKD609のアクセルが外れていて修理。続いてSM501の右第1,3転輪がパンク。これと交換するのに、2時間軽かかった。気温は低くすぐ辛が冷たくなる。10時46分出発。SM502,KD609、SM501の順でKDは何も引っ張らない。道の良い所は502がどんどん走るので、すぐに見えなくなる。Zルートを終り、H290で泊まる。すぐに夕食をして11時に寝た。
  14日 予想通り朝から激しいブリザード。一応5時に起き、エンジンをかけ7時に朝食をしたが、視界極めて悪く、動けず。Y岸さんと碁を二日した。今日は食事当番で夜食を作る。調理のA谷さんがいるので、食事はみずほに来た時よりもぐっとよい。
  15日 朝プリ気味だったが、視界が割合に良いので8時頃出発する。NちやんはAl点へ行くのでSM502に乗り、自分がKVを運転する。ホワイトアウトの中を必死でSMについて走ったが、途中501がついてきていないのに気づき待つ。視界が良いので良く見えた。7時頃HlO9に着く。ここで食事。SMは9時半頃着いた。タイヤのチューブを入れ替えた。
  16日 4時に起き、6時にラーメンを食べて出発。視界良く、SM502はどんどん飛ばす。5〜7km遅れて我々のKD501が続く。隊長その他の出迎えをうける。トッツキ岬の上で、ソリを編成し直しSM501と502間にはさみ、便カブ、ハーマンネルソンをKC2台に挟んで、青氷の急坂をトッツキ岬まで降りる。海氷に出るところで、クレバスが割れており、慎重にわたす。もって帰る501は道板を渡してわたる。6時、基地で多数の出迎えを受け、おいしい夕食にありつく。
  17日 2時まで眠れず、日刊19次を読んでいた。朝も9時か10時頃日が覚めた。また、昨夜は映画があったが、睡眠不足にも拘らず眠らなかった。昼食後、室と医務室の整理。夕方及び夕食後ビリヤードをK光さんと隊長とやる。勝はしなかったが腕はあまり落ちていない。10時から9居の全室でみずほから帰った自分の歓迎会。12時頃におわる。Y田さんから生活主任の申し送りを聞く。
  18日 久しぶりにぐっすり寝た。マイクで起きた。午前中旅行のソリや雪上車に載せてある荷物、ドラム缶などの片づけを行う。やっと私物が手に入り、かたずけることが出来た。
夜は碁、どリヤードをやったが、今日はいずれもだめ。調子が悪い。11時頃早々と寝るにした。
  19日 午前中は医務室で雑用。午後よりみずほの写真をPIXで送ると言うのでみずほで撮った写真を現像してみた。しかし看板が逆行なのでうまく撮れなかった。上天気で雪の反射があるとなかなかうまく撮れない。碁はK光さんには勝てるようになった。ビリヤードは一向にうまくならない。夜はブリザードとなり外出禁止令がでる。
   20日 午前中環境棟でみずほ滞在者の肝機、腎機を行う。3時より白黒フイルム4本現像する。みずほの写真はいいのがない。映画の後バーでどリヤード1時まで飲む。夜再びプリで外出禁止令が出る。
   21日 気温が上がり−8.8度となる。天井の霜が落ちてきた。そのため午後廊下の掃除を全員で行う。1時半から氷山へ氷を取りに行く。羽毛服を着て行ったが、暑くて困った。M理から電報が来た。忙しいらしい。ビリヤードは一向に上達せず、いらいらするのみ。
   22日 快晴となった。昭和基地の冬景色を撮りたいと思ったが、今日から2日間身体検査をすることにしていて出られない。
   23日 15m位の風の中遠足の装備を揃えに11倉庫に行く。身体検査最終日だが、集まりが悪い。南極に関する原稿はあと生物だけが残っているので、これを書いている。夜は9月誕生会とみずほ旅行隊歓迎会。結局全員が歌を歌わされて8時すぎに終わる。映画を見てから、隊長とどリヤード2回行う。
   24日 朝よりブリザード。午後より遠足のためのテントを張る予定だったが、だめ。遠足も1日延期になった。午後は碁とどリヤード。
   25日 昼ごろにようやくブリはおさまった。午後は明日からの遠足の準備。KC2台を動かしソリに荷物を積み込む。夕食後は碁とどリヤード。どリヤードは押し球が少しできるようになり、やや上達した。
