3月22日の39会は欠席致します。 当日は皆様楽しいひと時を お過ごしになられますよう、 ご同窓の皆様にもよろしくお伝え下さい。 幹事の方々のご尽力に 心より感謝いたし、 取り急ぎ、同窓会欠席のご連絡を申しあげます。 平成27年2月4日 姫路市飾磨区今在家967 井家 久雄 |
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写真は御嶽です。まだしぶとく年契約で勤めている病院5階の自室から1月に撮りました。北東方向に直線距離90km弱です。きれいに見えるのは1週間のうち1日か2日ぐらいでしょうか、昨年9月に噴火したときは土曜日で休んでいて見ることができませんでした。今私が住んでいる各務原は9万年前に始まった御嶽の噴火で麓に降り積もった軽石が土砂とともに木曽川に運ばれてきて堆積した台地からできているそうです。前回の39 会文集には濃尾平野全体が名古屋や岐阜を乗せたまま西に傾きつつあり、この西端の養老山地の東麓から北へ敦賀湾にかけて多くの活断層があることを他人の話として紹介しました。活断層なんて今どき珍しくもなんともありませんがこの写真の御嶽手前の山麓、下呂萩原から南東へ70km、藤村の夜明け前に舞台とされた馬籠付近にかけて阿寺(あでら)断層があります。この断層は1965年に調査され日本で最初に活断層の動きが明らかにされたところだそうです。それによると200万年のあいだに横に10km、縦に800mずれ、この活動は現在に至るまで続いており2300年前以後のつい最近(?)にも大きなずれがあったそうです。天正地震(1586年1月18日、天正13年11月29日)の震源はここか養老断層であったと推定されています。飛騨内ヶ島氏の帰雲(かえりぐも)城は山とともに崩れて一族は滅亡し、若狭湾でも三河湾でも津波が生じ、三十三間堂では仏像600体が倒れ、余震は12日間続いたと記録されているそうです。こうした記録が残されていても、私たちはこの大地で少しづつ起こっている恐るべき変化を実感することはできません。ましてやこの宇宙が出現した137億年以前の状態は想像することもできません。真空にエネルギーがあって高い相から低い相に転換されて素粒子が生まれたなんて言われても理解できません。現在の宇宙の果てやその外もどうなっているのでしょうか。ミクロの世界も不思議です。素粒子とはひも状の震動だとか。この身体も衣服も靴も実体のないブルブル状態からできあがっているというのでしょうか。分子生物学もこのレベルまで進むのでしょうか。 医療も確かに変わりました。でも進歩というのはもうやめましょう。STAP細胞じゃないけど若返りの手段も手に入りそうなご時勢です。人の苦しみを和らげんとする良き心のきっかけがいつの間にか医者は患者の痛みを取るのが使命で病院で痛みを取ってもらうのは当然の権利だみたいな勘違いが横行してます。おかげさまでちょっと我慢しとれば軽快するであろう腰痛や関節痛の人々が整形外科を潤してます。しかし診療室で加齢を受容していただくのは易しいことではありません。今は身をもってその手本を示していける立場にいます。自信はないけど、、、、 人はいつかは死ぬとわかってはいながらも楽しみの登山で噴火の犠牲になるとは辛いことです。恐ろしい殺人事件が報道されます。倫理的、道徳的とは宗教、神の教えのことであるというユダヤ教哲学者の本を読んでます。 |
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琵琶湖眺望 |
見ること 見られること 小川 豊
「目は2つの機能を持っている。視力と魅力である。」と拙著「眼瞼眼窩の再建」の緒言に書いた。見るという不可欠で大切な機能と、目の持つとてつもない美的機能は生活上到底省略抹消することはできない。歩くときも電車に乗るときも見えることが前提だし、きれいな景色やすばらしい絵画を愛でることができるのも目である。目は物や人を見つめる道具であるが,同時に他人から見つめられる焦点でもある。マスクを付けると多くの女性が美人に見えるのは目の魅力が強調されるからと思われる。だから寒い時期には街に美人が増加する。同一人物に目を出してマスクをしてもらったものと眼帯をして口元だけ見えるようにしたものとを写真に撮り比較したことがある。明らかに前者が魅力的な顔貌になる。それは明らかに目の美的機能と口の美的機能との差異である。そして目にそのような魅力を感じさせるもう一つの理由は相手の目がこちらの目を見るときのコミュニケーションの力だろう。目の表現力は口の表現力を遥かに超えるのである。
関西医大の形成外科に赴任して間もないとき、高熱で融解した亜鉛を顔面に浴びて両眼失明と共に眼球摘出を余儀なくされた62歳の男性患者さんに遭遇した。目の周囲が瘢痕化し睫毛も脱落し埴輪のような外観を呈してきたとき患者さんが義眼装着ができるようにしてほしいと強く希望した。それまで私は多くの義眼床再建の手術を手がけてきたが先天性の小眼球症で眼窩の発育を目的とした義眼床再建以外はすべて片側のみの義眼床再建であった。もう片方の視力が正常でなければ義眼を装着しても正常な日常が送れないから義眼装着で見栄えを良くする意味が失せるからである。視力のない人は第3者にそれと分かった方がいろいろサポートされ易くいいのではないかと愚考したが患者さんの意思は強く数次の手術を経ていい出来映えの義眼床ができた。その患者さんは自分では手術結果を確認できなかったが奥様が「きれいな目ができましたよ。」と言われるのをうれしそうに聞きながら、奥様に手を引かれたどたどしい足取りで歩かれていた。
見るということの重要さはともかく、見られることの重みも一通りではないのだと思う。
ちょっと趣旨は違うかもしれないがこんな話をある新聞のコラムで見た。やはりちょっと昔のこと、ある商屋の主人が目の不自由な方と話が弾みひと時がすぎていった。やがてその方がお帰りになろうとして主人が気がつくとあたりはすっかり暗くなっている。そこで主人は奥にいる番頭に「お客様がお帰りになるから提灯を用意するように。」と命じた。番頭はそれを聞くと怪訝そうな顔をして「旦那様、お客様はお目がご不自由のようでございますのにどうしてそのようなことを?」と問い返した。「そうじゃな。お客様は見えんかも知れんが向こうから来る者がお客さまにぶつかると困るじゃろう。」
見られるということはその人のアイデンティティに関することではないか。自己の存在感、存在価値、そして附帯事項として きれいとか賢明だとか走りが速いとか絵描きがうまいとかいろいろが付随して来るのではないか。そんなことを考えながらこの1月琵琶湖ホールで辻井伸行のラフマニノフピアノ協奏曲3番を聴いた。曲が終わり万雷の拍手の中で
見えるということの意味を完全に見失ってしまった。見えない人間がそのホールのすべての人に見られて立っている。 写真説明 |
大津市眺望 |
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山側眺望 |
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クリニック中庭 |
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その後の暮らし 三年前永年頑張った開業医生活に休止符を打ち解放感に浸り、さてこれから以前に訪れた世界各国えの再訪を期していた矢先、恩師からのたっての要請を受け、断りきれず傘寿を迎えた今も介護施設長として週に三日百人近い認知症・高齢者の対応に追われています。様々なメデイアの報告・文献を通じ介護・認知症について学び赴任した積りがいざ現場に入り、縦・横・前と認知症高齢者と接する時余りにも想像を超えた大変な仕事に面食らっている次第です。 “医療技術の進展により平均寿命はまだ延びる余地あり” 高齢者の生活の場の一つとしての介護施設で生活する老人の多くは医療ニーズを持ちさらに終の住処にと願う人も居り、生活・医療・看取りといったニーズに如何に適切な対応をすべきか喫緊の課題を抱え頭を痛める四苦八苦の日々です。 他方ロータリークラブでは、発達障害講演会を十数年・リレーフォーライフをも併せて主催後援したりと頑張っています。現在の処多忙で中々長期の休暇も取れぬ有様ですが、時々下手なゴルフや月一回兵庫芸術文化センターで催されるクラシックコンサートに毎回出かけ何とか元気で老人生活を送っています。 傘寿に乾杯 片岡三朗 |
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厳しい寒さが続いております。 いつもお世話になりありがとうございます。 主人は◯◯◯が進み、直前の事を忘れる状態で、短文も書けず、 電車に乗れず、道も一回曲がると不安になります。 3月22日は欠席させて頂きます。 今後も無理と思われます。 長い間ありがとうございました。 時節柄呉々も、お身体御自愛下さいませ かしこ 茨木市寺田町9-18 栗原 二郎内 |
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写真1 |
小西淳二 昨年の39会50周年記念誌に、私がボランテイアとして引き受けている公益財団法人「体質研究会」について書かせていただきましたところ、多くの級友からその活動に対するサポートをいただき深く感謝しています。そこで、今回は具体的な事業の一つ、「自然放射線が高い地域(High Background Radiation Area: 以下HBRA)の住民を対象とするコホート研究」をご紹介させていただきます。 ご承知のように福島第一原発の事故から4年になりましたが、被災地住民の不安の解消にはなお程遠い現状です。不安を高める大きな要因の一つには、被災地におけるような低線量で、かつ低線量率の放射線が人体に与える影響については、原子力施設の作業従事者やチェルノブイリ事故での被曝者の健康調査など、限られたデータしかなく、今なおエビデンスが不十分なことが挙げられます。 「体質研究会」では、皆さんご存知の故菅原努先生(元医学部長、放射能基礎医学)が、理事長時代に先見の明をもって、1992年から上記の研究を始められ、現在も続けられています。実は、このデータが現在,大変貴重な成果として世界的に注目を集めているのです。当初の中国広東省陽江地域(平均2.10mSv/年)での疫学調査で癌の増加は認められず(Tao et al. Health Phys. 102: 173-81, 2012)、続いて1998年からはインドのケララ州カルナガッパリKarunagappallyでの調査が行われてきました。平均3.8 mSv/年, 高い所では20mSv以上の被曝のあるこの地域で、30-84歳の69,958人を平均10.5年フォローした結果でも、癌および白血病の増加は認められませんでした。(Nair et al. Health Phys. 96:55- 66,2009)。(因みに日本の自然放射線量は平均年間1.5mSvです。)現在も引き続いて,癌以外の心血管系疾患、白内障、甲状腺結節などの調査が行われています。この研究は2011年の第58回国連科学委員会(UNSCEAR)において低線量・低線量率放射線の健康影響に関する貴重な情報であるということで、検討課題に採択され,現在、報告書の作成が行われているところです。 そんな訳で、このケララの地を一度訪ねてみたいと思っていたのですが、昨年9月に、同じケララ州のコーチKochiにて私の関係しているアジア・オセアニア甲状腺学会が開かれることになり、ようやくHBRAを訪ねる機会を得ました。図1に示しますように、ケララ州はインドのほぼ南端西側に位置し、海に面して南北に細長い州です。海岸沿いにHEBRA地域(モナザイト地帯)があります。図2にケララ州の詳細地図を示します。 インド行きは初めてでしたので、ビザの取り方から、旅行プランまで、財団の関係者にアドバイスをもらって準備を進め、家内同伴で9月21日(日)に出発しました。関空に着いて外貨を用意しようと銀行の窓口に行きましたが、なんとインドのルピーはどこも扱っていないとの返事。最近ではインドネシアやマレーシアの通貨も入手出来るというのに大国インドがないとは、、、まだまだ,交流が少ないのだなと感じました。 シンガポール航空10:55発で、シンガポール経由、HBRAに近いトリバンドラムTrivandrumに向かう。シンガポールで3時間半の待ち時間があり、夜の9時半(日本との時差が3時間30分あるので、日本時間で午前1時に)にトリバンドラムに着きました。東南アジアの空港でよく見られる、ごった返す感じはなくて、小ぢんまりした静かな空港でした。現地の「地域がんセンター」から、放射線物理部門の教授で、前記の2009年の論文の第一著者でもあるDr. Raghu R.K. Nair (以下Raghueさん)がセンターのシボレーの新車ミニバンで迎えに来てくれました。「長引いていた雨期が1週間前に終わったので、これからは天気もいいですよ」などと聞いているうちに、30分ばかりで最初の宿South Park Hotelに到着しました。立派なホテルで、浴槽の水が茶褐色を帯びている他は特に問題なし。 トリバンドラムの地名は英領時代のもので、空港でも旧名テイルヴァナンダプラムThiruvananthapuram「聖なるヘビの都」に戻りつつあり、地図でも後者が用いられているものが多い。この町はケララ州(Keralaは「ヤシの木の国」の意)の州都で、人口は75万人(都市圏人口169万人)。1834年にインドで最初の英語学校が開校されたのを皮切りに教育/文化の中心地となり、識字率はほぼ100%,言葉はマラヤーラ語を使う。学校によって英語の所と現地語の所があるよし。州の面積は日本の十分の一で、人口は3,480万人と人口密度では約3倍です。政治的には1957年に世界初の普通選挙を通じた共産党州政権が発足して以来、共産党が与党になることが多いというユニークな地域だと知りました。平均寿命がインドでは最も長く、インドで最も公衆衛生が進んでいるという。住民は我々と変わらない背丈で、余り黒くないし、親しみやすい。気候は熱帯性気候で、気温は24−32℃.でほぼ一定。 暑さを気にしていたのですが,湿度が低い為か、急ぐと少し汗ばむ程度で快適でした。2—4月頃は湿度が高くて暑く、10−11月はドライでよいとのことで、良い時期に来たようでした。 翌朝は5時にコーランの声や鐘の音が聞こえ、窓からはモスクや教会のタワーが見える。ホテルはまさに市の中心部にあり、写真1の左側がケララ大学のキャンパスで、正面の洋風建築はタウンホール、遠くに見える高層の建物は博物館でした。政庁も近い。朝食からカレーを頂き、10時半には Raghueさんが迎えにきてくれ、がんセンターへ向かう。大学地区の歯学部、医学部病院などと並んで、大きなセンターがあった。カンファレンス室に案内されて、センター長 のProf. Sebastianと会い、センターの年報とがん登録のデータ集を頂く。その後、現地調査の各担当者からスライドを使って進捗状況の報告を受け、簡潔な討議を行いました。歓談に入って、日本からの土産を進呈し,Dr. Sebastianより記念品として、特産の金属製の鏡を頂く(写真2)。幸いにも、全インドで6カ所しかない「がんセンター」の一つがたまたまこの地にあったことが、当地での疫学調査を信頼性の高いものにしたことが実感されました。 センター内の研究室を少し見せてもらった後、ホテルに帰って昼食。午後はRaghueさんと統計担当の疫学者Dr.Jayalekshmi(以下Jayaさん)の案内で観光に出かける。先ず南へ16 Kmほどのインドで最も美しいと云われるKovalam Beachへ向かった。道路は左側通行で日本と同じ。片側1車線の沿道はヤシを始めとする木々が両側から覆い被さるように茂り、道の両側には店が連なって、多くの人々が歩いている。足は皆ゴム草履で、靴を履いている人は見ない。家々は緑の中にあり、森の中に住んでいるよう。工業化の前の自然の豊かさが見られ,高速道路が出来る前の日本のような懐かしい情景でした。住民の“幸福度”はかなり高いと思われます。到着した海岸はアラビア海を望む景勝の地で、いっぱいインド人が見物に来ていました(写真3)。波が高く、泳ぐ人はいません。 写真4は帰り道で見かけた果物屋さんですが、熱帯だけに果物は種類も豊富です。夕食は大きなホテルの食堂へ招待されました。センター長は不在でしたが、多くのスタッフとの会食で賑わいました。カレーの基本は野菜カレーで、特に辛いものさえ避けていれば、チキンなどが加わってもアッサリしていて、お腹の調子は良い。 翌23日の午前中はJayaさんの案内で、ヒンズー教の大きな寺院へ。男性は上半身裸で,下半身も腰巻一枚となって参拝する。若い高校生の男女のグループも居て、信仰心の篤いことが伺われる。残念ながら異教徒は参れないとのことで、門前町で象の置物を買い、隣接の博物館を訪ねる。お寺や博物館は靴を脱いで裸足で入る。ここにはヒンズーの神々の彫像が集められていました。 街中では車が増えているとはいえ、タクシーが全てTata製の3輪Rikishaという程度なので、排気ガスは少なく,滞在中は、咳が出ないし、皮膚のアレルギーも収まったようでした。共産党政権の成果か、観光地でも乞食はいないし、スリの心配もないのは嬉しい。 午後は、ホテルから見えていた博物館(Ajanta の壁画のコピーなどを展示)や、動物園などのある緑豊かな公園の中にある美術館(インドの画家、ラヴィ・ヴァルマの作品を中心に、中国,日本の版画などを展示)を訪ねた。その後,家内の希望で,サリーのブラウスを購入するため、大きな専門店へ案内してもらった。 買い物のあとは、山側に案内するとのことで、北東の方角を目指す。途中のスナックで昼食をとり、米粉でできたApon, 小麦粉のChapati と呼ぶクレープにカレーを乗せて食べる。右手指だけを使って手で食べる作法にも少し慣れてきました。 道の両側に樹が茂っているので遠くはよく見えないのですが、近くの丘は頂上まで、ゴムの樹が植林されています。アッサムほど有名ではないがお茶の栽培も盛んのよし。町を少し出ると信号機は全く無くなり、レースさながらにホーンを鳴らして、中央線を越えての追い越しを繰り返すスリル満点の運転で走る。道路沿いには店が連なっているので、道路を広げられず、高速道路化が進まないとのこと。女性はどこまで田舎に行っても皆サリーを着ている。制服姿の小・中学生やスクールバスが目につき、教育レベルはインドで最も高いというのが頷けました。 途中に巨大な露岩のある山があり、ロープウェイの工事が進んでいました。さらに川沿いに登り、Kalladaダムという水力発電と灌漑用を兼ねたダムに着いた。ケララは水力発電が主で原発はない。隣の州の原発から電気を買っているとのこと。この辺りには尾の長い猿が多くみられました。山中でもHotelと看板を出したカフェ兼食堂があり,トイレを借りることができる。 帰途、山中のKottarakkaraという町に出ると、香辛料の専門店があり、樽に入った伝統的な香辛料を量り売りしていた。たった500ルピー(約1,000円)で100gずつ十種類ものスパイスを入手できたのは大収穫でした。 山から下りてトリバンドラムの北、約70KmのコラムKollam(旧名Quillon)というところにあるQuillon Beach Hotelで2泊することになりました。コラムはスパイスを中心とする東西交易の中心地として名を馳せた土地で、ここでも風呂の水は薄く茶色がかっていましたが、ホテルは広い海岸に面して眺望が素晴らしい。しかし、もっと印象的だったのは海岸と反対側の街の風景で、ここでも、まさに森の中の街という景観なのです(写真5)。 三日目の朝、HBRA調査の拠点、国道沿いにあるカルナガッパリのオフィスを10時過ぎに訪ねる。20人近いスタッフが全員総出でにこやかに出迎えてくれた。職員は裸足にサンダル履きで、オフィスには履物を脱いで上がる。歓迎の花束が用意され,記念品に灯明油壺まで頂く。家内は持参したお干菓子と抹茶を全員に少しずつ振る舞った。2階建てのオフィス内を見せてもらった後、お茶 Chaiの時間には、朝から準備してくれたバナナのてんぷらが出され、温かくておいしかった。