   26日 5時半に起きKC24,25のエンジンをかけ、昼食のおにぎりを作る。朝食を済ませ8時20分に出発。S木さんが胸痛のため中止したので、一行は9人となった。ラングホプデへのループの途中からルンパへ向かったが、KC24が右へ回らなくなり、前進できず。KC25に引っ張ってもらい、ラングホプデに2時15分頃到着。アンテナの電池を交換し長頭山の中腹まで登る。ハムナ氷河を見る。テントで食事はおいしかつた。
   27日 5時半起床。暑かった。ハムナ氷河に向かうが天候良くなく、視界悪い。10時頃引き返す。ラングホプデ氷河がうっすらと見えた。途中引っ張っていたKC24のスプロケットが折れ、キャタピラが外れかかったので、海氷上に置く。隊長と0山さんが迎えに来てくれた。
   28日 ブリザード朝よりひどくなり夕方より外出禁止となる。昨夜2時まで電離棟で白黒写真のべた焼きをしたので、眠くてならない。昼寝を少しした。午後観測部会。夕食後アルバム委員会あり。大綱が決まる。
   29日 ブリはようやく午後には治まった。午後設営部会。プリで昨日雪入れが出来なかったので、今日の風呂は明日に延期になった。どリヤード少しづつうまくなってきた。オーロラが出るかと思って気象様に行ったが、夜またプリ気味となりだめ。
   30日 午前中F隊員送別会について日刊19次にのせる。午後より快晴となり、さっそく全員作業でソリの振り出しを行う。ほとんど全部が埋まってしまっていた。それから軽油ドラムを10本運ぶ。いずれもみずほ廉行の軽油だ。映画の後気象棟でオーロラワッチ。大陸上に少し出た程度。
10月 1日 今日は日曜。9時に起きてSさん、Kさんと3人で気象棟裏で2時間ほどスキーをした。久しぶりのスキーで面白かった。午後は基地全景の写真をとり、各棟の灯油糧を調べる。遠足に行ったり、だぼはぜを釣りに行った者もいる。夜はすばらしい最後のオーロラが出た。1時半に寝る。
    2日 朝から全員作業で埋まったソリの掘り出しと、燃料をヘリポートより運ぶ作業をする。ドラムも雪に埋まっているのでロープをかけて雪上車でひっぱり出す(51本)。その後4人でごみ捨て。人力でドラムをソリに載せるので、すっかり疲れた。夜は特別映画日。「北海の虎」大変よかった。その後2時までオーロラワッチ。しかし好いのは出なかった。
    3日 6人でトッツキ岬へ燃料ソリを運びにKC三台で行く。トッツキ岬に置いてあるSM502の整備を行う。昼休みに海氷上にアザラシを発見。皆で写真を撮って遊ぶ。7時前に帰る。とても眠い。風呂に入り1時間半寝て、気象棟に行く。2時頃少しましなオーロラが出た。
    4日 朝からみずほ旅行隊の健康診断。5人やって、午後は肝機能検査などを行う。機械やM先生等は、先日ラングホプデの帰途、故障で置いてきた雪上車の修理に行った。
    5日 S木、E老沢さんの健康診断のため6時半に起きる。彼らは今日、S16へ行くためだ。みずほ旅行隊の健康診断はすべて終わった。M理より電報が来た。うれしい。
    6日 8時半13名のスカルブスネス遠足は出かけた。どちらかの医者は、基地にいてほしい、ということで、自分は出られなかった。夕方より天候悪くなり遠足に1泊で行った連中のことが心配になる。
    7日 カラースライドの整理を行う。スカルブスネス調査隊13名は4時半頃帰ってきた。13名も居なくなると基地はガランとなる。昨夜は食堂の床にじゆうたんをしいて、すき焼きになった。本日、全体会議でみずほ旅行隊、正式に決定された。映画は「赤い鈴蘭」3本連続上映。
    8日 8時半頃出発。トッツキ岬に燃料ソリ大型雪上車のSM501、KD606を運ぶ。自分はKC27を運転。トッツキ岬でSMの牽引テストをする予定だったが、天気悪く中止し、すぐに引き返す。1時頃岩島付近で昼食。岩島に登る。帰ってからカラースライドの整理、碁をする。碁はだいぶうまくなった。
    9日 ソリをS16へ上げる旅行は天気悪く中止となった。オラースライドの整理が終わった。結局見られるようなオーロラの写真は10枚位になった。標準レンズで撮っておればかなり多くの写真が残ったのにと残念だ。夜1時人工衛星を掃えるのを見るためK光さんについて観測棟に行き、見せてもらう。この頃よりプリ気味となってきた。
  10日 体育の日で休日日課。午後より居住棟対抗卓球大会。二回出場して1勝1敗だった。夜はアンケート調査の結果、多かった「日本泥棒物語」の映画をやる。福島隊員慰霊祭、ソフトボール大会、バーベキュウを予定していたが、すべて中止した。
  11日 朝から身体検査でてんてこ舞いする。半分以上の人の検査をした。夜映画の後、オーロラの写実のスライド映写を行う。皆それぞれ素晴らしい写真を撮っており感心した。こちらで現像し、色の具合を見てから、また撮ったのが良かったらしく、これまでの隊で一番よいという話だ。
  12日 身体検査三日間の予定を二日間にして、今日終了した。3時から環境棟でRaBAの検査をする。卓球大会のあと、ビリヤード上に卓球台を置いたまま卓球をした。
  13日 ようやくプリも明けトッツキ岬S16へ10人ほど、一泊でソリ編成に行つた。一日RaBAを扱い身体検査を終る。気温−4.8度となりコルゲート通路の霜が皆落ちてしまった。各個室も雨漏りがしてふとんが滞れて困る。いよいよ春だ。雪入れの雪もべた雪で重い。夕陽も美しく見える。もう一晩中地平線は明るいようだ。
  14日 今日は霜がみな落ちてしまうと思ってそのままにしていた、通路の霜の大掃除、福島隊員のケルンの掃除を皆で行う。S16へ行った人は、5時半頃帰って来た。6時半よりみずほ旅行隊壮行会と、10月誕生会。その後映画で12時頃終わる。今日初めてトウゾクカモメがやってきた。春だ。
  15日 7時起床9時から2時間、スキーを4人でやる。その後だぼハゼ釣りを見に行った。O田さんはとてもうまく、1匹釣らせてもらった。1時より福島隊員の慰霊祭。その後九居非常口の雪かき、旅行隊の荷物のソリ積みを手伝う。夜は9居前室でE老沢さんの送別会を行う。
   16日 朝8時半頃みずほ旅行隊が出発した。自分は基地で見送った。S木、K戸、E老はさびしそうに、それ以外の隊長以下サポート隊はうれしそうに出かけた。午前中フイルム1本現像。午後印画紙に40枚ほど焼いたがどれも露出不足で、良いのはなかった。
   17日 灯油、ドラム運びをする予定であったが、風が10mもあるので、延期した。写真は焼き付けたがどうも仕上がりがよくない。原因はよくわからない。卵が殆ど腐らずに残って居るのには驚いた。冷凍でもないのに腐ってないという。
   18日 は灯油ををヘリポートから各居住棟、気象棟へ運びからドラを片づけ、ションドラを海氷上に捨てに行く。午前中で少ない人数だが終わった。午後は行事表の整理。碁は進級して19級になったが、6連敗。
   19日 快晴となる4時半頃、旅行隊はみずほに到着したらしい。行事表もようやく作成し終わる。
   20日 朝から10居の出入り口のドアーをM橋さん他数名で取り換えた。午後は送信棟で海氷上に埋まったソリ2台の引き出しをする。
   21日 全員作業の計画をT内さんと二人で作る。午後色んな書類を整理。]線撮影の準備のため夕方液を作る。
   22日 調理のA谷さんが一人のため休ませるというので、朝9時からT内、Y岸、W遵の三人でそばを、0田さんは五目ずしを作った。午後は4時間スキーをした。O田さんが写真を撮りに来たり、Y岸さんが音を入れたりした。旅行隊が一日早く、明日帰って来            ると言うので、予定が狂って忙しい。
   23日 朝からブリとなり旅行隊は今日は帰れなくなった。胸部]線撮影をしようと思ったが、電源電圧の部がショートしたため午後Y遵君に見てもらった。
   24日 昼頃プリは止んだ。
   25日 朝やはり風強く旅行隊も苦労しながら進んでいるという。様子を見て10時頃出迎え隊は出発。昼過ぎ出合った。旅行隊は5時半到着。みずほの3人(N山、0保、T原)は長髪でひげを伸ばしていた。
   26日 午後旅行隊の荷物の片づけと内陸棟の整理を行う。これで内陸棟で卓球が出来るようになった。