女性スタッフは色とりどりのサリーで、笑みを浮かべ温厚で柔和な感じ。全員で写真を撮って(写真6)から,海岸沿いのHBRAへ行くのかと思いきや、予約してあるHouse-boatの出港地点へ車で急ぐことになった。 House-boat tourはインドのビザ申請センターのホームページに出ているほどの,インドを代表する観光船ツアーである.北のアレッピーAlleppyという町へ向かい,橋のたもとで待っていた船はすぐに出た。ベッド・ルームが2室あるので,2家族まで泊まれる、かまぼこ型の丸屋根の大型屋形船である(写真7)。エンジンの音も低く、静かに進む船を我々4人での貸し切りという贅沢さ。当初の案では船での宿泊コースを提案してくれたが、わが国でのデング熱騒ぎの頃でもあり、蚊の来襲を恐れて船の上で泊まるのは遠慮させてもらった。ところが、蚊取り線香をいっぱい用意してきたのに、当地では蚊が全くいないのには驚き! 蠅さえ全行程で一匹しか見なかった。季節によって違うのだろうとは思うが、不思議なことでした。 インドの水郷地帯としてはカシミールが有名だったが,騒乱の為,現在ではケララへ来る人が多くなったそうで、沢山の船がゆったりと行き交う。途中で船を川岸の店につけて、カットしたココナッツの実を買い、ストローで果汁を吸う。ココナッツミルクは薄甘くおいしい。ミルクの外を取りまく白い果皮もスイカの白い部分の様でおいしい。岸辺では主婦が昔ながらの「たたき洗濯」をしていました。 元々海岸から内陸に入ったBack waterと呼ばれる水郷地帯で、向こう岸が見えないくらい幅広い所もある。かって、水郷地帯の中に堤防を作り両側から水を川に汲み出して水田を作り、稲作を始めたよしで、我が国の天井川のように川の水面が水田より高くなっている(写真8)。Raghuさんの祖父の頃にはこのような作業で水田作りを行っていたという。 基本的にアルコール類は出ない国だが,Raghuさんがビールを持ち込んでくれたので、急に拡がった見渡す限りの水面をながめながら、のんびりした船旅を楽しむ(写真9)。船上でランチが出る。勿論カレーである。 その後、バナナの天ぷらでお茶。 インドでは昨年Modi首相が当選し、政治的に安定化したことで、経済面での大きな発展が期待されており、最近、安倍首相もインドを訪れている。教育レベルが高いケララ州は,特に期待されているという。今なお農業,林業、漁業など一次産業の土地柄にも拘らず、人々のゆったりした生活ぶりが不思議に感じられたが、実は,古くからの東西交易の要としての伝統から、アラブ諸国へ出稼ぎに出る人が多く,その送金により地域経済がサポートされているのです。水郷地帯の稲田では二毛作をしているが、それでも稲作では儲からないので、段々と耕作しなくなって、出稼ぎに行くようになっているとか。後日、Kochiでの甲状腺学会でドバイの友人に聞いたところでは、LuLuというスーパー経営で成功したインド人がケララの人達をインドで教育してドバイに受け入れ、給料の3分の1を本人に渡し、残りは郷里の家族に送るシステムを作って成功している由で、彼の病院でも技術職員の3分の2はケララの人だと話していました。 夕方5時に帰岸し、コラムの同じホテルまで南下して帰る。 四日目は、いよいよコラムでの最後の日, 朝食後、海岸の散歩に行くと、ここの海岸にも後に述べる黒い砂が混じっており、放射線量は少し高い(1mの高さで0.26μSv/h)。(出発前の京都では0.06、成層圏飛行中で0.14-0.17でした。)11時頃にオフィスに到着し、Chaiのもてなしを受ける。Jayaさんは近所の生まれで,スタッフに地元の人たちを雇用することで戸別訪問などの調査活動が円滑に行えたと話していました。 ここで、家内は女性軍の助けを得てサリーの着付けをしてもらう。その間、私とJayaさん,その他三人で、いよいよカルナガッパリの海岸を見に行きました。スマトラ地震の津波による被害があったため、浜辺には石積みの護岸が出来ていました。浜の砂には黒い砂(放射性のモナザイト)が混じっています。インド最南端のコモリン岬寄りの川からのモナザイトが海へ流れ込み,それがこの地域の海岸に打ち寄せられる黒い砂となる。モナザイトからトリウム,チタンを採る工場に連なる箇所では原料の砂をとる為に浜が残っていました(写真10)。ここでの計測値は1mの高さで0.7-0.8μSv/h、砂の真上では1.1−1.4に及ぶ。沿岸には壊れた漁師の家も散見され、補助金で再建しているが,かなり人口が減っているという。浜の内側では漁師が集まって砂の上で網の繕いをしている光景も見られました(写真11)。疫学調査では、日本からの放射線計測の専門家が住居の内外の線量を調べ、漁業を主とする住民の被曝量を個々に推定するという大変な作業をしています。 一旦オフィスに帰り,スタッフの皆さんに別れを告げて、海岸沿いにHBRA地域の中を通りコーチへ向かって北上しました。街道沿いの小さな宿で昼食にしましたが、淡水魚つきの、 チキン, 野菜、ヨーグルトなど一式のカレーが4人で 1,350ルピー(2,700円)でした(写真12)。 北部の大都会コーチ(ケララ州最大の町、人口60万(都市圏人口212万))に近づくと初めて中央分離帯が出てきて、片側2車線になり、ようやく追い越しレースの緊張が解けました。午後4時半に学会場のLe Meridien Kochiに到着。すっかり「地域がんセンター」のお二人にお世話になった4日間でした。 コーチでの学会印象記は又の機会として、ここまでのHBRAとその周辺探訪の4日間を振り返ってみると、まさに驚きの連続でした。予想を裏切る快適な気候で、緑に溢れ、人々はゆったりとしており、インドに対する既成概念を覆すに足る良い所でした。なんの予備知識もなく、HBRAということだけで訪れたケララでしたが、地域の教育レベルが高く,がんセンターがあったことで、日本からの指導者のもと、しっかりしたデータが得られるだけの稀有な環境に恵まれていたことがわかりました。政治体制の違いなど世界でも稀なユニークな地域であることも段々に解ってきて、帰国後もケララのことをもっと知りたいと思うようになりました。知人からケララのことなら、加藤周一の岩波新書「ウズべック・クロアチア・ケララ紀行—社会主義の三つの顔—」があると紹介されて早速読んでみました。共産党政権の誕生した翌年、1958年に訪問した著者は、「自然の中に人が住んでいる」情景に印象づけられていますが、56年を経ても変わらないのは何故なのでしょうか? 当時、著者が予想した近代化、工業化は進んでいません。おかげで自然が守られています。インフラとしての教育はあっても、共産党政権なので、外資が入ってこなかったためなのでしょうか?出稼ぎという故郷を守る手立てがあったからなのでしょうか?今もゆったりとした時間が流れていました。 |
写真2 |
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新装なった平等院 にて |
篠山重威 昨年は「喜寿」という特別の誕生日を迎えた。「喜」の字を草書体で書くと「十七」の上に「七」がついたような文字で「七十七」に見えることから、77歳を「喜寿」と呼ぶようになったそうである。還暦や古希が中国の古典に基づき海を越えて伝えられた風習であるのに対し喜寿は室町時代に日本独自の文化から生まれたわが国固有の祝いだという。小生にとっては祝いというより歳月が流れたことを象徴する感傷的な一日であった。小生は平成25年3月の終わりに同志社大学を退職し、これまで関わってきたアカデミック・ソサエティーと完全に縁が切れることになった。富山、京大、浜松、同志社と常に持ち歩いてきた数々の書籍を今回は運び込む場所が無く已む無く廃棄処分にした。感動・失望・喜び・憤慨などこれまで自分の人生を彩ってくれた多くの思い出が詰まった本を捨てるのにはやはり心が痛んだ。 小生は45歳の時、新設の富山医科薬科大学に応募して46歳で着任した。初めて家族と離れて雪深い富山に単身赴任し、ここで大伴家持という人物に傾倒した。彼は聖武天皇の命を受け、30代中半に越中守を命じられ奈良の都から富山に赴任してきた。家持は郷愁に明け暮れて過ごしたに違いないがそれを口にしたことはなかった。心に宿す痛恨を払拭するには歌による以外にはないという信念の基に新しい歌境を開いたのである。歌は人間の悲哀を託す唯一の手段であるという自覚に立って数々の名作を残した。家持にとって越中時代は夢と希望と自信の漂う最も幸福な時代であったと言われている。越中の絶唱は必然の豊饒と昇華とを与えられて後に万葉集の編纂に繋がっていった。小生も北陸の厳しい風土に押しつぶされることなく、家持のように新しい学問の道を開きたいと思ったものである。 小生は過去13年にわたってアメリカ心臓学会の機関誌Circulationのアジア地区代表のEditorを務めている。それも2017年7月に終わる。昨年アメリカ心臓学会に参加したが、帰途のフライトがサンフランシスコ空港を離陸した時にはもうこの国に来ることは無いであろうと万感胸に迫るものがあった。 最近「終活」という言葉を知った。これは2010年の新語・流行語大賞にもノミネートされた言葉で、「人生の終焉のための活動」、人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを意味する言葉だそうである。小生も、入院・介護に関する計画、遺品の整理、遺言など遺産相続を円滑に進めるための計画をたてねばならぬと思いはじめ、宇治川河畔に墓を購入した。川端康成の小説「故人の園」の中に「死んだ時に人を悲しませないのが、人間最高の美徳さ」という台詞がある。小生もそのような終焉を迎えたいと思っている。 |
私の読書感想文 大阪府立大学の農芸化学に入学早々、英語とドイツ語で専門書を読めるようにならないと4年になって禄なところに就職できないと、主任教授に脅かされたので、自分なりにつとめた。その結果幸運にも、京大農学部の大学院入試に合格し、主任教授の息子さんが医学部編入試験を受けられることを知り、自分も腕試しに受けたところ、運よく合格した次第です。しかし本学には平沢興先生初め偉大な人々が多数おられ、足元にも及ばないことを知りました。本来なら小生などが何か意見を述べる事などおこがましいと思いますが、今感じていることを書いて見ることにしました。 第一は MAO The Unknown Story by Jung Chang & Jon Halliday この本は今後中国と付き合って行くのに必要不可欠とおもいます。 第二の本は Secrets Of The Federal Reserve, The London connection byEustace Mullins です。USAで実際は何によって支配されているのかが書かれています。A.Lincoln から John F. Kennedyまで本当は誰によって暗殺されたのか、西洋の知識人が知り尽くしていて、けっして公には、口にしないことがたくさん有ります。特に、私たち日本人はこのことを深く自覚すべきだと思います。 島田浩一郎 |
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昨日は節分、今日は立春です。 一昨日 息子のところへ 三九会幹事 栗原 眞純様からのFAXが届きました。 どうして そうなったのか理解できなくて驚いています。 三年前に息子に代を譲りました。その際に、電話、FAX、e-mailなど一切を処分してしまい、〒672-8071姫路市飾磨区構九一八番地の住所を通じての文書(葉書か手紙)のやりとりのみ窓口を開いている状態です。 昨年十月二十八日に後期高齢者となった年金生活者にはこれで充分に用が済みます。 体調はとくに変わりありませんが、独りで他出することはできるだけ避けるように心掛けています。 三九会のことで色々お世話いただいておりますが、今年(二月二十二日)予定の三九会には出席できないことになりました。申し訳けないことですが、お許し下さい。そのことのみおしらせいたします。 清水澄太拝 |
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ヤクシソウ |
昨年の50周年誌には、原稿を送ったつもりが上手く届いていませんでしたので、その稿をもとに、少し加筆して近況報告とします。 私は、卒業時には一般小児科医を志していましたが、小児科に入局して間もない頃、重症心身障害児施設「びわこ学園」に1年間赴任したことから、後に脳性麻痺を生涯の仕事とすることになっていきました。 一般小児科医として大津日赤で働いていた35歳の時、乳癌を発症し、手術、化学療法、放射線療法、ホルモン療法を受け、闘病しながら勤務医を続けました。 その頃、脳性麻痺が早期治療により軽症化が可能かもしれないとの考えから、今まで整形外科の領域だった脳性麻痺に小児神経科医も取り組むようになりました。びわこ学園で重障児を見て以来ずっと脳性麻痺のことが心にありましたので、術後5年を経過したのを機に聖ヨゼフ整肢園に移り脳性麻痺の早期診断・療育に取り組むことにしました。その後京大小児科学教室の事情もあり、滋賀県立小児整形外科センター(現在の小児保健医療センター)に移り滋賀県の脳性麻痺の子どもたちを診ていくことになりました。その後生涯の仕事としては滋賀県の脳性麻痺の疫学についてまとめていくことになります。 闘病後いろいろと思わぬ問題が生じ、心身とも疲れ切っていた時期、不思議な縁で家の近くの短大で教職に就くことになりました。当時80歳を過ぎておられた初代の学長(彼は敬虔なクリスチャンでした)が、短大の幼児教育学科の小児保健の教授者を探しておられるのに出会い、私も女性の生き方についていろいろ考えていることをお話しましたところ、それを是非短大でやってほしいと言われ、しばらくやってみるのもいいかなと思ったのでした。その転職には誰もが反対しましたが、保育者を目指す人たちに「小児保健」を、そして短大の3学科の一般教養科目として「女性と健康」を、また10数名のゼミ生をも担当することになりました。当時週2日の研修日が得られましたので、センターでの仕事も細々続けることが出来ました。短大には申し訳ないけれどそちらが自分の本来の仕事と思っていたのでした。 短大では、18ー20歳のこれから生きていこうとしている若者から沢山の元気を貰いました。子どもが好きだからという単純な気持で幼児教育学科に入学してきた女子学生が、早期から社会化されていく子育てについて考え、世の中を知って成長していく姿を見ることはうれしいことでした。自分の考えを若い頭脳に問いかけ共に考えていくことにとてもやり甲斐を感じるようになりました。「母性」ということは私にとっても一生のテーマとなっていきました。幼児教育学科長をしていたとき、短大の幼児教育学科が地域の中で果たすべき役割についても考え、短大に乳幼児総合研究所を立ち上げもしました。ほんの暫くと思っていたのに65歳の定年まで20年間短大勤務を続けることになってしまいました。 短大退職後は、古巣へ帰るような気持で、センターのリハビリテーション科で、訓練に通う障害児を診させて頂き、その親御さんたちとお話させていただきながら、長い長いおつきあいを楽しんでいました。赤ちゃんの時から診ていた脳性麻痺の子が学齢期を過ぎて世の中に生きていくその過程をずっと見ていたのですから、生き甲斐を感じられる有難い仕事ではあったのですが、どうしてもじっくり考える時間がほしくなり、68歳で仕事を辞めることにしました。 私達の世代の女性の多くがそうであったように、家庭と仕事の両立に苦労しいつも時間に追われていたことと、若くして病弱となってしまった私は、仕事も十分には出来なかったのですが、どこかで社会的役割は終えたことにして、医学にエネルギーを向けることから開放されたいと思ったのでした。 職を辞して時間に追われなくなってからは、自然の移ろいに敏感になり、今まで見えなかったものが見えてきました。日本の風土の中で生きることによろこびを感じ、無事に過ぎていく一日一日が日を追って愛おしく思われるようになりました。 私達の年代のものは、戦後の民主的な教育を受け、西洋文化に親しんで育ちましたが、古来の日本文化を学ぶ機会が私は少なかったように思います。今になって、日本の文化に強く心が引き寄せられ、日本人が古来考えたり行ったりしてきたことを辿ろうとして深みにはまっております。日本人のものの感じ方、考え方、精神構造に限りなく興味が湧いてまいります。 時間に追われているときにはやりたくても出来なかったことを、今はいろいろやれて人生の秋をしみじみと味わっています。バッハを聴いたり弾いたりしているときは至福のひとときです。こんな晩年を持てることを有難く思うとともに、生涯を仕事に打ち込もうと頑張っている人が周りには(特に障害児医療を共にやってきた人たちには)いますので、私にこんな優雅な生活が許されるのだろうかと思うときもあるのです。仕事を辞めるときには、今後の自分の人生でもし何かやらなければならないことがあるとしたら、障害児を抱えて生きていかれる沢山のお母さん達から学ばせて頂いた貴重な経験をもとに、彼女達の気持を代弁して世の中に何かを発信していくことではないかと思っていたのですが、自分の楽しみを追いかけて夢中で過ごしているうちに数年が経ってしまいました。 39会の方々とは、卒業後も引き続き繋がりを持ち、支えられてきた思いでおりますが、ここ3-4年は、高校時代の同級生(医学だけでなくいろんな分野で生きてきた人たち)との交流をも楽しむようになりました。高校時代の同級生が、60歳より始めていた「歩く会」に、私も71歳より参加するようになり、山の経験豊かな、体力的にも余裕のある人たちの支えと指導を得て、月1回の山歩きを行うようになりました。若いころ病気をして身体が弱くなってしまった私が、山歩き(山登り)という思わぬ楽しみを手にしたのです。自然に分け入る愉しさ、素晴らしい景観に浸る喜びを知ったのです。また、山歩きをしているうちに、地質や地形に興味が湧き、地球の歴史、地球科学を興味深く学ぶようにもなりました。山の自然学にも目覚め、小泉武栄の著書なども読むようになりました。 すっかり山に魅せられてしまった私ですが、昨年狭心症発作が生じ、バイアスピリンやフランドルテープを使用するようになりました。山行きを、今後どの程度続けられるかは神のみの知るところです。ニトロペンを持ってウオーキングに励んではいるのですが・・。これに関しては39会の竹上さんに大変御世話になり感謝しております。 高校時代の同級生とは、「来し方行く末を語り合う」という名目で食事会なども時々していますが、こんな楽しみが後に待っていようとは、高校時代には思いもしませんでした。若いころ学び舎を共にし、大きく変化した同じ時代を共に生きてきた同級生とは心からわかりあえ共感できる気がしております。 一方、地域活動や趣味を通して人生の先輩である異年齢の方々との交流の機会もあり、今後の生き方を学ばせて頂いています。身近にも父や義父・義母の生き終えていくのを見送り、人生とはこんなものだったのだと思うようにもなりました。 長く生きていると色々なことを経験します。自然災害も人為的な事柄も。正に歴史を生きている感じになってきます。東日本大震災では人生観が変った思いもしました。その時80歳を越えたご高齢の方が「長いこと生きていてこんなこと初めてだ」と言われるのを映像で見ましたが、高々100年というひとりの人の一生では経験しないことが、もっと長いスパンで歴史をみればいくらでもあるのだと気づいたときはショックでした。地球の46億年の歴史の中で起こったとされることも現実のこととして感じられるようになりました。何万年何億年前の地殻変動が今に繋がっていること、プレートの移動・火山活動も今のことと実感するようになりました。山登りをしていると、山の上に大昔の海底の地層を見たりもします。昨年噴火のあった御嶽山には丁度2年前に登り、剣が峰山荘に泊まりました。火山灰に埋もれた登山者のひとりが自分であったかもしれない気にもなりました。 一万年ほどの人間の文明の歴史を眺めてみたり、また、日本の歴史を少し詳しく見直していくとき、今までの自分が如何に狭い視野で何も知らずに生きてきてしまったかに驚かざるを得ません。生き急ぐことなく、もっともっと回り道をして生きてきてもよかったのだと今になって思っています。 最近は、道元の世界について読んだり、ブッダの言い遺した言葉の意味を考えたりもしています。若いころ、仏典より聖書を読むことがの方が多かったのは、西洋文学の影響でしょう。最近は仏教について、渡辺照宏や田上太秀の著書を通してすんなり入ってくるようになりました。 我々にとっても、もうこの歳になれば、語る言葉の一言一言は遺言であるのかも知れません。いつ終わりが来てもよいように身辺整理もしなければと思いながら、それについてははかどりません。私には、まだまだ知りたいこと学びたいことがありますし、やっと精神の自由を得たとも思うので、もうしばらくは生きて人生を楽しみたいと思っています。 一方、康弘の方は、ずっとラット相手の研究生活でしたが、心ならず臨床に移るというこもなく好きなことをやり続けられてよかったと思います。退職後何年かはひたすら本を読んでいました。4年前まではスキーにも行っていましたが、3年ほど前から、歩行や言語にやりにくさを生ずるようになり、今は買物以外出かけることは殆どありません。料理をしてくれるようになり、私は助かっていますが、そんなことより、器用で多趣味な人だったのに、もっといろんなことを楽しんでくれればよいのにと思い胸が痛みます。若い頃に病いを得、ずっと助けられて来た私が、今、彼のために何の力にもなれないことを残念に思っています。現在のところ、まだ本人は人に助けられることを受け入れられずにいますので、私に出来ることは、なるべく意に沿うように配慮することと、出来うる限りの優しさをもって見守ることだけです。 今年のクラス会には、私達は他の行事と重なり出席できず残念ですが、ご盛会を祈っております。 |
マムシソウ |
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アシウテンナンショウ |
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ヤブウツギ |
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イワカガミ |
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美山かやぶきの里 |
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ホトケノザ |
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身内 |
【アカシアの花 -- オペラ「カルメン」のアカシア考— 】
我が家の庭にアカシアの樹が生えている。植えてから何年にもならないのにあれよあれよという間に大樹となった。春になると鈴なりに黄色い花をつける。鉢植えのアカシアも植えてある。ミモザ・アカシアである。うちの孫の一人はこの樹を見上げて「おじいちゃんとこの庭には大きなオジギソウの木が生えている」という。むべなるかな。アカシアもオジギソウもネムノキ科に属する。そもそもミモザ・アカシアのミモザとはオジギソウの意である。 私はこれとは別にうちのアカシアを「カルメンの木」と呼んでいる。 私がオペラにはまりこんだきっかけは学生時代,毎年、正月に里帰りをする教養部のさる教授宅の留守番を頼まれた。そこで見た年末年始のTV番組。イタリアオペラ来日公演の集中放映であった。イタリアオペラの来日公演はその後も繰り返され 8次に及んだが私にとって教授宅での正月のオペラ三昧がその後のオペラのめり込みのきっかけとなった。 TV画面を通してではあったが総じて日本オペラの学芸会風趣向とは比べ物にならなかった。 当時のテロップの文字の大きかったこと。それでもデル・モナコの「オテロ」,レナータ・ティバルディの「トスカ」,ジュリエッタ・シミオナートの「カルメン」などなどに酔いしれた。未だにその舞台の一つ一つが眼に焼きついている。 オペラは17世紀の初めイタリアのナポリで始まったという。どの位の演目があるか定かでないが 500を下らないのではないだろうか。でも, 日本で人口に膾炙している演目は「カルメン」,「トスカ」, 「椿姫」, 「蝶々夫人」といったところか。なかでも「カルメン」はそのポピュラー 性において筆頭に挙げられる。客の入りにおいても「カルメン」に勝るものはなく「オペラの忠臣蔵」と称されていて特に日本人に相性のいいオペラと言える。 関東大震災前の浅草で大衆演劇化した「カルメン」が大人気,「チャンチャラオカシ,チャンチャラオカシ, チャンチャラオカーシ・・・・・」とカルメン前奏曲に乗ってペラゴロ(オペラおたく) 達がはやしたてる。ややあってカルメンの登場,それも真っ赤な薔薇の花を口にくわえてである。胸にも薔薇の花のコサージュをつけていることもある。これがお決まりのカルメンの舞台イメージ。カルメンが「ハバネラ」を歌いながら銃の手入れをしているホセに花を投げつける。ホセはというと地面に落ちたこの花を拾ってボケットに入れる。魔性の女(ファム・ファタール)に魅いられた男の悲劇の始まりである。 紆余曲折あってカルメンのために営倉に入れられたホセは1ヶ月の刑期を終えて再びカルメンの前に姿をあらわしボケットからあの花を取り出して ♪♪おまえの投げたこの花を 営倉の中でも手放さなかった しぼんでひからびてしまっても 甘い匂いは変わらなかった♪♪ とアリアを歌う。鳥肌が立つ位,いいところである。 外国歌劇場の日本公演, あれはメト( メトロボリタン歌劇場)の舞台?だったか。 この場面でホセがやおら取り出したのは遠目にもはっきり分かる黄色い花, あれっ?!台本には花( la fleur)としか出ていないのに。そこでメリメの原作にあたって見るとアカシアの花,匂いとはっきり書いてある。そうだったのか。ホセが営倉生活の一月間,抱きつづけたカルメンのイメージはアカシアの花、匂いによって喚び起こされた官能的で性的なそれだったのだ。こう考えるとホセに一層深く感情移入ができるようになった。 前出デル・モナコは一世を風靡した名テノールでイタリア歌劇団第1次来日公演では「オテロ」を歌い34年の第2次公演ではシミオナートのカルメンに対してホセを歌った( これを私はTVで見ていた) 。彼がその時,ごねて 「こんなひからびた花を手にアリアは歌えない」といって演出家に逆らって花を手にしなかったというエピソードが伝えられている。デル・モナコともあろう歌い手が花の匂いにかき立てられる性的, 官能的イメージに感情移入できないわけはない。演出家の何がお気に召さなかったのだろうか。 そのことを話したら知人がアカシアが近隣の里山の雑木林に咲いているという。早速, 駆けつけてみるとボンボリ様の鈴なりの花, 色はやや白みを帯びているがまさしく黄色,その匂いはといえば熟れたリンゴを思わせ離れていても匂ってくるかなり強烈なもの。しかし, 私にはフェロモン作用はなく官能的, 性的なイメー ジとはほど遠かった。ミモザ・アカシアではなくモリシマ( 柔らかい毛) ・アカシアという品種だという。 以来, 「カルメン」を見るたびにこの場面の花の演出が気になった。 中に日本の舞台で白い花を使った「カルメン」があって新鮮だった。赤い薔薇を避けて白い薔薇を使ったのか。この舞台は台本のト書きにはっきりとアカシアの花と書いてあるビゼーの初版(オペラコミック版)を使用したと断っているので薔薇ではなかろう。問題はアカシアの色。数は少ないが花の白いアカシアもあるにはあるのでそれを知った上での凝った演出だったのか。それよりも「カルメン」のアカシアを歌謡曲「アカシアの雨にうたれて」や清岡卓行の「アカシアの大連」に出てくる全く別種のニセアカシア(この花は白い)と勘違いして白い花を使った可能性の方が大きいのでないか。無論, メリメの原作では匂いに触れているが花の色についての言及はない。原作の舞台となった当時のスペインのアンダルシア地方では一体どんな色のアカシアの花が咲いていたのか。黄色か白か。 【クレマチス(品種キリ・テ・カナワ)の花】 我が家に幾鉢かのクレマチスがある。クレマチスの和名はテッセン,梅雨前に花をつける。最近ではさまざまな品種が開発されテッセンの名前だけでは包括できず洋名でクレマチスと呼ばれることが多い。 clematisはギリシャ語のKlema(巻き髭)に語源をもち「蔓」をあらわしているとか。 園芸店で「キリ・テ・カナワ」の名の品種を見つけて購入した。キリ・テ・カナワは知る人ぞ知る ニュージーランド出身,マオリ族の血を引く英国の高名な女流オペラ歌手。最高位の称号であるディームを冠して呼ばれる。また,英国のチャールス王子と故ダイアナ妃の結婚式(古いなあ)で歌唱したことでも知られている。 何度も来日しており親日家で大の相撲ファン。横綱千代の富士(これも古い,古い)とのツーショットにおさまるあたり,やはりマオリの血筋のしからしむるところか。 私は何よりも彼女の声に魅せられその出演オペラのLD(さらに,古いね!!)を何枚かを所有しまたそのコンサートにも出かけたりした。 ということで「キリ・テ・カナワ」の名に惹かれてその一鉢を購入し勝手に彼女をイメージさせる 花の開花を楽しみにしていた。 つけた花は八重の濃い紫の艶やかな花でどちらかというと楚々とした感じのキリ・テ・カナワとはイメージが異なっていた。それでも彼女の歌唱をバラの花にたとえる人がいる位だからあながちミスマッチとは言えないかもしれない。 何故,このクレマチスに「キリ・テ・カナワ」の名がついたのか。気になって園芸に詳しい友人 に尋ねたらさすがに,クレマチスの品種「キリ・テ・カナワ」は知っており花のイメージも的確だった。しかし,その名の由来どころか「キリ・テ・カナワ」がオペラ歌手の名であることすら知らずがっかりさせられた。 その後,このクレマチスの原産がニュージーランドであることを教えてくれた人がいて合点がいった。 私にとって若干イメージは違うがわが家の「キリ・テ・カナワ」の花を楽しんでいる。 彼女の代表作「マノン・レスコー」を聴きながらと書きたいところだが・・・・・・・・・・・・・・・ 【とけい草の花】 庭を造った時,垣に「とけい草」の蔓を這わせた。 当時,私が処方していた植物性鎮静薬のパシフラミンがとけい草(passiflora.incarnata.L) の エキスであると聞かされたことも関係していたかも知れない。 私は漢方薬「釣藤散」に倣って毒にならない「薬」として重宝していた。 精神科では時としてそのような「薬」が必要になるがプラセボーでは気が咎める。その後、基準薬価から削除され現在,使用できないのが残念でならない。 垣のとけい草は毎年,沢山の花をつける。とけい草の謂われの通り時計の文字盤に似た何ともユニークな花で摘んで水盤に浮かべて来客に披露したりしている。 とけい草は英語で"passion flower"というのだと教えてくれた人がいた。 ただし「情熱の花」ではなく「受難の花」。花弁が十字架のキリストを連想させるからだという。また,これをキリストの傷口に当てたというとけい草伝説がスペインに伝承されているとのこと。知っている人は知っているものである。 受難といえばキリストの最後の12時間を描いたメル・ギブソン監督の映画「パッション」があるがこれでもかこれでもかと畳みかける「受難」のシーンはすさまじい。観客席から思わずため息とすすり泣きが漏れるほどであった。 まさに ♪♪血潮したたる主のみかしら♪♪ (マタイ受難曲)である。 この映画の毀誉褒貶さまざまであったが話題作には違いなかった。ただ,生々しい傷口の描写にもかかわらず,この映画ではとけい草伝説は取りあげられていなかった。 もう一つ。最近見かけるパッションフルーツはとけい草の実だという。悪のりしてうちのとけい草の実を食したこともあるがぱさぱさしてとても食べられたものでない。 フルーツの方は「果物とけい草」という改良種だという。 梅雨に入ると、わが家はとけい草の開花の時期を迎える。 【ジギタリスの花】 わが家の庭にはジギタリスが植えてあり花をつける。元はといえば看護学校の授業の供覧用に何株か植えたのだが種で増えたりして時期がくると赤紫,紅,黄と多彩な花をつける。最近は切花で花屋さんの店先でも見かけるようになったからご存知の方も多いと思う。 ジギタリスといえば古くから知られた強心配糖体でジゴキシン,ラニラピット,ジギラノーゲンCなどの製剤が使用されていることはご承知の通り。 ジギタリスは語源でいえばデジタルと同様digit(指)に由来することは知っていたが長い間何故か良く分からないまま葉が手や指を連想させるのかと勝手に思ったりしていた。 ある時,花の形が「指貫」(ゆびぬき。裁縫の針づかいに指にはめて用いる))に似ているからだと知って胸のつかえがおりた。しかし,若い人にはこれも死語になっていて説明がいるかも知れない。 話は変わるが,画家ゴッホの精神病状態に関連してジギタリス中毒説がある。その根拠として当時「てんかん」の治療にジギタリスが用いられていたこと,副作用に黄色視(ものが黄色に見える)があること,何よりも彼が治療医を描いた「医師ガシェの肖像」に描かれていることなどが挙げられるがテレピン油など他の中毒説同様ゴッホの精神病状態の非定型性を強調するあまりの「がせねた」の類だと思う。 ちなみにジギタリス製剤はこの植物の葉や実から精製されていたという。
【アロエの花】 桜の春を待たずにして母が逝ってから12年になる。93才だった。 母の血縁には長寿者が多く祖母は92才,大叔母はそれぞれ95才,88才,大叔父は80才まで生きた。 晩年は引き取ってこちらで面倒を見ていたが血圧が少し高かっただけで,血液化学検査の値など私よりずっといい位で目立った長患いもなく祖母より一年長く生きたところで日頃自ら望んでいた通りにポックリ逝った。 母が住まいのベランダに残していった物のなかに20何株かのアロエの鉢があった。 母はそれを「医者いらず」と称して専ら治療目的で栽培していた。「口が荒れた」,「やけどした」といってはその葉を患部に当て「風邪だ」,「便秘だ」といっては服用するなど外科用と内科用を使い分けているようだった。詳しいことは知らないが実際,品種によって薬効に差異があるらしかった。息子や孫,その連れ合いの医者達に囲まれていて「医者いらず」はないだろうとたしなめたことがあるが相変わらず「医者いらず」といい続けた。 私はというと国許沖縄での母の長い一人暮らしに対する負い目もあって複雑な思いで言われるままにアロエの買い足しに一役かった。 ベランダの鉢の山を前に破棄するのもためらわれ思案にくれたがふと国許で庭のアロエの葉の間から花茎が出てその先に橙がかった花をつけたことが蘇ってきた。一風変わった珍しい花だった。 株分けして丹精込めればわが家で花をみることがあるかも知れない。不謹慎の謗りを免れないが母の骨壷からの細片をその株元に撒くのは如何との密かな思いに駆られていた。 【ノウゼンカズラ(凌霄花)の花】 毎年、わが庭先ではノウゼンカズラ(凌霄花)が夏の訪れを告げるかのように橙色の華やかな花を次々につける。樹勢が強く「気根」を出し伸びていく丈夫なこの樹に私は南国沖縄のガジュマル(溶樹)を重ね合わせて見てしまう。また,その花はかの南国のでいご(梯梧)やハイビスカス(沖縄では仏桑華,ソウシキバナと呼んでいた。沖縄独特の亀甲墓の周囲に植えられていることが多かったからだ)のハッとするような咲き方に似ている。 庭を造った時,当時、群馬に住んでいた妹の庭に咲いていたノウゼンカズラを挿し木用に所望した。妹とその連れ合いがそれこそわんさと送ってきた。 植えられたノウゼンカズラは棒樫の幹を伝ってあっという間に駆け上り4年目から花を咲かせるようになった。わが家のノウゼンカズラは高さが4メートル以上になって棒樫の樹冠の上まで伸びて花をつける。日当たりを求めてである。蔓が木にまといつき天空を凌ぐほど高く登るところに凌霄花と言われる所以がある。中国原産だそうだ。 私は毎年,この花を辛い気持で眺めている。この樹とその花の勢いが恨めしい。 妹がそれこそあっと言う間に亡くなった。65歳。膵臓体部癌であった。前にも書いたがわが家は女系家族で女性は軒並み90歳以上の長寿である。 その血を継いだ妹(兄妹二人だけだった)がこんなにはやく逝くなんて。深い喪失感に襲われその悲しみは大きかった。兄として,医者として手を拱いているだけで何もしてやれなかった無念さをどうすることも出来なかった。 体調を崩したのはノウゼンカズラが花をつけた夏。定年を迎えた連れ合いが共に沖縄で老後を送る準備のために沖縄に行っていた。急遽呼び戻された。 肝臓への転移が認められて手術が見送られ保存的に対処すると告げられた。膵臓癌と言えば医者として苦い経験からその予後の悪さはおおよそ察しがついた。 思えば,私が卒業した年,内科で半年,精神科で半年の研修を決めた。その時私が内科で受け持った患者さん第一号がやはり膵臓癌であった。胃癌の疑いで入院して来られた近県の医師夫人であったが何の技術も持たない私はと言えば絶えず患者さんの傍らにいて偉い先生の施術に付き添うだけだった。内視鏡の前身である胃直達鏡検査(真っ直ぐな管の先レンズがついており扱える先生は大学に一人しかいなかった)の苦痛に立ち会ったりしているうちに患者さんは私を信頼し何くれとなく相談を持ちかけてきたりした。医者としてではなくて患者の立場に近い付添い人と考えているふしがあった。 紆余曲折の末,手術が決まった。私はといえば術前に内外の手術書を調べて膵臓癌手術の術式の項がないことに改めて気が付いて愕然とするていたらく。実はこれは根治手術でも何でもなくていわゆる試験開腹に過ぎなかったが未熟な私にはその実感が乏しかったのだ。京都でも大学に先駆的に膵臓の摘出術を行った教授がいるにはいたがこれは特殊なケースで膵臓の手術はなきに等しかった。 開腹手術の結果は案の定,手術不能でそのまま閉じるしかなくあとは看取るだけの医療が残された。患者さんの診察にいくのがとても辛く感じられた。苦い経験であった。 妹の癌に直面して膵臓癌の手術に関しては当時とあまり変わっていないことを知りこれまた愕然とした。生きている間にできるだけのことをして緩和ケアを図るしかないと告げられた。それでも当初は一緒に食事をしたりして束の間の楽しみを分かち合うことができたがついには癌センターに入院しっぱなしとなった。それでも足を鍛えるといって病院の廊下を歩き回っていたのは不憫であった。 亡くなる日の3日前、家内ともども病床を訪ねた。時々,苦痛のためか時々顔をしかめることはあったがずっと目を閉じたままであった。和痛のためにモルヒネを点滴で使用していた。家族や友人に囲まれて一言くらい口を利いて欲しいし目も開けて欲しいと願った。勝手なものである。 面会も終わりに近くなり「また来るよ」といって席を立とうとした時のことである。今まで閉じていた目をしっかり見開いて親指と人指し指で丸印をつくって皆に示した。表情が和らいだと思ったのは贔屓目か。最後の力をふりしぼってのことか。あわてて駆け寄って改めて手を握り締めた。涙があふれてきて声にならない。面会の間中,心の中は何もしてやれなかった悔悟の念で打ちひしがれていたが,指のサインにこちらの方がかえって励まされる思いがした。 同席した皆もそうだった。もう長くないことは歴然としていたが,指で示された丸印のことを思い浮かべて帰路は少しこころが和らいだ。私には周囲にたいする感謝の意をあらわしているように受け取れたからだ。死に臨んでこのように態度で示せる妹がうらやましかった。 それから3日後,妹は逝った。 引き揚げ者としてその他もろもろの苦労を重ねた沖縄に再び戻って老後を送る気になった矢先のことで無念の思いもあったろうに指で丸印を示して周囲に強い印象を残して逝った。 ノウゼンカズラは7月の誕生花,樹勢の強さ,他の木にまきついて天空を凌ぐほどに咲き上る勢い,それに花言葉は名誉,栄光などなどでどれひとつとして妹にあてはまるところはない。しかし,死の床で皆に示した指の丸印は彼女のそれこそ花として脳裏にこびりついている。わが家のノウゼンカズラはこれからも咲き続けるに違いない。救われているのはこの樹が花をつける植物の中でも寿命の長い樹で400年を越えるものもざらにあるらしいことである。これからも夏になるとわが庭の一角で花を咲かし続けることであろう。 ノウゼンカズラ!凌霄花!