   27日 昨夜は午後1時までバーで飲んでいて、今日は当直のため6時半に起きねむい。午前中一人で観測様方面へ行く出口の除雪をする。午後は管制塔内の除雪をする。今のうちにやってないと氷ると困る。各居住棟でみずほ旅行隊の歓迎会を行う。1時より観測部会があり、その後O山さん等はオングルカルベンに行った。しかしペンギンは1羽しかいなかったという。
   28日 9時半より設営部会。午後は内陸旅行の写真の焼き付けをやる。夜はみずほ旅行隊歓迎会。その後、パーティとなり騒がしくなったので、M先生、O田さんとビリヤードをする。
   29日 10時半に食事をしてスキーをする。かなり上達し苦手の側もうまくすべれるようになった。皆からもきれいだと言われるようになった。
   30日 午前中にこれまでの血清を持ち帰れるよう、整理した。午後11倉庫前の鋼材の振り出しを行う。1m位積もっており、プルである程度掘ってから全員で掘り出す。夕食後は碁、ビリヤード、卓球。碁は更に上達したが、ビリヤードは下り坂。
   31日 昨日より雪が降っているが、風がなく日本のようにしとしとと降っていてめずらしい。午前中全員作業について大網を決める。夜は碁、卓球、どリヤードと忙しい。ビリヤード今日は調子良し。
11月 1日 午後O山、S藤、K池、T原自分の5人でオングルカルベンへ行く。ペンギンは7羽しかいなかった。他にアザラシが5頭で、内2頭は赤ん坊だった。0山さんは声を録音した。
    2日 S16へKC40等を持っていくため、11名が7時半頃出発した。そして7時過ぎに帰って来た。ペンギンも岩島の辺りで4羽見たらしい。
    4日 大陸へ行くのはこれが最後というので、13人で出かけた。S16までのルート整備をしY岸さん等はカイドウアンテナを保持する。帰り、S16よりトッツキ岬の途中までロープで雪上車でひっぱってもらって雪上スキーを十分楽しんだ。又、トッツキ岬では青氷を滑った。行くときにクレバスに左脚を突っ込み足が濡れたが、S16までに乾かせた。
    6日 8時半出発12人でルンバへ向かう。2時間で着いた。7百羽位のペンギンが2カ所のルッカリ一にいた。ついでハムナに向かい、ハムナ氷河の下まで行き写真を撮る。3時半出発。帰りにラングオブデより1時間程氷上スキーをする。道は非常に悪く揺れっばなしだった。夜全体会議。帰りの荷の話と全員作業の話。
    7日 午後観珊倉庫の整理をするので行った。医療はほとんどなかった。医学が多いがM岡先生にまかせることにした。これから持ってかえる血清の箱を準備した。ペンギンの写真うまく撮れていた。夜、碁調子悪し。しかしどリヤード調子よく、初めて隊長を負かした。
    8日 2回目のルンバハムナ遠足が、朝9人出発した。朝から現像液を作ってカラー現像をした。
    9日 よい天気が続く。午前中は曇りだったが、午後は又晴れた。久しぶりによく勉強ができた。南極大学卒業試験問題を皆に配った。これで南極に関する最低の知識が得られるはずだ。どうも碁は芳しくない。しばらく中止することにした。
   10 午後より英会話などをする。南極大学卒業試験問題は好評だった。明日回答を渡すつもり。
   11日 午前中は英会話や色々な雑用をする。午後三輪車で予備食料の置場を探しにヘリポート辺りに行き、更に海氷を通って送油パイプと新ヘリポートを作る場所の下見に行った。
   12日 12時より居住棟対抗ソフトボール大会を行う。まず13居とやり、辛うじて勝つ。13居と十居では十居、次いで十居と優勝戦をやり勝った。いつも負けてばかりの九居がようやく勝った。皆今日一日を愉快に過ごすことが出来た。
  13日 S16へ行く予定だったが、風が強く延乱夕食時昨日のソフトボール大会の表彰を行う。7時半より新聞社総会。9時より九居の祝勝会を行った。N緒ちやんの誕生日の電報を打つ。本日初めて気温プラスとなった。
   14日 6人でカイドウアンテナへ行く。トッツキ岬のクラックはかなり広く、1m位開いていた。しかも雪が積もってわかりにくい。何とか道板2枚渡して渡れた。ホロカブをS16へ持って行く。トッツキ岬にいたアザラシの親子の写真を撮って帰る。