【バナナの花ーまたの名は芭蕉の花】 太平洋戦争の頃,私たちは京都に住んでいた.まだ,空襲に脅かされることもなく平穏な日々が多かった。郷里沖縄を離れて長く、望郷の思いからか母親は時々私たちを沖縄行きの船の出る天保山桟橋(大阪港)に連れて行ってくれた。海の向こうに沖縄があること,祖父母の家の庭にはバナナの「樹」(またの名は芭蕉)が何本も植わっていて実をつけることなど聞かされた。幼い私にとってバナナは南国の楽園に実るあこがれの果実であった。 やがて戦局も切迫し海上封鎖のあおりを受けて海外からの物資は途絶えがちでとうとう大好きなバナナを口にすることも出来なくなった.不憫に思ったのか母親がバナナを乾燥させハトロン紙で巻いた代用品(代用食など戦中に流行った懐かしい言葉だ)の「乾しバナナ」を手に入れてくれた。私にとってバナナとは名ばかりの代物であったが・・・・ そんな折,私は夢を見た。沖縄の祖父母の家の庭にバナナの大「樹」が生えていて枝にバナナが実をつけている。何とバナナが一本づつ枝にぶら下っている。そんな夢だったのを今でも鮮明に覚えている。 精神科医になってバウム・テストを知り奇想天外なバウムも数多く目にしたがバナナが柿の実のように一本ずつ枝にぶら下がっている類の「実のなる木」にお目にかかったことはない, 敗戦後,私たちはアメリカの上陸用舟艇を改造した引き揚げ船で沖縄に引き揚げた。 私の脳裏にはあの祖父母の家の庭のバナナの大「樹」のイメージがあった.しかし,芭蕉はいくら幹?が太くても草木であって樹でないこと,実は房なりであることにはすぐ気づかされた。 しかしある朝、バナナの房の先端に紫紺の花が開花したのは驚きだった。一本の芭蕉に一個の花。丁度,蓮の蕾のような変わった花で、いかにも亜熱帯の花だった。 因みに私の母方の家紋は「三つ芭蕉巴」であるがどういう謂れがあるか私は知らない。 祖父母、叔父、父親、母親、皆この世にいない。 先日、沖縄に移り住んでいる妹(残念ながら彼女もこの世の人でない)の連れ合いから電話があった。庭に芭蕉を植えたという。ちょうどこの一文を書いているところだったので話が弾んだ。郷里に帰れば往年の芭蕉の花がまた見られるかも知れない。 . 【でいごの花】 「でいごの花」をご存じでしょうか。沖縄では春先,葉を落とし枯れ木のよう になった枝に燃え上がる炎のような独特な赤い花をつける。インド原産とも 南米原産と言われるマメ科の喬木で別名,火炎樹,沖縄の県花。琉球漆器の素材となる(わが家にも菓子器と重箱がある)。 何年か前,植木園で買い求めた苗木が成長して花をつけた。求めた時,「庭木にでいごはお勧めできません。大きくなり過ぎて手入れにお困りになりますよ」という。沖縄の出であることを話して懇うたら「それでは手入れしやすい品種を選んでみましょう。鉢植えにして花を楽しんで下さい」といった。つけた花をみると沖縄産のそれとは違いあの炎のような勢のよさはない。しかし,それでも雰囲気は紛れもなく「でいご」である。後に「アメリカ・デイゴ」という品種であることを知った。 「でいごの花」といえば前にThe Boomが歌って流行った「島唄」にも出てくる。こちらは耳にされた方が多いと思う。だが,メロディーの美しい恋歌の故にそれに込められている沖縄での戦争への思いを知る人は少ない。 ♪♪でいごの花が咲き乱れ 風を呼び 嵐がきた くり返す悲しみは 島渡る波のよう ・・・・・・・・・・・・・・・ 島唄よ、風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 島唄よ、風に乗り届けておくれ 私の涙♪♪ 沖縄では「デイゴ」の花の咲く歳は台風が多いと言い伝えられてきた。 「でいごの花」が風を呼び嵐を呼ぶ。歌詞通りなのだがこの嵐には沖縄戦のイメージが重ねられているという。 私は戦後しばらくして母の郷里である沖縄の離島に移り住んだ。転校先の小学校では運動場のはずれのクレーター状の深い大きな凹地をごみ捨て場として使っていた。「カンポーシャゲキ」の跡だという。 祖母もよく「カンポーシャゲキ」の恐ろしさを口にした。その猛烈さは空爆の比ではないという。島を取り巻いた軍艦による「艦砲射撃」のことだと分かるのにしばらく間を要した。「鐡の暴風」(まだ,鐡という字が使われていた)と表現した人もいた。 島歌の「嵐」はこれを指していると思われる。それでは「鳥」は亡くなった人の魂の謂いか。昭和20年,沖縄ではでいごの開花に引き続き3月から6月まで「鉄の暴風」が吹き荒れ,米軍が上陸した本島を含めて県下で12万の県民の命が失われた。 【トリカブトの花】 信州へ行った折,トリカブトの花を目にしたことがある。 勿論,トリカブトが殺人事件がらみで広く知られるようになるかなり以前の話である。 変わった形をした紫色の花が印象的であった。この変わった花の形,実は花弁でなく,がくの変形したものであり,舞楽に用いる「鳥兜」に似ているためその名があることは後に知った。 漢方薬の一つ「附子(ぶし)」の名で強壮薬として用いられており,また狂言「附子(ぶす)」に出てくること,その成分はアコニチンであることは薬理の授業か何かで聞いていた。 話はかわるが,私の知人の中に顔を合わせると「頼むで,いい薬(強壮薬)があったらくれ」と言ってくる御仁がいた。あまり真顔なのでプラセボーというのも躊躇われ,かといってバイアグラ以前のこととて,いい知恵も思い浮かばず窮余の一策として「附子(ぶし)末」を使うことにした。 「麻黄附子細辛湯」にビタミン剤を配合してそれらしき物をでっち上げ,もっともらしく与えてみた。 こちらも効かせる自信はなかったが,効果のほどを聞いてみるとまんざらでもないとのこと。 しかし,その後,あまり言ってこなかったところをみると十分とはいかなかったのだろう。 その後,例のトリカブト殺人事件が報じられ,東北地方でのトリカブトの花由来の蜂蜜による中毒の報告論文に接するに及んで如何に同情と親切からとはいえ危ない橋を渡っていたのではないか気になった。 効かなくてよかった。「麻黄附子細辛湯」は販売されており,余程の量でなければ問題はないにしても,何かあれば釈明に苦労しなければならない。さる有名な博物学者がその用量を誤って死に至った例もあることだし・・・・・・・・ わが家の庭ではトリカブトが花をつける。家内に何かあれば,この書き込み自体が問題になるやも知れず?妄想的。くわばら,くわばら! 【白い彼岸花】 時期になると 勤務先の病院前の土手斜面に真っ赤な彼岸花が一斉に咲きだす。我が家の庭も同様だ。これは病院前からその球根を移し植えたもの。 彼岸花は別名「幽霊花」,「死人(しびと)花」とも言われ墓地や荒地に自生することもあって気味悪がられており,そのイメージは必ずしもよくない。 私の育った沖縄は亜熱帯に位置することや田圃が少ないこともあって彼岸花の自生そのものが珍しく,不吉なイメージとは無縁であった。 それやこれやで,私は欧米人や最近の若者同様この花が好きである。 (庭に移し植える際,家人や周囲の反対はあったが押し切った) 彼岸花は中国原産,稲作と共に日本に渡来したもの。 田圃の畦に生えるのはその球根の毒をもって鼠が畦に穴を穿つのを防止させ,またその球根を飢饉の際の食糧に当てたためとも言われている。 球根は植物アルカロイドを含むので食用に供するためには晒すなどの面倒な操作が必要となる。 ある時,一般医学誌のエッセイ欄で「白い彼岸花」が存在することを読み,興味をかき立てられた。その後,九州南部には自生すらしていることを聞き及んで何とかその球根を手に入れて「白い彼岸花」を咲かせてみたいと思い続けていたが,先年ひょんなことでそれが実現した。 中国原産のその花は直接にあるいは日本経由で欧米に伝えられて栽培種として好まれ,リコリスの名で逆輸入され通販ルートで入手可能になっていた。これは花の色が多彩である。 以来,わが家では赤い彼岸花に混じって白,黄,紅の花が咲き続けて,また違った風情が となっている。 ちなみにその学名リコリスはローマの恋愛悲歌に出てくる女性 Lycoris に由来するとか。 日本人の彼岸花のイメージとはかなり違うが,言われてみれば,細く長い花茎の先の艶やかな花の風情がうまく表わされているといえなくもない。 【葉牡丹の花(踊り葉牡丹)】 先年,郡上八幡を訪れた際,家々の軒先に径一尺以上もあろうかと思える大きな葉牡丹の鉢植えが並んでいた。 どうしたらあのように大きくできるのか聞いてみた。ある時期まで地植えで育て肥料を惜しまないことだという。早速,自ら試してみた。 確かに教えられた通り立派な葉牡丹が育って冬の間中楽しめた。 時期がくれば抜いてしまうのが常だがあまり立派に育ったので幾鉢か遺してみた。花が咲いて種が採れるかも知れないという期待もあった。 春になるとひょろひょろと背丈が伸びて1m近くに達しそれはそれでなかなか風情がある。 その風情何かに似ていると感じていたがイメージが結実しなかった。先日,TVの美術番組でドガの踊り子を眼にしてこれだと思い至った。ドガはバレリーナの画家といわれ生涯に2000点以上の踊り子の絵を描いたといわれるが葉牡丹の生育した姿はまさしくそれを彷彿とさせた。 その後,踊り葉牡丹の別名があることを知った。謂われは定かでないが私は「ドガの踊り子」に通じるイメージに触発されたと信じている。 葉牡丹はその後,菜の花を思わせる小さな黄色の花を沢山つけた。 アブラナ科に属するというが種はまだ採るに至っていない。
【エイジワインの開栓】
10何年か前、相次いで娘二人を嫁がせて家の空いたところにElectroluxのワインセラーを置いた。
その時、エイジワインを入れることを思いつき行きつけの店のソムリエに相談したが
当時のこととてなかなかいい返事が貰えない。
今ならネットを使えば比較的容易なのだが・・・・
苦心の末、手に入れたのはいいが開けるタイミングがまた、なかなか難しいことに気付かされた。
定年なんてあってなきが如し。快気祝い。幸いなことに大病の経験はない。
ワインセラーに寝かせておいたがそのうちに保存状態が気になりなりだした。
ラベルは古びて一部剥がれかけておりコルクの劣化も気がかり。
ヴィンテージチャートなど見てもあまり出来のいい年でなく残っているのは少ないらしい。
開けてみて「お前の人生はこんなものか」と思われるのもまた内心癪の種。
「とうとう、開けるのは通夜ということになってしまうのか」など周囲の催促とも揶揄とも取れる言辞を
聞くに及んで開栓は身内に委ねる羽目に。その結果が掲載のシーンと相成った。
幸い何日も前からソムリエの細心の配慮を得てセッティングやサーブ、何よりも危惧した味も
大方の満足するところで大いに面目を施しまずは安堵している。
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喜寿 |
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エイジワイン |
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祇園の舞妓 |
沼田 輝夫 はじめに 日々の暮らしや仕事の中の出来事で、他人の目には難事と映ることでも、終わってしまえば本人の記憶に遺らず、後日に指摘されてみてそんなこともあったかなぁ、と記憶をたどることがあります。 逆に、些末な事柄、相手がとっくに忘れ去っているなにげない好意、さりげない一言や仕草などが脳裏に焼き付いて忘れられないこともあります。 そして、このようなちょっとした記憶が、ひとのIdentityや性格の形成に深く関わってくることもありましょう。 もう、76歳にもなると、今回のお題、「① 今まで誰にも言えなかったこと、② 思い出しただけで(笑えて)吹き出しそうになるほど恥ずかしいこと」は数えきれないほど沈積していますが、生まれ育った古都の狭い界隈で、私の身の上に起こった他愛ない出来事を中心に、今は亡き級友を偲びながら、なぜか消え去ることのない記憶の断片をお話しましょう。 医学部に進学した頃、麻雀に入れ込んでいた時期がありました。 授業が終るのを待ちきれずに北門近くの雀荘「平和(ぴんふ)」に駆け込んだものです。 常連客は、今は亡きH君、H君、M君、Y君と、お地蔵様のように穏やかなH君、天性の朗らかさに恵まれたK君、泰然自若のY君たちでした。皆さんお強かったですね。 試験明けだったと思いますが、楽友会館近くの亡M君の下宿に集結して徹夜で雀卓を囲んだときのことです。 空がしらじらと明るくなってきた頃、昨秋他界した愛すべきお人柄のH君が満貫を自模ったときの満面の笑顔は、瞼にはっきり浮かびます。 自模満貫は、ゲームの流れの中ではよくある出来事で、このときの上がりは「緑一色」とか「九連宝燈」とか言った類の稀有な役満でもなく、また、私だけが特段のダメージを受けたわけではなかったにもかかわらず、なぜこの場景だけが記憶の引き出しに長期保存されているのでしょうか。 いったん海馬に短期記録された情報は、書き換えられにくい大脳新皮質に移動させられるそうですが、永久に遺すべき情報と削除すべき情報の選別メカニズムはどのようになっているのでしょうか。 私には謎だらけの分野で、新たな人生が与えられたら取り組んでみたい課題のひとつです。 幼児の記憶 さて、皆さんは、過去の記憶をどこまで遡れますか。 私の場合、最も古い記憶は、夜中に発病して東福寺の第一日赤病院に入院したときのもので、親に抱きかかえられて当時は珍しかったハイヤーに乗ったことと、病室の場景やナースの姿などをおぼろげに憶えています。 母に聞くと3歳頃のことだったそうです。 また、祖母におぶわれて、近くの壬生寺のお地蔵様の山によじ登って遊んだり、岡崎の動物園に猿やヤギを見に行ったりした記憶もこの頃のものでしょうか。 これ以外の記憶はありません。 その次に古い記憶は、幼稚園に上がる前でしたから4歳頃のものです。 吉井勇が「かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流るる」と詠んだ、祇園甲部の小橋の近くに、廓のお茶屋さんにお酒を納入していた「谷口酒店」があり、母の叔父が営んでいたのでよく遊びに行きました。 ある日、近くの子供達と鬼ごっこ遊びをしていて女の子にタッチしたところ、その子が転倒しておでこに軽いすり傷を負い、泣き叫んで帰ったことがあります。 すぐにその子の母親が飛んで来て「あんた、おなごは顔が命やで」などと金切り声でこっぴどく叱られましたが、この場景は大脳新皮質に深く刻み込まれています。 廓の女の子の顔は、将来、舞子・芸妓・女将と廓で一生のキャリアを積みあげていく上での核心的財産なので、その毀損は決して許されないことを学習しました。 その後、女の子と遊ぶときは、身体が触れないように怪我をさせないようにと注意して、お手玉、ままごと、おはじき、縄跳びなどの遊戯を選択しましたが、いずれも興味がわかず、中でもままごとは苦手でしたね。 幼児心にも、男と女の生物学的な違いは意識していましたが、当時は、旧民法下での家督の継承者であり、天皇陛下の赤子として、お国のために喜んで命を捧げて軍神になるべく教育されていた男の子が、家庭や社会で陽光の当たる場所に置かれていたご時世でしたので、その陰に隠れていた女の子を社会的存在として認識したのはこのときが初めてでした。 「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、この事件は、私が終生女性に畏敬の念を抱いて接する原点になりました。 長じては、級友の諸姉は言うに及ばず、仕事でご一緒した京都府庁や日本生命の女性職員、社会保険審査会で同僚委員であった法学者のHさん、裁判官のSさんや社会保険労務士のMさん、そして、審査会の厳しい仕事を舞台裏で支えてくれた厚生労働省の女性事務官などを通じて、男性優位に構築されてきた伝統的な社会システムから、合理的な理由が見当たらない諸々のガードを取り外して平場で戦えば、男性が女性に優位に立てるのは腕力のみである、と確信するようになりました。 そうそう、天皇陛下と言えば、行幸されたときに烏丸通四条上ルで整列に加わってお迎えしたことがあります。 近くにいたおとなから、烏丸通の京都駅から御所までの道幅が特別に広いのは、行幸に際して、お近くで拝顔すると目が潰れるからだよ、と囁かれましたので、御料車の車列が通り過ぎるまでの間はしっかりと目を閉じていました。 緊張して息も詰めていたので苦しかったですね。 普段の会話では、「天皇陛下」と口にするのは畏れ多いので、敬愛を込めて「天子様」とお呼びしていましたが、学校などの公的な場所やラヂオの放送では、「畏れ多くも」の後に、ほんの少しの間をおいて「天皇陛下」と続くから、「畏れ・・・」と聞けば、直ちに姿勢を正すようにと教えられたのもこの頃です。 どこの家でも、居間か客間に天皇・皇后両陛下の御真影が掲げてありましたので、目が潰れるのが怖くて見ないように注意していましたよ。 完全にマインドコントロールが解けたのは中学生になってからでしょうか、相当の時間がかかりました。 おとなは、純粋無垢な子供心をいたぶったらあきまへんなぁ。 幼稚園児の記憶 幼稚園に上がる頃から、四条大宮の嵐電の駅舎の屋上から警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響き、爆風による飛散を防ぐためとして、全てのガラス窓には新聞紙を裁断したテープがX状に張られ、灯火管制が敷かれるようになりました。 ある夜、寝ているところをたたき起こされて防空頭巾をかぶり、裏庭に掘られた狭い防空壕に家族そろって避難して編隊の遠い轟音をやり過ごしたことがあります。 防空頭巾には住所氏名と血液型(B型)の書かれた小布が縫い付けてありましたね。 Wikipediaで調べると、昭和20年3月13日の深夜から14日の早朝にかけて「第一回大阪大空襲」があり、グアム、テニアン、サイパンから274機の「B29」が来襲し、大阪市街地が焼き尽くされて死者数は約4千人を数えましたが、このときの記憶だろうと思います。 そして、自宅の前で焼夷弾に模した火炎に対してバケツリレーによる消火訓練が行われたこと、町屋が密集していた堀川通、御池通、五条通の沿道は、戦火の類焼を防ぐための防火帯にすべく有無を言わさぬ強制疎開によって拡幅され、おとな達が運動会の綱引きで使う太い縄を民家の大黒柱に括り付けて、よいしょ、よいしょ、との掛け声にあわせて次々に引き倒していったこと、その場に漂っていた湿っぽく土かび臭い空気の流れ、出征兵士の妻や母による街角での「千人針」のお願い、国防婦人会のお母さん達のもんぺ姿での竹槍訓練、バケツリレーによる消火訓練の様子などを昨日の出来事のようにありありと思い出します。「非国民」なんて言葉もありましたね。 また、新京極の入り口にある映画館にも潜り込みました。 帝国陸海軍の赫々たる戦果を伝えるニュース映画の記憶が、勇ましい軍歌や高揚した語り口とともに遺っています。 歴史は繰り返します。 お国のために異国に出征する兵隊さんが、戦地で弾避け祈願の「千人針」を腹に巻き付けて戦うことのないよう切に祈っています。 皆さんも憶えているでしょう、「欲しがりません勝つまでは」、「贅沢は敵だ」、「石油の一滴は血の一滴」の戦時スローガンを。 通園していた京都市立明倫幼稚園の先生の実家が大山崎村の農家で、母に連れられてヤミ米を分けてもらいに行きましたが、持参した石鹸1個が米1升と物々交換されていました。 米などの統制物資は、お巡りさんに見つかると没収されると聞かされていたので、帰路に交番の前を通るときは緊張しましたよ。 卵も貴重品で、この農家で白色レグホンと名古屋コーチンを一羽ずつ譲ってもらい、ピーコ、コッコと名付けて裏庭で飼いました。 餌やりと卵とりは私の仕事でしたがよくなつき、鶏が胸に抱くほのかに暖かい卵の感触は手に残っています。 コッコが卵を産まなくなって、お向かいの「鳥長鶏肉店」でさばいてもらい、鳥すきの肉になったときは、さすがに可哀想で食べることができませんでしたね。 金属類は、日常使う鍋釜から仏壇の小さい鈴まで全て供出し、飢餓状態にあったこの国に、よもや、使い捨てと飽食の時代が訪れようとは想像しませんでしたが、いまだに、紙や石鹸などの生活用品も粗末に扱えませんし、食物を無駄にすることはできません。 特に、ご飯はお椀に一粒残っていても申し訳なく思いまよ。この一粒から多くのお米が取れたのに・・・、これは、もう、お金の問題ではありませんね。 あぁ、もったいない、もったいない。 戦後、堀川通の二条城前だけは米軍セスナ機の滑走路になりましたが、拡幅された道路は長らく整備されず、瓦礫を撤去した後にも井戸や石灯籠などがあちこちに残っていて、かくれんぼをしたり、トーチカや秘密基地を構築して戦争ごっこをしたりする格好の遊び場になっていました。 堀川通四条上ルの跡地には、「相撲巡業」、「木下大サーカス」や「ろくろ首の娘」などの見世物小屋が興行に訪れましたが、よく潜り込んで観たものです。 相撲では、太鼓腹の横綱「照国」が好きでした。 お相撲さんになったら白いお米のごはんが食べられて、横綱になったら腹いっぱいに食べられる、と誰かが羨ましそうにつぶやいていましたね。 その後、平成8年に、親戚の方が「タニマチ」をされていたM君から、大阪の春場所に招待されるまで観戦の機会はありませんでしたが、力士の声や息遣い、肌色の変化、ぶつかり合う音などの臨場感は堪りませんなぁ。 サーカスでは、同年代の女の子と仲良くなり、テントの中に入って遊びました。 団員の皆さんは親切でしたが、祖母に話したところ、驚いた顔をして「人さらい」に遇うと言われ、出入りを固く禁じられました。 この辺りには、「四六のガマの油売り」、「居合抜き」、「賭け将棋」、「賭け碁」、「雀のおみくじ引き」、「ガラスの知恵の輪」、「トランプ賭博」などの香具師が日替わりまで店を出し、結構繁盛していました。 なかでも「四六のガマ」の口上が好きで、一節を憶えて得意になっていました。 ・・・前足の指が四本、後足の指が六本、これを合わせて四六のガマ。山中深く分け入って捕へましたるこのガマを、四面鏡ばりの箱に入れたるときは、ガマは己が醜き姿の鏡にうつるを見て驚き、タラ〜リ、タラ〜リと油汗を流す・・・ また、貧相な身なりの中年の男性が、「ガラスの知恵の輪」を壊し続け、賭け金を清算できなくなって取りに帰りましたが、人質に残されたおかっぱ姿の女の子の心細そうな顔を憶えています。 北野神社前から中立売通、堀川通、四条通、西洞院通を経て京都駅に至るチンチン電車に乗るのが大好きでした。 運転手の頭上にお椀のような鐘がしつらえてあって、車掌がこれに繋がる紐を引っ張ってチンと合図すると、運転手が足元のペダルをチンチンと踏んで出発進行。ブレーキは手動でぐるぐる回していましたね。 空いているときに乗ると、車掌も大目にみてくれたので、あちこちで途中下車をしながらひとりで探検旅行を楽しんだものです。 剣豪・荒木又右衛門や忍者・猿飛佐助になりきってチャンバラごっこで遊んでいるうちに、市電の線路上に五寸釘を置くと圧延されて「手裏剣」が出来上がるのを発見し、得意になって作っていたら親に見つかって禁じられたのも、祖母から京の通り唄を教わったのもこの頃でした。 まるたけえびすに おしおいけ〜(丸太町・竹屋町・夷川・二条・押小路・御池) あねさんろっかく たこにしき〜(姉小路・三条・六角・蛸薬師・錦) し〜あやぶったか まつまんごじょう(四条・綾小路・仏光寺・高辻・松原・万寿寺・五条) 南北の通り唄は憶えていませんが、ひとりで歩き回っても迷子にならなかったのは、通り唄と碁盤の目状に区画された街並みのおかげだったのでしょう。 戦中・戦後の混乱期、おとなの労苦は並大抵なものではなかったでしょうが、子供は好奇心が旺盛で、朝から晩まで戸外で楽しく遊び回っていました。 小学生の記憶 小学校に上がる頃からの記憶の量は幾何級数的に増加します。 格致国民学校の担任のY先生は年配の女丈夫で薙刀師範。放課後の校庭で、鉢巻・袴姿になって木製の薙刀を振るって演武されるのを頼もしく見ていましたが、習字の時間には「鬼畜米英」などと書かされたものです。 今になって思うと、小学一年生が難しい漢字を書いていたものですね。 丸く黒いセルロイドメガネをかけた中年のひ弱な感じの先生が、全校の万歳三唱に送られて出征したばかりなのに、日ならずして、名誉の戦死を遂げられました。 先生は、ご長男とおぼしき男の子が抱える白木の箱に入って帰還され、校門の前でお迎えしました。 淋しいけれど 母さまとぉ〜 (皇軍将士に感謝の歌) 子供たちが教室で声を張り上げて斉唱する、こんな時代は真っ平御免です。 京都でも、昭和20年1月16日の夜、東山の馬町に空爆があり大空襲の危険が間近に迫っていたので、小学校に入学して間もなく、兵庫県香住町にある母の実家のO家に疎開することになりました。 見送る父とチンチン電車に乗って京都駅に向かったところ、突然、母が手前の西洞院七條駅で下車すると言い出し、父母と手をつないで歩きましたが、もう会えないだろうと悟っていました。 後に知りましたが、京都は、広島、長崎、小倉、新潟、横浜とともに原爆投下の目標都市に選ばれていて、大空襲に遇わなかったのは原爆の効果を検証するためで、京都駅の西、今は公園になっている「梅小路機関車庫」が原爆の目視投下に適した照準点にされていました。 戦争が長引いて3発目か4発目の原爆が京都に投下されていたら、爆心地から2qの距離にある我が家は、熱線により父と共に跡形もなく蒸発していたことでしょう。 8月15日の玉音放送は、O家の玄関先に持ち出されたラヂオの前に集まった村の衆に混じって聴きましたが、戦に負けた悔しさや悲しみよりもなにかほっとした雰囲気が漂っているのを感じました。 今年は戦後70年。時の流れは速いですなぁ。 帰京したら、「鬼畜米英」の習字は「民主主義」に変わっていて、子供心にも違和感を覚えましたが、先生方もさぞかし困惑されたことでしょう。 教科書は、不適当な部分に墨を塗って使うことになりました。 アカイ アカイ アサヒ アサヒ ハト コイ コイ ヒノマルノ ハタ バンザイ バンザイ
チテ チテ タ トタ テテ タテ タ
(モンブシャウ ヨミカタ 一) 教科書が不足していて、燐家の写真館「獨立軒」のお姉さんから譲ってもらい、汚さぬように大切に使っていて、塗りつぶすのに抵抗したおかげで、本棚の片隅に現存する私の教科書は原文を留めています。 また、新制度下の教科書は製本が間に合わず、二年生の教科書(よみかた 三、四)は、新聞紙大の紙に数ページ分が印刷されたものを切り分けて綴じ込んで使いました。 Y先生からは、土人の兵隊にニグロと言ってはいけません、殺されます。女子生徒は髪を切り男装をして家に閉じ籠もっていなさい、などの注意がありましたが、丸坊主になった子は見かけませんでした。 今は指定暴力団となった侠客「会津小鉄会」のお兄さんたちが、無力化された警察に代わって町を見回っていましたが、かねがね銭湯などで復員した兵隊さんや大陸からの引揚者から敗者の悲劇を聞いていたので、よからぬ事が起こりうることは覚悟していました。 世情が少し落ち着いた頃でしょうか、鬼畜と教えられていた米軍が、烏丸通四条下ルに「COCON烏丸」として現存する「丸紅ビル」を接収して駐留していたので、怖いもの見たさに近づきました。 生まれて初めて目にした米兵たちは雲をつくような大男でしたがやさしく、Y先生が土人と表現した黒人兵は、少年漫画「冒険ダン吉」に描かれたように裸に腰蓑を付けて槍を持つイメージがあったので、軍服を着て堂々としている姿を見てしばし戸惑いました。 時々、ノミやシラミなどの防疫対策として、頭からDDTの白い粉を噴霧器でシュッシュツと振りかけられましたが、誰かから聞いた「ギミ、ギミ」や「ハバ、ハバ」と言って近づくと、気前よくチョコレートやコーンビーフの缶詰をくれました。そして、缶切りを使うことなく帯状に巻き取って開缶する仕組みには感心しました。 世の中にこんな美味いものがあるのかと感動しました。ほっぺたが落ちましたねぇ。 家に持ち帰って父母に話すと、乞食のような真似をするな、とたしなめられましたが、子供のはじける笑顔に免じて黙認していたようです。 乞食と言えば、この頃、四条大橋に、両下肢を切断した傷痍軍人と梅毒で鼻が欠けたと言われていた老芸者がちんまり座って三味線を弾いて物乞いをしていましたが、京都にお住まいだった方は憶えていますか。 途上国を旅すると、物欲しげな顔をした子供たちが片言の英語や日本語を口にして寄ってきますが、当時のことが思い出されてなんとも複雑な気分に襲われますねぇ。 「ギミ」は「Give me.」に間違いないと思いますが、「ハバ」は「Papa」の聞き間違えか、「Do you have a・・・?」の Pidgin English か、と推測しますが分かりません。 四条通は、信号も少なく自動車はほとんど見かけず、荷馬車や大八車が往来し、馬糞がころがり、痩せ細った犬がうろつき、人々が随所で横断し、子供たちが遊びまわる自由な空間でした。 しかし、ジープなどの米軍の軍用車両が往来し、四条烏丸の交差点でMPが手信号で交通整理を始めた頃から、歩道に無粋な柵が設けられて車道で遊ぶことが禁じられました。 4年生になると、担任が、特攻隊員として敗戦を迎えたM先生に代わりました。 やさしい先生でしたが、Y君が目に余る悪さをし続けたために全員が床に正座させられ、彼の悪さを止められなかったのは自分も含めてみんなの責任で、恥ずかしくも生き残って教師となった者として、戦死した戦友に申し訳ない旨の長い説諭が涙ながらにありました。足の痺れと痛さは半端じゃなかったですよ。 今なら、体罰だとして問題になるでしょうが、私は、M先生の生徒に向き合う真剣な姿勢と、先生も正座の痛みに耐えておられたのが分かっていたので得心していました。そして、Y君は悪さをやめました。 いつの間にやら、日本人のIdentityの芯を形成していた「恥の文化」もすっかり影が薄くなりましたね。 小学校では吹奏楽部に所属してトランペットを吹いていましたが、「La Vie en rose (ばら色の人生)」の楽譜を手に入れてひとり楽しんでいました。 6年生のある日、学校から幌付きの軍用トラックに乗せられて、岡崎の勧業会館(現「みやこめっせ」)に収容されていた朝鮮戦争の傷病兵を慰問したことがあります。 広大なホール一面にベッドが並べられ、白い病衣を着た何百人もの傷病兵がずらりと横たわる光景は異様でしたね。 予定の曲目を演奏し終わったとき、思いがけずアンコールの拍手が沸き起こり、指揮のN先生が咄嗟に私を指さして、「沼田君。La Vie en rose」。 無我夢中で独奏したときの胸の鼓動と高揚感、異郷の地で療養している彼らの心の琴線に少しは触れたのか、暖かい拍手に包まれたときの達成感は忘れられません。 Hold me close and hold me fast La vie en rose は、Louis Armstrongの演奏と歌が好きですね。ついでながら、Sarah Vaughanのバラードもよろしおすなぁ。心が和みますよ。 小学生も学年が進んでくると、女児が男児に先んじて成長する時期があります。 同級生に相撲がめっぽう強い男勝りのMさんがいて、クラス対抗戦でエースと目されていた私が対戦を棄権したために負けてしまいました。 級友からは彼女が嫌いなのか、女の子に負けるのがいやなのか、などと詰問されましたが、幼児の頃から心の奥底に潜む女の子と言う特別の存在を彼らにうまく説明できずに忸怩たる思いをしたものですよ。 変わった奴だと思われたのか仲間外れにされましたが、全く意に介することはありませんでした。 ところで、「谷口酒店」の近く、花見小路通四条上ルの東側の一角には祇園乙部として知られた遊郭(赤線)がありました。 おとなからは、「家の入口にはお婆さんがいてやさしく手招きするが、実はこれは鬼婆ぁで、中に入ったら取って喰われるから絶対に行かないように」と禁じられていました。 しかし、そこは好奇心旺盛な子供のこととて遊び仲間を誘って探検潜入したところ、聞いての通り、やり手婆さんが、子供の私達にもニコニコと声をかけて、おいでおいでと手招きするのを見て怖くなって逃げかえりました。 静かで、はんなりした風情の祇園甲部から道路をひとつ隔てた場所に、鬼の住むおどろおどろしい別世界が存在するのを肌身で感じた衝撃は忘れられません。廓に漂うオトやニオイからして違うんですよ。 隣の町内に、お歯黒を染めたお婆さんが一人いましたが、人肉を喰いちぎった歯に見えて怖かったですね。 中学・高校生の記憶 母校の京都市立郁文中学校の学区内には島原遊郭があり、その界隈に住んでいた同級生のNさんの親戚が、今では国の重要文化財に指定されている揚屋(あげや)の「角屋(すみや)」を経営していました。 ある日、花魁を観に来ないかと誘われて廓に入りましたが、大門をくぐるときには鬼婆ぁの記憶がフラッシュバックしてきて、それはそれは緊張したものですよ。冷や汗が出ました。これは、PTSDの一症状だったのでしょうかね。 少子化の影響を受けて、平成3年に格致小学校が、平成8年に明倫幼稚園が、平成19年には郁文中学校が、いずれも廃校になりましたが、明倫幼稚園のレトロな建物は保存されていて、その前を通ると懐かしさがよみがえります。 ちなみに、京都市の公立小学校の校名は平安京の坊名や論語など四書五経から選ばれたものが少なくなく、例えば、「有隣」は論語、「銅駝」は坊名から採られたそうですが、「格致」は「大学」の「格物致知(物事の道理や本質を深く追求し理解して、知識や学問を深め得ること)」に由来し、その書が学校の玄関先に掲げてあった記憶があります。 また、この小学校は、日本洋画界の巨匠・梅原龍三郎を輩出したことを誇りにしていて、寄贈された作品が校長室に掲げてありました。 京都市立堀川高校に入学した頃は、将来の進路として京都大学で理論物理学を専攻しようと考えていました。 