   15日 午後より水取りに行くことにし、午前中Tちゃんと二人で準備する。みやげ用の氷取りのための段ボール造りをしそれを積む。氷取りは3時頃に終わる。それからT内さん、Tちやんの3人でヘリポートの砂まきをする。どんどん溶けた土が見え始めた。氷取り作業も暑かった。もうすっかり夏だ。
   16日 隊長以下6名位がルンパ、ラングホプデに出発のため、留守隊長となる。夕方ペンギンが3羽基地にやって来た。
    17日 K光さんがヨーロッパ旅行は一緒に行こうというので、そうすることにした。
   18日 午後医療の越冬報告書を書き上げた。後、生活一般を書いてそろそろ現有物品リスト作成しなければならない。
   19日 午前中九発出口の除雪を試みる。氷があったが意外に簡単に取れるので、明日全員で取り除く事にした。午後0山、W逓、U木、S木の5人でオングルカルベンに行く。ペンギンは42羽。7羽位が卵を抱いていた。二個抱いているのも1羽いた。下にトウゾタカモメの母鳥が卵を2個抱いていた。
    20日 午後より九発出入り口のドアの前の除雪、及びドアの交換を5時半までかかって5人位でやる。全員作業で11倉庫の予備食を屋外にデポする。雪はどんどん溶けている。このままだと色んな作業は順調に進みそうだ。夕食後Tちやん、S藤さん、S藤さん4人で蜂の巣山にスキーに行く。スロープは少しゆるいが、雄大で楽しかった。
    21日 午後ペンギンのフイルムを現像。これですべてなのでポストカード用のものを選ぶ。写真展の準備はできた。それがすんだら模擬店の準備をせねばならない。自分はたこ焼き屋をやることになっている。今日より卓球の個人戦。
    22日 朝は10mの風が吹いた。プリが来ると言う話だったが、たいしたことはなく午後晴れた。
    23日 午前中生活一般の越冬報告を書く。午後写真展の写真を張り出す。夜は卓球大会。T内さんに2回戦で敗れる。しかし九居は皆予想通り戦っており、優勝できそうだ。碁は隊長に負け、0山さんに勝つ。大分碁の恰好が判ってきた。
    24日 風は4日間連続10m位吹いている。午前中に生活一般の越冬報告を書く。午後現有物品リスト調べを少しずつ始める事にした。数量が多いので大変だ。夕食後卓球大会の準優勝、優勝戦が行われた。T十嵐さん優勝の予想に反してS木さんが勝った。
    25日 朝から15m位の風が吹いてブリ気味。午前中越冬報告を書く。3時頃に生活一般を書き終える。3時半より模擬店の用意。Tちゃんとたこ焼き屋をやる。評判は良かった。シャンパンで出港1周年を祝う。途中で誕生会と卓球大会の表彰式を行う。夜ポストカードを全部焼き付けた。出港1周年の記念撮影はブリのため、延期した。
    26日 10時頃昨夜の後片付けを行う。午後は碁をやったり、卓球をやったり、ヘリポート辺りの融雪の具合を見に行ったり、洗濯したりして過ごす。夜は卓球大会祝勝会を九居前室で行う。
    2ア日 9時から全員作業。基地全体の砂撒をする。4時頃やっと終了した。今日は気温高く11月としては歴代最高気温らしい。暑くて網シャツ1放でやる。雪もとけて行った。どリヤード調子よく隊長、K光さんいずれも1勝1敗。碁もやや上達。
    28日 昨夜隊長と12時まで飲んでいて今日は眠い。観測部会にK池、S藤、3人でサッカーのラインを引き、5時半よりノラタロ班、モグラ班に分かれてノラタロは2対2で負けた。疲れたがみな面白そうだった。夜ビリヤード。]光さんには勝てるが、A谷さんには勝てない。
    29日 気温は日中は毎日プラスとなり、網シャツと長袖の薄いシャツをきているだけ。一昨日の砂撒きは網シャツだけでやったので、首の周りが日焼けして痛い。午後1時半より地学棟前で出港1周年記念撮影。0山さんはオングルカルベンへ2泊3日ヤ出かけた。ビリヤードは強くなり、K光さんには負けないようになった。
    30日 現像液が余っているので、基地内の写真を撮って現像した。広角で撮ったからうまく撮れた。午後写真展の審査を隊長、T内、十嵐、自分の4人で行う。四つの作品を佳作とした。これまで賓をもらったことがないのは、自分を含めて5〜六人だけとなった。ビリヤード依然調子よし。