宇宙の成り立ちに興味を持ち、戦後間もない昭和24年、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士に深い尊敬の念と強い憧れを抱いていたのです。 湯川博士や Albert Einstein のことを、しきりに口にするものだから親がみるにみかねてか、理論物理学の世界で、湯川教授と並び称された大阪大学の伏見康治教授の大学院生であった、徳岡先生(後に京都大学工学部教授)が近くに住んでおられたので、数学の家庭教師をお願いしました。 先生のご指導よろしきを得て、2年生が終わる頃には大学レベルの問題を解くまでになり、また、物理学の歴史や最新の知見、学問の厳しさや楽しさなどを聞くにつけ、研究生活への夢と希望がふくらんで、すっかりその気になっていました。 堀川高校は、公立高校にしては珍しくスポーツにも力を入れており、硬式野球部が昭和31年の春の甲子園大会に選抜されて出場しました。 青森県の八戸高校に3−2で惜敗してベスト4入りを果たすことはできませんでしたが、三塁側のアルプススタンドに陣取って声援を送ったのも忘れられない青春のひとこまです。 私は、硬式テニス部に入部しましたが、朝夕の厳しい練習と睡眠時間を削っての勉強による過労が原因となったのか体を壊してしまいました。 このときの主治医が実に人間味あふれる本学出身のK先生で、ひとの命を救い病を治す医学の素晴らしさを諄々と説いて医学部への進学を強く勧められたのが契機となり、親と徳岡先生の賛意を得て、ころっと進路を変更してしまいました。 そして、尊敬の対象に野口英世とAlbert Schweitzerが加わりました。 もちろん、京都大学入学後は湯川教授の講義を何度か聴きに行きましたよ。 大学生の記憶 京都大学医学部進学課程に入学した昭和33年4月1日、粋人で政財界のフィクサーとして名を馳せた菅原通済氏せが主導した売春禁止法が施行されて赤線は廃止されました。 中書島にあった赤線の娼家の中には下宿屋に転業したものも少なくなく、近くに、京都大学の教養課程1年生が通う宇治・黄檗の分校と深草の京都教育大学があり、両校の学生が入居しました。 仄聞したところでは大学が斡旋していたらしいのですが、もしこれが事実ならとんでもないことです。 総長をされていた尊敬する我らの平澤興先生のお耳には達していなかったと信じますが、大学の事務当局者は、孟母三遷の教えを知らなかったのでしょうか。 転職できずに居残った娼妓や遺り手婆さん、さらにはその筋のお兄さん達にとって、地方から、ぽっと出てきたおぼこい若者を籠絡するのは赤子の手をひねるようなものでしょうよ。 吉原、島原と並んで日本3大遊郭のひとつと謳われた長崎の丸山遊郭では、妓楼がユースホステルに転業して話題に上がっていましたが、一夜の宿ならともかく学生下宿だけはいただけませんねぇ。 現に、この地に下宿したN君には転居を勧めましたが後の祭り。間もなく、身を持ち崩して退学してしまいました。 あたら有意の人材を失い残念でなりません。不憫ですね。その後、彼はどのような人生を送ったのでしょうか、脳裏を離れません。 皆さん憶えていますか、大学に入学した昭和33年の春、第一回のクラス会が「清洲旅館」で開催されてすき焼き鍋をつついたことを。 そこで、S君が皆の求めに応じて歌ってくれた、たわやかな琉球民謡はよかったですね。浜辺の恋歌でしたっけ。 タイからの国費留学生の亡V.D君から、タイ語で猫は「ミャオ」、カラスは「ガー」、豚は「ブー」と言うんだ、と聞いて盛り上がりましたね。 もうひとつ。教養課程の英語の授業でAldous Huxleyの小説「Ape and Essence」を学んだことを憶えていますか。 私は、英語の小説を原文で精読するのは初めての経験で、面白く、これで大学生になったことを実感したものです。 文中の単語「snob(えせ紳士)」を巡って、snobに批判的な作家の思想や歴史的背景の解説がありました。先生の「君たちは、noblesse obligeの精神を忘れてはいけません。決してsnobになってはいけませんよ」との戒めは、凡俗の私には難しいことですが肝に銘じています。 教養課程を終えて医学部に進学した頃でしょうか、K君と連れ立って裏千家のK宗匠のもとでお茶を習ったことがあります。 厳冬のある夜、法然院の茶室で開かれた「夜咄し」の茶事に招かれました。 予備知識が全くなく堅苦しいイメージを抱いていた茶事で、心づくしの懐石料理や程よく燗を付けたお酒までふるまわれたのは予想外の驚きでした。 さらに、ろうそくの薄明かりのなかで、「お炭」から始まり、粛々と運ばれる宗匠の美しい所作にすっかり魅了されました。ひとつひとつ断片的に習ってきたお点前が、ストーリー性を帯びて流れるように繋がるのです。 和洋中のフルコース料理は数多く楽しみましたが、この季節、この時間、この場所ならではの「一期一会」のフルコースは、日本文化の真髄が凝縮された異次元のおもてなしでしたね。 お正月にY君に招待されて韓国流のおせち料理をごちそうになったことがあります。 韓国料理は、ニンニク臭くピリピリ辛いだけの国産キムチと焼肉くらいしか食べたことがなかったので、お母様と奥様が丹精を込めて作られた色とりどりの料理が食卓にずらりと並べられていたのも新鮮な驚きで、そのおいしさは忘れられません。 後日、韓国の生命保険会社に招かれて、豪奢な接待を受ける機会が何度かありましたが、鮮明に憶えているのはY家の手料理です。 また、夏休みに、旅行の途上、島根のW君や新潟のS君を訪れて歓待を受けたのもこの頃でした。 お迎えいただいたお母様の笑顔と、日本海の厳しい風雪に耐えた風格のあるお屋敷が印象的でしたね。 四条堀川の記憶 私の生まれ育った家は四条通堀川東入柏屋町にあり、東京での社会保険審査会2期6年の単身赴任期間を除き、ここに住んでいます。 京都市内の主要道路は、明治から大正にかけて、市電を通すなどの都市計画のために拡幅されました。 四条通は主に南側が拡幅されて土蔵や離れだけが残った家が多く、祖母は「お向かいの家は、うなぎの尻尾だけにならはった」と言っていましたが、幸い、我が家は北側に位置していたために「尻尾」になることを免れました。 豊臣秀吉が課した間口税に対抗する庶民の知恵と伝えられる、間口が狭く奥行きが深い、母屋・坪庭・離れからなる典型的な「うなぎの寝床」の町家でした。 なにかと便利なロケーションにあるので気に入っていますが、祖父の代までは新町通四条上ルで「沼田黒染工場」を営む放下鉾の町衆でした。 ちなみに、放下鉾は、鉾頭の飾り物が伝統の和菓子「州浜」の断面に似ていることから地元では、「すはま」と呼んでいます。 父は、若い頃に「すはま」の囃子方で笛を吹いていたことがあり、祇園祭の頃にせがむと、懐かしそうに横笛を取り出して聞かせてくれましたが、山鉾巡行のお囃子は八坂神社に向かって進むときは遅く、帰路には速く奏でるんだそうです。 なお、父にはお稚児さんの話がありましたが、家の経済的理由で果たせなかったことを残念がっていましたね。 真偽不明の言い伝えでは、柏屋町にも、山鉾「桂」があったそうですが、焼失して今はありません。 昭和56年に蟷螂山が、昭和60年に隣町内の傘鉾が、昨年には、150年ぶりに大船鉾が復興しましたが、残念ながら「桂」は復興の兆しも見込みもありません。 昨年、祇園祭を締めくくる「後の祭」の山鉾巡行が49年ぶりに復活しました。 私は、京都盆地特有のじめじめとした梅雨が明け、7月17日の「先の祭」の華のある賑わいから、24日の心静まる「後の祭」と、夕刻にド〜ン ド〜ンと低く鳴る太鼓の音に先導される神輿行列を自宅前で見送る「還幸祭」を経て、8月15日の「五山の送り火」に繋がる一連の季節感の変化を愛でていただけに、「後の祭」の山鉾巡行復活は、Missing-linkのひとこまが埋まったような喜びを感じます。 それにしても、♪♪コンコンチキチン ♪コンチキチン ♪♪チキチンチキチン ♪コンチキチン のお囃子を聴くと、自然にテンションが上がりますなぁ。 また、子供の頃の「大文字焼き」は、自宅二階の物干し台から遠望することができましたが、いつの間にかビルの群れに隠れて見えなくなりました。 今は、御所の蛤御門から望む姿が気に入っており、毎年、ここから先祖の霊を送っています。 季節感と言えば、暮れからお正月にかけての一連の行事も懐かしいですね。 家族そろって南座の桟敷で「顔見世」を観劇した後、「松葉(1861創業)」のにしん蕎麦、ときには円山公園の「平野屋本店(300年前に創業)」の芋棒、裏庭での餅つき、知恩院の除夜の鐘を聞きながら氏神様の八坂神社への「をけら詣り」、神火を消えないようにぐるぐる廻して持ち帰った火縄、その種火で焚きつける「おくどさん」、お雑煮は、元日が隣町内の「石野(1781年創業)」の白味噌仕立てで2日からはすまし汁、何段にも重ねられた重箱にぎっしりと詰められたおせち料理、黒と朱塗りの漆椀、お屠蘇の甘い香り、自分の名前が書かれ水引のついた箸袋と白木の祝い箸、2日の事始め、そして七草粥。 節分には豆まきをして自分の年齢よりも1つ多く豆を食べ、鰯も食べましたね。 また、水無月を食べる日(6月30日)、おからを食べる日(月末)、かぼちゃを食べる日(冬至)なんかもありました。 これらのしきたりは、「おくどさん」がガスコンロに切り替わるなどの生活環境の変化、食生活や嗜好の多様化、「ハレとケ」の境界の緩みなどによって、いつの間にかひとつひとつ姿を消し、新たに、恵方巻き、ボージョレヌーボー、クリスマスケーキ、バレンタインデーのチョコレートなどが登場しました。 土用の丑の日のうなぎの蒲焼だけはかろうじて残っていますが、うなぎが絶滅危惧種に指定されてからは、食するのがはばかられるようになって来ましたね。 長らく日本人の正装であった紋付・羽織を染めあげる黒染業も、和装が洋装にとって代わられるにつれて衰退し、「沼田黒染工場」は廃業に至りました。 父は薬剤師になり、京大病院、宇多野療養所の薬局長を経て、昭和の初期に今の場所に移って「大京薬局」を開業し、家内があとを継いでくれましたが、私のリタイアにあわせて自由な時間を確保するため6年前に廃業しました。 なお、ひとり娘は獣医師になり、堀川通寺之内上ルで「カイ動物病院」を開業する同級生の夫君を補佐しています。 2人の孫とともに3世代が同居していますが、彼ら一人ひとりの大脳新皮質に遺るこの地での長期記憶が、心豊かで平和なものであってほしいと願っています。 四条通には大宮から祇園まで、さまざまな特色のある小売店が軒を連ねて賑わっていましたが、ほとんどの店が、平成10年に施行された大店立地法による大型店の進出規制の撤廃・緩和などの影響も受けてじりじりと廃業に追い込まれ、昔日の面影はありません。 柏屋町にも、青果物、魚、鶏肉、和装紙、蒲鉾、和菓子(2軒)、焼印・刻印、糸、文房具(2軒)、洋食、和食、中華料理、電器、洋服仕立て、刷毛、運輸(日本通運)、金物(2軒)、理髪、美容、銭湯、茶、薬、寿司などを生業にする店が軒を連ねていました。 ちなみに、「T刷毛店」は妻妾同居の家族でした。当時は、お妾さんも珍しくなく、クラスに一人くらいはお妾さんの子がいたものですよ。 日常の買い物は、ほとんどを町内の店で賄うことができ、気心の知れた暖かい庶民コミュニティーが形成されていましたが、いつの間にかビル、マンションや駐車場にとって代わられました。 古くから残っている店は、和菓子店「亀屋良長(1803年創業)」と戦後の開店から3代続く「楊中華料理店」だけになりました。 なお、この老舗にはK君のお嬢様が嫁いでおられますが、私は、子供の頃から親しんだ素朴なお饅頭「大文字」の柚子香りが好きですね。 柏屋町のコミュニティー機能は衰退しました。 マンションの住民は町内会に加入せず、町内会員の高齢化が進んだために運動会などの校区の諸行事に参加できなくなっただけでなく、伝統的な仏事や神事などの行事運営もままならぬようになってきました。 京都の古い町内では、8月の「地蔵盆」と11月の「お火焚さん」が季節の風物詩として親しまれています。 柏屋町では、それぞれ大日如来を祀る「大日さん」と秋葉権現を祀る「秋葉さん」があって、「秋葉さん」では、お供えのミカン、柚子香りの三角おこし、焼印が押された紅白まんじゅうの三種のおさがりが子供たちの楽しみでした。 昨年の11月7日に、秋葉権現を祀っていた小さな屋形のお社の取毀清祓式が八坂神社の神官によって執り行われました。 神道のことはよく分かりませんが、神様はどこに行かれたのでしょうか。八坂神社に移られたのでしょうか、あるいは、静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社に還られたのでしょうか。 そして、街角で子供たちの健やかな成長をそっと見守ってきたお地蔵様も、やがて壬生寺で余生を送ることになりそうです。 祇園の記憶 大学への通学には、四条通、東大路通、今出川通、千本通を循環する「1番系統」の市電を利用していましたが、帰路に祇園で途中下車して、「谷口酒店」に紹介してもらったお茶屋「ひとみ」に出入りするようになります。 「ひとみ」は「谷口酒店」の燐にあり、世間知らずの若造が無茶なことをしないよう目の届くところに、との配慮があったのでしょう。二十歳の春でした。 女将は、ぽっちゃりとした色白の名花で、明るくて話題が豊富、京ことばも洗練されて美しく、家内も魅了されていましたが、外科の某教授や内科の某講師なども贔屓にしておられたので、お相伴にあずかった方もおられるかもしれませんね。 子供の頃にままごと遊びをした女の子達にも再会しました。 蛹が見事な蝶に脱皮して舞う姿を見てただただ驚嘆しましたが、怪我をさせた女の子は特定できませんでした。 ここで出されるお酒は、増田徳兵衞商店(1675年創業)の「月の桂」でした。 よく冷えた濁り酒の上澄みを初めていただいたときには、発酵した炭酸ガスが小気味よく味蕾を刺激し、シャンパンよりも美味いなぁと思ったものです。 また、酔いざめに出された「原了郭(1703年創業)」の「御香煎」は、京都らしいおもてなしの一服でした。 公卿や茶道との関わりが深かったこともあってか、京都には創業何百年の老舗が多いですね。 そして、「月の桂」の清酒は、さっぱりしていて飲み飽きず、自宅で飲む酒の定番になりました。 ぬる燗で香りを楽しみながら好みの猪口でチビチビやるのもよろしいが、馬上杯か薄手の清水焼の小鉢にかち割り氷を敷いて、ひたひたとオンザロックですするのが好みです。 私は、あまねく日本酒は好きですが、この酒が手元に無いとなんとなく心寂しくて、近くの酒店に置いてないと伏見区下鳥羽にある醸造元まで買いに行く始末です。 毎年12月〜3月の4か月間はスキーを楽しむために北海道北広島市に移住しますが、これは手放せません。東京での単身赴任中もそうでした。これは、きっとアルコール依存症の一徴候なんでしょうね。 医者になりたての昭和40年から、藤本義一氏や大橋巨泉氏が司会をしていた深夜番組「11PM」が始まり、祇園で舞子や芸妓をしていた安藤孝子さんが艶やかな着物姿でアシスタントを務めて人気を博していました。 彼女は、後日、女将になって「谷口酒店」のお向いにお茶屋「孝子」を開きましたが、生まれが大阪であったためか、界隈ではなかなかうまく受け入れられなかったと聞きます。 廓には、若くして女将になった「おたかさん」の成功をやっかむ気持もあったかと思いますが、お客様の話やプライバシーが外に漏れないことを誇りにしていた、祇園の純血主義と閉鎖性を物語るものとして記憶に遺っています。 この番組には、大阪赤十字病院内科の木崎国嘉先輩(昭和7年卒)が「木崎ドクター」の名でレギュラー出演していました。 たまたま、羽田・伊丹間の機上で席が隣に合わせになって話が弾み、「わしの後釜をやらんかね。紹介するよ」と言われました。冗談とは思いましたが、そちらの道に入っていたら、私の人生はどうなっていたでしょうかね。 大学院生の記憶 大学院では公衆衛生学を専攻し、山下節義助手(後に奈良医科大学教授)のご指導を受けることになりました。 数年に一人くらいしか入らない教室に、K君とT君、後に内科から亡H君が転入し、また、後輩のT君やM君も加わってにぎわっていました。 西尾雅七教授は、丹波篠山の醸造家ご出身の酒豪で、祇園石段下の路地にある小料理店「うめ鉢」によく誘っていただき、学問のことはそっちのけで、酒や人生などについて親しくご指南いただきました。小さい教室ならではの師弟関係でしたね。 終電もなくなり、心地よい夜風に吹かれながらふらりふらりと歩いて帰ったことも少なくありません。 先生は、「Dewar's White Label」を愛飲されていましたが、ロンドン大学に留学されていたときに極められた、スコッチウヰスキーの造詣を懇々と説かれ、二次会を六地蔵のご自宅に移すと、秘蔵のボトルの数々を惜しげもなく試飲させてくださり、まるで、ソムリエ養成学校の様相を呈していました。 当時、ロンドンに行くには、神戸からマルセーユまで日本郵船の船旅とその後の鉄道の旅で40日以上もかかったそうですよ。 奥様も気さくな方で、お宅を訪問するのが楽しみでした。 後日、スコットランドを訪れたときにはシングルモルトの醸造元を軒並み梯子して回ったものです。すっかり「違いが分かる男」になっていました。 教室の先輩には、後に厚生省の公衆衛生局長と医務局長を歴任する大谷藤郎課長(昭和27年卒)や寺松尚課長補佐(昭和35年卒)がおられて、来京されると教室行きつけの先斗町の「ますだ」の2階で飲み会がもたれました。 名物女将の「おたかさん」に「おきばりやっしゃ〜」と背中をバシバシ叩かれながら、「おばんざい」をあてに、大振りの重量感のある徳利に入った広島の銘酒・賀茂鶴の樽酒を冷でぐびぐびと飲み交わしながらスケールの大きいお話に聞き入りました。 西尾先生は、毛沢東の側近であった医師・文人の郭沫若と親交があり、贈呈されて教授室に掲げてあった直筆書「医即仁」の意義を説かれ、寺松先生は、医務官僚の大先輩である後藤新平の人物、業績、言動を熱く語り、中国古典の一文「上医医国、中医医民、下医医病」を引いて、「上の医」たるべき公衆衛生医の役割を強調されていました。 臨床の先生が「下の医」なんかと言われたら気分を害するのでは、と問うと、「医と言っているのであって、医者とは言っていないよ」との禅問答のようなお答えがありました。 後に、「らい予防法」廃止(平成8年)に大きな役割を果たすことになる大谷先生は、弱者の視点から物を見ることの重要性を語り、お二人には、国家の厚生行政を背負っている自負心や使命感と気概を強烈に感じましたね。 とにかく、上下の関係なく酒を酌み交わしながら、侃侃諤諤と天下国家を論ずるのが大好きな自由闊達な教室でした。 「ますだ」には今も飲みに行きます。息子さんに代替わりをしていますが、店構えも、お酒も、料理の味付けも昔のままで嬉しいですね。これも京都の良さでしょう。 西尾先生は、公衆衛生学は、戦後に米国から輸入した実践医学であって独自の学問としては成り立ちづらく、英・独流の「社会医学(Sosial Medicine)」を目指すべきであり、そのためには、社会科学と医学の融合が大切だ、と力説されていました。 当時は、公害による健康被害が深刻な社会問題になり、医学のみでは根本解決が得られず、資本主義の矛盾に起因するのではないかと感じていたので、ハイ、ハイなどと気軽に同調していたら、ある日、教授室に呼ばれて、経済学部の山岡亮一教授に紹介してあるから、今後は、そちらで広く社会科学を勉強するようにと命じられました。 山岡先生は農業経済学がご専門で、「革新知事」の元祖・蜷川虎三京都府知事のブレーンを務め、後に高知大学の学長に就かれたマルクス経済学の重鎮でした。 なお、当時の経済学は、京都大学や東京大学では、資本主義を検証しようとするマルクス経済学が主流であり、資本主義を前提とする近代経済学(ケインズ経済学)は、統計や計量を操る学問なのでコンピューターの進歩・普及を待つ必要がありました。 ご挨拶に伺うと、マルクスの「資本論」は岩波書店の向坂逸郎訳(全9巻)をゼミで使用するから購入し、アダムスミスの「国富論」は経済学の源流であり、エンゲルスの「イギリスの労働者階級の状態」は「資本論」の背景を理解するのに役立つから購読するよう勧められましたが、 「イギリスの労働者階級の状態」は、日本の国民健康保険法(昭和36年に施行)のお手本とされた英国のNHS(国民保健サービス)制度の歴史的経緯を理解するのにも役立ちました。 そして、中野一新助手(後に京都大学経済学部教授)のご指導を受け、フィールドワークの場を京都市近郊の亀岡市に定めて「兼業農家」の研究をすることになりました。 私は、もともと理系性向で商業地区に育ったので、農業は言うまでもなく、マルクスや共産主義には関心も知識もなく、全く埒外の道を歩いてきたので戸惑いがありましたが、経済学に身を浸してみると結構面白くて一心不乱に勉強しました。 それまで無縁であった法学部、文学部など法文系の研究者との交流も生まれて新鮮でした。 時計台キャンパスには、医学部とは全く異なる価値観と空気が漂っていて、農耕文化と狩猟文化との違いとでも言えばよいのか、同じ大学なのに数百メートル離れただけでこんなにも違うのかと驚きました。医学や医療も社会科学の文脈に挿入してみると全く別のストーリーが見えるのですよ。 これこそ単科大学では得られない総合大学のメリットだと実感しましたね。 そして、視界が複眼的に広がり、社会の見方や人生についての考え方もずいぶん変わりました。 折しも、東大医学部での学生処分が端緒となって大学紛争が全国的に広がりました。 時計台キャンパスで医学部紛争の意義を問われて、前時代的な医局講座制によるガバナンスのありようや医局員の労働実態、形骸化したインターン制度などの問題点を縷々説明して理解を求めたのを思い出します。 それはそうと、紛争の最中に、時計台キャンパスに居合わせた家内とともに機動隊に追われて催涙ガスの洗礼を受けましたが、これは目鼻に沁みて痛かったですね。 文学部で心理学を専攻する若手研究者と親しくなり、統計学を教わりました。 これが、某先輩の知るところとなり、よいアルバイトがある、と医学論文の統計処理の仕事を紹介されました。 当時、京大医学部では「論文博士」制度が収束される時期にあり、開業医の先生方を中心に、駆け込み申請がピークに達していた頃でしたから、口コミもあってか、実験結果の有意差検定の仕事を少なからず請け負いました。 コンピューターはおろか、まだ電卓もなく、手回し計算機を使っての肉体労働でした。 有意差が出ない某先生の論文がありました。 その旨を告げると、なんとかならないかと請われ、いくつかのデーターを削除すれば、有意差が出るが・・・、とつぶやいたところ、是非そうしてくれ、とのこと。 くだらんことを言ってしまったなぁ、どうしたものかと紹介者の某先輩に相談したら、某先生の場合は、学位取得は箔をつけるのが目的であって、「宮内庁御用達」の看板みたいなものだ。 それどころか、患者の信頼度が高まり治療にも好影響をもたらす。さらに、某先生は、将来、研究者になることはないので「後腐れ」はなく、だれの迷惑にもならない、とのお答え。 それでも渋っていたら、ありもしないデーターを書き加えるのはよろしくないが、実験の不備によると考えられるデーターの削除は問題がない、これは世のため人のためだよ、沼田君、と背中を強く押されました。 妙な理屈だとは思いましたが、結局、都合の悪いデーターをいくつか摘除して渡しました。 頂戴した過分な謝礼は、全て酒代に消えましたが、いまだに苦い後味が残っています。 ついでながら、法文系では、博士号は研究を職業とする少数の人のみが手にする特別なタイトルでしたが、医学の世界では、「足の裏の米粒のようなもので取らないと気持ち悪いが、取ってもたいして得にならない」などと揶揄されるほど一般的なものでしたね。 海外旅行の記憶 大学紛争が終焉を迎えつつあった昭和45年〜46年のほぼ1年間、閉塞感に包まれた日本を離れて広い世界から日本を見ようと思い立ち、横浜港から米国の客船「PRESIDENT WILSON号」に乗って、東回りで世界一周の旅に出立しました。 世界各地の酒を味わうのもこの旅の目的のひとつでした。 老バーテンダーと親しくなり、棚に並んだボトルの利き酒をしましたが、今上天皇が皇太子時代の昭和28年に、昭和天皇のご名代としてエリザベス女王の戴冠式にご出席の途上、訪米に際して乗船されたときにここで働いていたよ、と懐かしそうに話していました。 途中、ホノルルに寄港し、サンフランシスコに着くまで2週間の楽しい船旅でしたが、デッキチェアに横たわって眺める満天の星空の美しさは感動的でしたね。 日本で観光目的の渡航が自由化されたのは、オリンピック東京大会の開催を契機に日本の国際化が動き始めた昭和39年のことで、為替レートが1ドル360円に固定され、個人の外貨持ち出し額は1000ドルに厳しく制限されていました。銀行で購入したドルの金額がパスポートに裏書されるのですよ。 さらに、円は信任が乏しく、国外では他の通貨との交換が困難でした。 そこで、国際的に高い評価を得ていた「Nikon F」と交換レンズや付属品一式を持って行き、これを売ってドルに換えることにしました。 K君のお世話でRochester大学の掲示板に張り出したところ、さっそく写真愛好家の老教授から応募があって商談成立。嬉しかったですね。 ちなみに、ドルは強く、北欧諸国や英仏など一部の国を除いて、街角のいわゆるブラックマーケットでは公定レートより有利に、国によっては2〜3倍のレートで交換できました。 今では、インターネットで海外の情報が容易に得られ、年間1700万人以上の人々が出国するようになりましたが、当時は、日本航空が発売した「ジャルパック」によるハワイや欧米の著名な都市や観光地への団体旅行が主で、個人旅行者に必要な情報が極めて乏しかったために、旅先で情報を収集しながらビザを取って、「なんでも見てやろう」精神のバックパッキングひとり旅でした。 情報は、主として旅先で知り合った米国人のバックパッカーから得ましたが、訪問予定国の「危険情報」は命にかかわることですから特に留意しました。 なかでも、旅行者の少ない東欧、アフリカ、中近東の国々の情報は貴重でした。 彼らが在外大使館で情報収集をしていると聞き、ロンドンの日本大使館を訪れましたが案の定相手にされず、米国大使館を訪ねたところ、自国民でないにもかかわらず親切に的確な情報が提供され、米国の懐の深さにはほとほと感服したものです。 海路と空路以外の交通手段は、北アメリカは長距離バス(Greyhound Bus)とレンタカー、ヨーロッパは鉄道(Eurail Pass)とレンタカー、その他は鉄道とバスを利用しました。 都市では市電、地下鉄、路線バスなどの公共交通機関を利用しながら地図を片手に歩き回ったので、すっかり土地勘ができました。 ただし、バスは経路や運賃体系が複雑で、特に、表記がアラビア語やヒンズー語だったり、田舎などで言葉が通じなかったりする所では身振り手振りで苦労しました。都会に戻ってきたときはほっと安堵したものですよ。 人々との触れ合い、見るもの、聞くもの、食べるもの、飲むもののすべてが新鮮でした。 冒険心と好奇心、体力と気力にあふれていました。若かったですね。 歩き回った国々は次の通りです。 北米(アメリカ合衆国、カナダ) 中米(メキシコ) ヨーロッパ(ポルトガル、スペイン、イギリス、フランス、イタリア、バチカン、モナコ、スイス、ルクセンブルク、ベルギー、オランダ、東・西ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ギリシャ) 中東(トルコ、レバノン、シリア、イラク、イラン、アフガニスタン) アフリカ(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、エジプト) アジア(インド、ネパール、タイ、シンガポール、台湾、英国統治下の香港、米国統治下の沖縄) この旅の途中、欧米に滞在中の級友や友人・先輩の諸氏を訪問し、心づくしの歓待を受けたひとこまひとこまは脳裏に深く刻み込まれており、感謝しています。 忘れられない数々の記憶の中から目に浮かぶ情景の一コマを取り上げますと、 K君(Los Angeles):K君お得意の手品を披露する会員クラブ K君(Rochester):Eastman Kodak本社 S君(Buffalo):インディアン居留地 K君(Boston):ドライブインシアターでの映画鑑賞 故O君(New York City):「蝶々夫人」観劇(Metropolitan Opera House) 公衆衛生のT先輩(Harrisburg):広大な老人ホーム Kさん(Montreal):素敵なレストランでの会食 Y君(Zürich): San Francesco大聖堂(Assisi) 外科のA先輩(Heidelberg):Heidelberg城 高校同級生の銀行員I君(Düsseldorf):国際金融の実務 フランスの友人P君(Paris):Chartres大聖堂のステンドグラス 各国の美術館や博物館を巡るのも旅の目的のひとつでしたが、数多くの名画を見ているうちに、ターナーとエル・グレコが好きになりました。 また、ブロードウェイ・ミュージカルの幅広い声域、張りのある豊かな声量やリズム感あふれる振付に圧倒されました。 なかでも、ベトナム反戦平和運動に共感を覚えていただけに、反戦と平和への祈りとメッセージを込めた、ロック・ミュージカル「Hair」はお気に入りのアルバムになっています。 ♪♪ボ〜ン トンツク ボンボン ツクツク♪ 切れの良いパーカッションと心地よく腹に響くベースギターが静かにリズムを刻み、軽やかな高音トランペットに誘われて女性ボーカルが歌い始めます。 When the moon is in the Seventh House そして、フィナーレの大合唱。天に届けとばかりに高らかに歌い上げます。 Let the sunshine ! 元気が出ますなぁ。 もちろん、マルクス経済学の創始者であるKarl Heinrich Marxに敬意を表して、ロンドン北部のHighgate Cemeteryにあるお墓にお参りしましたよ。 墓碑には「共産党宣言」から引用された「WORKERS OF ALL LANDS UNITE」が神々しく刻まれていましたね。 また、エディンバラのCanon Gate KirkにあるAdam Smithのお墓にお参りしましたが、Marxの盟友Friedrich Engelsの遺灰は、遺言によりドーバー海峡に散骨されたので、「ドーバー海峡の白い崖」を訪れたときに海に向かって手を合わせ、石灰岩の白い小片を記念に持ち帰りました。 当時は、東西冷戦とベトナム戦争のまっただ中でしたので、入国やアクセスが困難の国々がありましたが、国内に少なからぬ礼賛者のあった「共産国」の庶民の生活実態が見たくて、東欧のハンガリー、ポーランド、ブルガリア、ルーマニアあたりまでは足を延ばす予定をしていました。 しかし、入り口のチェコスロバキアで、「プラハの春」と称せられた民主化運動がソ連の軍事介入によって瓦解したばかりだったためか、街の空気がどんよりと重苦しく、また、どこかから監視されているような不気味な気配を感じたので、そそくさと西ベルリンに引き返しました。 プラハでは、市電の運賃と市場の食料品価格が格段に安かったのが印象的でした。 引退後は、春と秋に、過去に行きそびれた国々を中心に巡っていますが、訪問した国は57か国になりました。 再訪国も少なくなく、40年余も経つと街の姿や人々の生活ぶりはずいぶん変わりましたが、懐かしい記憶が蘇ります。 最近、再訪した中東の国で、水で割ると白濁して「Lion's milk」と称せられる蒸留酒、ラクやウーゾを知りましたが、独特のアニスの香りが京都の真夏の暑さを鎮める効用があって重宝しています。 酒は有史以前から作られていたそうですが、どこに行っても、それぞれの土地で採れる穀物、果物、根菜類、乳、蜂蜜、樹液などありとあらゆるものを原料にして酒が作られているのには驚かされます。 昨秋、パスポートの更新時期を迎え、有効期間を5年にするか10年にするか迷いましたが、健康の許す限り旅を続けたいとの願いを込めて10年にしました。 社会人の記憶 昨年は、STAP細胞騒動に明け暮れました。 1月に、理化学研究所の小保方晴子博士らが、英科学誌「NATURE」に発表し、生物学の常識を覆す世紀の大発見として世界中の注目を集めましたが、間もなく数々の捏造や改ざんが見つかりました。 12月には、理研の調査委員会が、STAP細胞は検証実験で作製できず、故意により混入されたES細胞に由来する可能性が高いと認定して幕が引かれました。 終わってみれば、この1年間、国民は、檜舞台の理研で、第一級の学者劇団によって演じられた大掛かりな科学マジックショウを観せられた感がぬぐえませんが、一体だれが奇術のネタを仕込んだのでしょうかねぇ。 この過程で、小保方博士の学位論文にも疑義があり、授与した早稲田大学では学位の取り消しが検討される羽目になりました。 研究生活を続けることのない某先生の学位取得に「後腐れ」の心配がなかったとは、このことを示唆していたのでしょうか。ご同慶の至りです。 この大騒動の陰に隠れましたが、京都府立医大、東京慈恵会医大、千葉大、滋賀医大、名古屋大ではノバルティスファーマ社の降圧剤「バルサルタン」の、残念ながら、京都大学でも、武田薬品工業社の降圧剤「カンデサルタン」の臨床データー改ざん事件が発覚するなど、臨床試験を巡る疑惑や不正が相次いで明るみに出ました。 「天網恢恢疎にして漏らさず」。怖いですねぇ。 昨年、明らかになった捏造・改ざん事件は、医学の世界にとどまりません。 9月には、朝日新聞社の社長が、従軍慰安婦の「吉田証言」と東京電力福島第1原発事故の「吉田調書」に関する記事が捏造であったことを発表して辞任しました。 実は、私も、朝日新聞社による「捏造記事」の当事者になったことがあります。 