12月 1日 午後3時N山、K光、A谷の4人で0山さんを迎えにオングルカルベンに行く。北の瀬戸は瀬水の表面が溶けており、気味が悪い。ペンギンは30羽で、母親は餌を探しに行って減ったらしい。トウガモもまだ卵を抱いていた。ペンギンのひなはまだだ。5時頃帰る。
   2日 午前中基地を三輪車で回り雪の解け具合と砂撒きの場所をみる。午後居住棟毎に場所を決めて先日やり残した個所の砂撒きをする。その後屋外デポの食料整理もったいないが、捨てる物が多かった。どジャード依然調子よく念廟のA谷さんに勝つことが出来た。
   3日 午前中、白黒のペンギンの写真を焼く。午後より隊長以下10名を西オングル島の福島隊員遭難現場へ連れて行く。往復4時間を要した。夜は卓球と碁。碁はなかなかうまくならない。
   4日 現有物品リストの調べを本格的に始める。不備な点が多いので苦労する。ビリヤードますます良くなり隊長Y田さんに勝つ。基地内は雪解け水が流れて水浸しという感じだ。
   5日 午前中は機械の3人とTちゃんとで新ヘリポートの場所の土盛りのレベルをはかる。午後は土盛りを試験的にやってみた。ダンプを半日運転し、疲れた。
   6日 今日はブルドーザの講習。6名がプルを動かすことに決定し、朝から新ヘリポートに行く。ブルドーザーは夏に動かしただけだが、少しやると慣れてきた。昨日はプルで40杯、今日は60杯位運んだと思う。明日より皆で本格的にヘリポート作りを行う。高い所で1m位積まねばならない。雪解けで道もすぐ悪くなるので常に、補修しなければならない。
   7日 転がる太陽を日曜日にとれず、その後撮ろうとしたら、曇りばかりだ。朝5時15分に起き6時より作業。9時よりもっぱらプルの運転をする。午後も食事後出かけ道路整備をする。すっかり疲れた。今日一目で125杯ダンプで運んだ。
   8日 久しぶりに午前中はゆっくりできた。午後よりヘリポート作業。土砂があまりないので苦労している。夕方より雪が少しずつ降ってきた。現有物品リストがまだ来ていないのが気になる。20次隊は明後日フリーマントルに着く筈だ。
   9日 午前中は9時頃よりヘリポート作業手伝う。午後Kチャンと氷山へ、明日のソウメン流しの準備に行く。丁度よい氷山あり。うまく溝を掘れた。夕方は現有物品リストの作成。碁は全く駄目になった。どリヤードは強くなった。隊長にも1勝1敗。
  10日 朝早く7時に目が覚め、起き出して当直の仕事をする。それから三輪車でヘリポートや道路の雪の解け具合を見る。12時より居住棟対抗のソフトボール大会。一試合目は自分がピッチャーをやったが、大量点を取られる。3時半より氷山でそうめん流し。昨日2時間かかってKちゃんと溝を掘り、階段つくりをしたが、皆に喜ばれた。
  11日 6時よりヘリポート作業。ダンプ、プルを運転する。午後も1時すぎより手伝いに出る。赤いダンプのプロペラシャフトが折れたため、青いダンプー台で運転。プルとダンプを能率よく運転し、予定より早く今日終了した。夜丁山、H藤の3人でRTに行き転がる太陽の写真を撮る。
  12日 午後より現有物品リスト作成。朝薪ヘリポートの作業道具や軽油を1時間ほどで片づけた。これでヘリポート作業は終わった。全く疲れた。どリヤード、隊長と一勝1敗。
  13日 昨日午後より曇りとなり今日はうすら寒い。いつも網シャツと薄いシャツ1枚だったが、今日は上着を着た。夕方は明日から2日間の健康診断の準備。夕食後隊長、T内、S藤、S藤、M橋の5人で玄関造りの打ち合わせ。
  14日 朝より健康診断。一日で半分以上の人が来た。ふじはいよいよ明日フリーマントルを出港する。
  18日 午前中現有物品リスト作成。夜昭和基地の看板の「和」の字を一人で彫る。誰も電報が来なくなったと言っている。手紙を書いたのでもう良いと思っている。健康診断最終日。夕方までかかってやっと終わった。まだRaBAによる検査はやっていない。午後より′J、雨がちらついている。
  16日 午後氷山へ氷を取りに行く。3時頃終わり以後また検査を行う。今日で12人分出来た。
  17日 9時頃に起き、今日は一日健康診断の検査をする。ようやく全部できた。夕方は碁、隊長に初めて盤面で勝つ。うれしい。その代り、ビリヤードが調子寒くなった。10m以上の風が吹き天気が悪い。るらしい。
  19日 現有物品リスト作成もおおかた終わった。午後食料庫の整理。余った米を十一倉庫の外にデポした。それからパラボラアンテナの基礎工事を手伝う。夕方までかかつてできた。作業が順調よく進んでいるのでうれしい。今日ダムより放水し、雪入れも必要なくなった。夜は昨日に続いて看板彫りを手伝う。
   20日 6時に眼が覚めた。S藤さんが一人で看板造りをしていたので、朝食まで手伝う。本日より風呂は24時間いつでも入れる。
   21日 全員作業は中休みにした。午前中洗濯。砂が多くなり、汚れがひどくなってきた。ふじは10年に一度位の静かさで、暴風圏もゆれないと言う。夜看板作りを手伝い、電離棟でアルバムの相談をT嵐さんとする。
   22日 朝から全員作業。内陸棟前の土盛り作業とパラボラアンテナの基礎工事をする。自分は前者を指揮し、ブル、ダンプの運転をする。今日中に出来る予定だったが、階段を付けた方がいいと言う意見で、明日もう一度やることにする。
   23日 今日も朝から全員作業。パラボラアンテナ班と土盛り班に分ける。土盛りは午前中に終わり内陸様にベットを入れたり、飯場棟をかたづけたりする。午後は3時まで全員でパラボラアンテナのコンクリート打ちをし、終了した。
   24日 午後2時突然ソ連の飛行機が飛来、6時頃まで手真似、口実似でしやべる。自分は隊長と技術者との間に座る。この技術者は25歳だと言った。13名のソ連隊に睡眠を妨げられた。しかも彼らの一部は安物のバッチでこちらのヌードのカレンダー、ウイスキーなどいいものを欲しがった。10時まで寝る。その後クリスマスパーティの準備をし5時より9時までパーティ。二次会をして11時半に寝る。
   25日 看板を立てる準備をする。隊長が針金で目を付いたので、観測棟に運ばれたが、たいしたことではないようだった。午後一班は看板や国旗を立てる基礎工事をし我々は飯場棟の掃除および送油パイプの除雪をしその後一般を手伝う。国旗のポールもでき、小さいポールは夜には立てることができた。夕食後は明日の作業の準備でドラムの数を調べ段取りを皆と相談した。
   26日 朝、飯場棟の布団を出した。午後はションドラ整理、灯油空ドラ整理。大きな仕事は大体終わった。第一便は早ければ28日に来ると言う。
   27日 午後はヘリポート付近の道路整備をモグラ班が、ノラクロ班は海氷上便所堀をし環境棟辺りの清掃をした。夕食後観測設営合同部会。映画の後、昭和基地の看板を上げた。ようやくできたという感じだ。
   28日 ついにふじは九十数マイルまできた。百マイル以内に入るといつでも第一便が来れるが、今日は天気悪く、来なかった。羽根に着いた霜が氷結して危ないと言う。朝食にもちつき。その後二班に分かれて、基地の屋外掃除。午後は食堂と屋内の掃除をした。まだ、時間があったので道路の水たまりを、なくす小途つくりをする。これで年内の作業はすべて終わった。
   29中は雑用をして午後より広場の名前の看板や方向掲示板を立てる作業をする。夜8時半より九居前室の掃除。その後忘年会。十三居にも招待されて行く。
   30日 相変わらず天気悪く、ふじは昭和基地より61マイル地点で昨日から動いていない。朝食後広場の看板を付け、表示盤のポールを立てる。午後より有志により道路整備。十人ほど集まってくれたので、土盛りをし水路を作った。
   31日 午前中に1休広場の石垣積をやり、首都の方向距離表示板をとりつける。午後はバー及び通路の大掃除。4時頃突然第1便が来て、NHK3名、共同朝日各1名、20次隊1名、Y田隊長、Y崎越冬隊長、T辺艦長以下8名のふじ乗組員が飛来。ふじ乗組員は乾杯後ふじに向かったが、天候悪く昭和基地に泊まることになった。このため、基地はてんや、わんや。



    

     日常性の喪失     安田 佳子

  戦争とは、日常性が喪失されてしまうことで、昨日できたことが後日にも出来る可能性のあることが無くなってしまう、と井上ひさし氏が述べておられます。4年前の東日本震災も、戦争では無かったけれども、震災に見舞われた方々や放射能の目に見えない災害を考えるとき、これも、戦争に匹敵するものと、思われます。

  戦後70年を迎えるにあったって、昭和19年から20年当時の記憶に残っている“日常性の喪失”について書き残したいと思います。

  私の生家は西陣にあり、近所に、現在ある京極とならんで、”堀川京極“とよばれる商店街がありました。その商店街の家々に“強制立ち退き”命令が出て1週間以内に、どこかへ、行け、ということでした。次に戦闘服を着た兵隊さんが空き家になった家の柱に、縄をかけて、家を壊しにかかられました。当時6歳だった私は、その光景をずつと見つめていたのを覚えています。その壊された空き家には、まだ、商品や家具が散らばっていました。この堀川京極は、現在の広い堀川通りなのですが、強制立ち退きは北大路通りから、四条通までだったと思います。敗戦後道路整備がなされ、現在の堀川通は上賀茂の方まで延びました。

  このような、強制立ち退きで、出来たのが、御池通、五條通や下長者町通があります。友人の一人に強制立ち退きに合われた方がおられ、父上は戦争に駆り出され留守、祖母、母、と兄妹3人が路頭に迷ったといわれました。大急ぎで 探し当てた家に引っ越し、とるものもとりあえず住んだんえ、と言われました。お家に遊びに行ったときどうして、玄関がないのだろうと思っていたら、どさくさまぎれに探し当てた家だといわれました。

  私自身も祖父と祖母と3人で“縁故疎開”をいたしました。母は、もう私たちと会えないと覚悟したと話しました。戦火がひどくなって、すぐ近所に爆弾が落ちたからです。

  そして、昭和20年9月まで、京都の家から日常生活のまったく異なる、田舎暮らしを余儀なくされました。食べるものがない、でも空は青くて、飛行機の爆音はなかったですが、家族と別れていることは、とてもつらい事でした。

  現在、日常性が全く失われる状態、“どこかから、ミサイルが飛んできて、原発の原子炉に命中する、が何時起こるかしれない”、にあることを考えるとき、怖いことだと思わずにはいられません。平和の状態から日常性の喪失が二度と起こらないように、日々、しつかりと生きていかなくてはと思うこの頃です。(平成27年3月12日記)



   創氏改名    余 昌英

 殆どの方がご存じない言葉と思います。

 1910年日韓併合が行われました。当時の日本政府が韓国を植民地としました。朝鮮文化を否定し韓国の日本化を推進する政策の一つです。

 朝鮮人、韓国人の氏名は殆ど一文字でした。これを日本人風に二文字の名前を使ってよろしいということです。これは当時の朝鮮人、韓国人にとっても日常生活に都合がよかったようで多くの人々が通名で暮らすようになりました。

 私も高校までは通名で暮らしていました。高校までの友人と大学以後の友人たちには戸惑いを与えていたのではなかったのではないかと、今になっておもっています。

 アイデンティティを意識する人が増えてきて、本名を名乗る人が増えてきました。

 いまでも通名で暮らしている多くの在日韓国人、朝鮮人も通名暮らしがあたりまえになってしまい本名に戻すのは困難なようです。