AIDSは、昭和56年8月、米国防疫センターがLos Angelesに住む若い男性同性愛者の原因不明のカリニ性肺炎を報告してから世界的関心事となり、昭和60年3月、厚生省のエイズ調査検討委員会が日本人の第一号患者を発表したときには、国内は一時パニック状態になり、国民のAIDSに対する関心が急速に高まりました。 米国の生命保険業界では保険金や給付金の支払いが急増するなか、日本でも流行が拡大する懸念があったので、疾病の予後を調査・研究する生命保険医学会にとっても喫緊の課題であると判断しました。 そこで、昭和62年に学会に研究会を設置し、欧米の保険会社を訪問する視察団を結成して、AIDSの危険選択と経営に及ぼす影響などについての知見を集めました。 帰国後、調査・研究を進めていましたが、やがてマスコミの知るところとなり、新聞やテレビで生命保険会社が契約に際してHIVの血液検査を導入するのではないかとの報道が一斉になされて、各社の記者やキャスターとの対応に追われました。 AIDSの危険選択は技術的には可能であるが、プライバシー保護や人権・差別などの問題点が多く、法制化の動きもあって、実施に当たっては業界全体での慎重な検討が必要であることなどを説明したところ、AIDSは社会的関心が極めて高いので、血液検査等の導入に際しては記者会見を開いてほしいとの要望が出されて報道は沈静化しました。 しかし、朝日新聞大阪本社の某記者だけは熱心に研究の進捗状況の取材を続けていました。 そんなある朝、朝日新聞の紙面を見て驚きましたよ。 なんと、第一面のトップにでかでかと生命保険業界が血液検査導入を決定した旨のスクープ記事が踊っているではありませんか。 生命保険協会に確認したところそのような事実はなく、この記事が捏造されたものであることが明白になりましたが、その日は、各社の記者やキャスターからの照会や質問に追われ、なかには、なぜ記者会見をせず朝日新聞社だけに情報を流したのか、と問い質す女性キャスターもいました。 ただちに、同社に抗議するとともに生命保険協会での取材を禁止しました。 同社は、社内調査の結果、捏造の事実を認めて、記者と担当役員が、今後は二度とこのような過ちを繰り返さないなどと謝罪しました。訂正記事の要求は容れられなかったものの、面倒くさくなって水に流しましたが、またまたやっちゃいましたよ。企業体質なんでしょうね。 あんたら、たいがいにし〜や。 このまんまでは「朝日創作社」になってしまいまっせぇ。 しっかりおしやす。 捏造や改ざんが顕在化するのは社会的影響の大きいものだけで、氷山のほんの一角にすぎません。 洋の東西・政・官・産・学を問わず、地位、名誉やお金の欲に誘われると、悲しいかな、愚かな人間の本性がひょっこりと顔を現して心の鏡を曇らせるのでしょう。 また、Snobbishな性格や嫉妬心、人間関係や情と言ったものが絡みつくこともありますしねぇ。 そして、苦い教訓が生かされないのも、人の性が成せる業でしょう。 だから、これは永遠に解決しない難儀な問題で、残念ながら、「浜の真砂は尽きるとも世に捏造の種は尽きまじ」と言わざるを得ませんなぁ。 思えば、級友の皆さんには公私に渉ってずいぶん助けてもらいました。感謝、感謝です。 日常の健康管理は、K君やO君のお世話になりました。 仕事の面では、結核治療が主体であった「京都府立洛東病院(東山区東大路五条上ル・平成18年廃院)」を脳血管・心疾患のリハビリ専門病院に建てなおすことになって、企画運営業務に携わったとき、趣旨に賛同してI君が加わってくれました。心強かったですね。 また、名古屋市中村区笹島で人間ドックと検診事業を営む「医療法人 日本生命ヘルスコンサルタント」の理事長を務めていたとき、この法人を手放すことになって引き受け先を探していたところ、東京都板橋区に本拠を置く巡回検診事業の最大手「社団法人 労働保健協会」が、人間ドック事業に進出する計画のあることを知りました。 会長が、濱島義博先生(昭和25年卒。日本大学医学部教授や京都女子大学長を歴任)であったことが幸いして事業譲渡はトントン拍子に進みました。 先生は、京都大学が主導してミャンマーに小児病院を建設したときの団長を務められた際に、中心的役割を果たしたS君を高く評価されていて、ぜひとも所長に迎えたいと強く要望され、お願いしたところ、神戸からの新幹線通勤もいとわず快く引き受けてくれました。 そして、大阪市西区阿波座にある「財団法人 日本生命済生会 日生病院」の理事長を務めていたとき、経営課題を抱えていた麻酔科、小児科、整形外科の運営についてアドバイスをいただいたのは、Kさん(神戸市立中央市民病院・麻酔科部長)、S君(済生会中津病院・副院長)、I君(関西電力病院・整形外科部長)でした。 さらに、社会保険審査会での障害年金の認定を巡って、専門的な立場からアドバイスや文献のコピーをいただいたのは、I君(ポストポリオ症候群など)やSさん(身体障害者のADLの経年的変化など)でした。 I君は謙虚なお人柄ですから、ご本人は多くを語りませんが、京大の旗艦病院「財団法人 田附興風会 北野病院(699床)」の新築移転(平成13年)は、常務理事・副院長として取り仕切った彼のリーダーシップと熱意なくしては果たせなかった偉業であり、縁あって財団の監事に就いて経過をつぶさに見てきた一級友として誇りに思っています。 なお、社会保険審査会の委員に就任したのは平成14年で、総理大臣は小泉純一郎氏でした。 退任するまでの間、安倍晋三氏、福田康夫氏、麻生太郎氏とほぼ1年毎にころころと変わるなか、社会保険庁の5千万件に上る年金管理事務の杜撰さが表面化し、これを端緒に同庁のガバナンスの問題点が次々と指弾されて解体・民営化され、「日本年金機構」に改組されましたが、その渦中にあって、私の人生で最も多忙を極めた6年間でした。 私は、社会人生活の大半を大阪市中央区淀屋橋にある日本生命で過ごしましたが、オーナー企業(弘世家)のよい面が生かされていて求心力と一体感がありました。 組織運営を重視する反面、既成概念にとらわれず「なんでもやってみなはれ」の社風のある自由闊達な会社でした。 また、右肩上がりで成長する日本経済の流れに乗って活気がありました。絶頂期のバブル経済も経験しましたが異常でしたね。 この会社で、様々な経験を積む機会が与えられ、素敵な仲間たちに恵まれて、のびのびと飲み、遊び、働けたことを感謝しています。また、飾り気のない大阪の人情や土地柄も気に入っています。 50歳代の半ばに、営業部門で働きたいとの希望がかなえられて、常務として法人営業部門と融資部門を束ねる仕事を担当したことがあります。 全国を走り回りましたが、出張先で、研究・教育や臨床の第一線でバリバリ活躍されている級友諸君と再会して杯を交わしたのも懐かしく忘れられない思い出になっています。 東京のK君、愛知の亡M君、S君、愛媛のM君、島根のK君、広島のS君・・・、皆さん働き盛りでキラキラ輝いていましたね。 営業の仕事には接待が欠かせません。 全国各地の料亭などで接待のやり取りをしましたが、取り分けて祇園での接待は喜ばれました。 私は、地歌舞の伴奏に用いられる三絃のべんべんと鳴り響く音色が好きですが、お客様の五感を心からもてなす祇園伝統の洗練されたしつらえと、チーム女将の各メンバーが個性豊かに醸し出す究極のテクニックとの相乗作用が創造する精神世界には格別のものがあるからでしょう。 総じていえば、東日本のお客様よりも西日本の方々のほうが親しんでいただいた印象があります。これは、基本的には、武家文化に馴染んでいるか公家文化に馴染んでいるかの違いかな、と拝察しています。 製薬会社や医療機器メーカーなどから接待を受けられた方も少なくないと思いますが、いかがでしたか。 ともあれ、長年授業料を払ってきた甲斐がありましたよ。 外国人からみた日本のイメージは、FUJIYAMA, SUSHI, GEISYAなどと言われます。 平成25年、UNESCOによって、富士山は文化遺産に、和食は無形文化遺産に登録されました。 観光立国を目指す日本です。 祇園、島原、上七軒、先斗町、宮川町などの京都の誇る廓文化と建築物のたたずまいは、世界の文化遺産に登録して保護するに足る値打ちは十分あると思いますよ。 さあ、さあ、お次は、GEISYAはんの出番どっせぇ〜。 あんじょうおきばりやっしゃ〜。 終わりに 最後に、お話を「ひとみ」に戻しましょう。 このお茶屋にはひとり娘の舞(まい)さんがいましたが、美術学校に進学して画家の道を選んだために廃業し、更地になりました。 廃業からもう10年以上経ちますなぁ・・・。 これを契機に私の祇園も終わりました。 「ひとみ」は、社会や人生を学ぶ道場で、幾多の修羅場をかいくぐった各界の達人に鍛え抜かれた女将から教わったものは多かったですね。 舞さんは結婚して1女をもうけましたが、その名は鈴(すず)。 「舞」も「鈴」も祇園の華にふさわしい素敵な名前ですね。世が世ならば、「舞千代」はんに、「まめ鈴」はん・・・どすかぁ。 そして、娘が鈴さんと中学・高校の同級生になるご縁もありました。 なお、添付した写真は、舞さんが母親の舞子時代の写真を基に彫った版画です。 近年は、舞子の希望者は少なくなり、廓出身の生粋の舞子はいなくなったと聞きます。 京ことばを表面的に操ることはできても、母語として育っていないと深い感情表現は難しいでしょうね。 また、東京や大阪などからけばけばしい資本が流入するなど改革開放の波が押し寄せ、一部の景観保存地域を除いて、雑居ビルが立ち並ぶなど街並みがすっかり変容しました。 さらに、廓の人々の生活や気質もずいぶん変わってきたとも聞き及びます。 これも不可逆な時代の流れと理解はするものの一抹の寂しさを感じますねぇ。 往時茫茫。 昭和は遠くなりにけりかぁ・・・、ほんまに諸行は無常どすなぁ・・・。 ぼちぼち、この辺でおひまにしまひょか。 今日はおおきに。 ほな、さいなら。 |
『流れにゆだねた私の卒後50年』 野阪健次郎
「京都大学医学部受験前夜」
高校時代には京大医学部への受験は自分には当然の選択と考えていた。その理由は父親が京都大学医学部出身で、3歳上の兄も京大医学部生であったからである。しかし受験が近づくと気持ちが揺れた。医者になるより高校の先生になり思春期の生徒が成長していく姿を側面から支えたいと思うようになった。小中学時代に通読した次郎物語の影響があったかもしれない。今から思えば合格に自信が持てなかったのが本当の理由であったようだ。
その既に京大の医学生であった兄に相談した。「文学部に入って小説家になったり、高校の先生になったり、考古学なんかもよさそうだし・・」 兄の言葉「文学部もよいが学校の先生では食べていけないかも・・」 その一言で進路を医学部に選択のかじ取りをしてしまった自分・・・何と単純な自分の青春!
1回目は倍率も高く見事に失敗。 単願であったため1年間の予備校生活をへて翌年に何とか医学部に入学できた。 「教師では食べられない」と助言をして
くれたその兄は医学部を卒業した後、基礎医学に入って定年まで教職を貫いた。
「本学サッカー部入部そして登山会」
浪人時代の予備校生活から入学できれば太陽の光の下でできるスポーツをしたいと願っていた。入学後躊躇なく本学のサッカー部に入部した。授業後、宇治分校から農学部サッカーグランドに通う日々が続いた。しかし自分にとってはサッカーは難しいスポーツであった。
ある日今村キャプテン(農学部)が言った言葉「おまえは腰が弱いので山登りでもしては」その言葉が生涯をアウトドアー派に変える決め手となった。
化学Bを落としたことも、引き金となってあっさりと本学サッカー部を退部した。サッカーは医学部サッカー部で続けることとなった。
そして7月下旬には医学部登山会の南アルプスの縦走に参加した。この縦走は南ア仙丈岳から馬鹿尾根を経て野呂川両俣に下り、更に北岳稜線まで1000mを登り返すという過酷なもので、最初の山行であった小生は急登、30Kgの荷物、高山病、下痢等でへばった。その時の森川キャプテンの言葉「今荷物を持ってやってもよいが今後のおまえのためにならない」何と冷たく聞こえたか。
今でも耳に聞こえるようだ。
「インターンそして整形外科入局」
医学部も何とか6年で終え長浜市民病院でのインターンを選択した。
金津和郎君と金沢大学からの江竜何某君との一軒家での共同生活であった。
週1回3人で読書会などをもした。英語の読解力が弱いうえ生理学や生化学などの形に表わせないものが大嫌いな小生には厳しいものであった。
1年間のインターン生活も終わりに近づきそろそろ将来の進路を決める段となり、同病院の整形外科部長であった葛岡健作部長に進路を相談した。
「自分は勉強が好きでない。整形外科は患者が来てからでも本で調べる余裕がありそうです。しかし不器用な自分でも務まるのか?」といった趣旨で相談した。葛岡部長曰く「外科医は不器用な方がよい。器用なのは何でもすぐにこなせるので工夫をしない。不器用であればいろいろ工夫する。それがよい」
それが整形外科専攻の決め手となった。また大学院を受験するかどうかでは「とりあえず大学院を受けたらどうか。嫌だったら何時でも辞めたらよい」とのアドバイスであった。
「整形外科大学院に入学」
整形外科の入局の年、四条の料亭の鮒鶴で同門会が行われた。新入局者は前座に座らされ、小生は伊藤鉄夫教授の隣に座る羽目となった。教授曰く「将来どんなことをしたい?」「脊髄をつなぎたい」「それは理論的には絶対不可能だ」
そんな会話をしたと思う。50年がたった最近になって、小生のあの発言はあながち出鱈目ではなかったのでないかと思うようになった。
整形外科のオーベンは田中三郎先生であった。毒舌での厳しい指導をされたが根はとても優しいリーダーであった。主治医の手術が3件あり手術記事を仕上げたのは空が明るくなってきた明け方近くになっていたこともあった。
その間病棟と研究室を何回も往復し添削を受けた。彼は小生の手術記録の完成を待ってくれていたのだと後になって気がついた。自分ではグループ意識はなかったが赤星義彦助教授、森英吾講師らの股関節グループの仕事を多く手伝ったと思う。
「大学院そして大学紛争」
大学院では研修と称して2年目からはヨゼフ整肢園と玉造整形外科病院に派遣された。ヨセフ整肢園では小児麻痺やポリオの筋肉や腱を移行したり切除したりの手術を研修した。このヨセフ整肢園時代に、家内(稲垣千代子の実の妹)と結婚を前提に交際することとなった。玉造整形外科病院には6ヶ月の約束であった。しかし6ヶ月経っても何の連絡もないので同病院の大塚哲也副院長に「自分は大学に帰っていいのかどうか」と尋ねた。「問い合わせてみる」とのことであった。大分長い日時が過ぎた後「もう帰ってきてよいと言っている」との回答であった。すぐに身支度をして京都に帰った。次の月曜日の教授の回診の前いつものエレベーター前で待っていると赤星助教授に「なんで勝手に帰ってきた」と叱責された。今だから言えるが大学は魑魅魍魎の世界だと思った。
「研究室時代」
大学院のテーマは股関節の骨梁の変化を骨の硬切片で解明することであった。犬の骨は固く硬切片はなかなかうまく作れなかった。その当時学園紛争が激しさを増し大学は事実上休業状態、外科の研究棟も全学連のアジトとなり、大腿骨頚部の骨切り術を行った術後の犬6頭と共に占拠された。使っていた骨の切片を切るドイツ製のJung Osteotomeはバプテスト病院に疎開した。
「浜松労災病院に赴任」
入局して4年半、時は大学紛争の最中、整形外科医としてメスを握ったのは植皮や抜釘術程度の数件のみ、思い余って当時人事を担当されていた小野村敏信助教授に相談した。「自分は整形外科医になるために入局したのですが、手術のできない整形外科医になってしまいそうです。どこでもよいから手術ができる病院に出してほしい」「浜松労災病院で医師が欲しいと言っているのでどうか」そのまま浜松労災病院に赴任した。労災病院では近藤鋭矢院長(整形外科前教授)や佐藤正泰部長の組み細工のような精緻な手術を見ることができた。
「天理病院への転勤」
天理病院には32歳の時、家内の腹には9ヶ月の第4子の次男がいる時に転任した。宿舎は4階で一人での引っ越しは大変であった。当然ながらエレベーターはなく、病院の応援などもなかった。一段落して着任を伝えに病院を訪ねた時、事務長が滔々と天理教の講釈を始めたので「今日は天理教の講釈を聞くために来たのではない」と一喝した。その後も天理教は好きになれなかった。
天理病院には桐田良人整形外科部長以下3人の先輩がいた。大手術が多く非常に勉強になった。特に桐田良人部長の流れるような手さばきは近づくことのできない名人の技であった。任された手術の術後、部長回診で術後のX線を見られるのが怖かった。
天理病院では桐田部長の開発した広範囲同時徐圧式椎弓形成術や脊柱分離症の桐田式の後方固定術や股関節、膝関節の人工関節等の手術を修練した。また桐田部長の命で当時慈恵医大式の人工膝関節の創始者である伊丹康人慈恵医大教授の手術の見学をした。その道の第1人者の手術の手さばきは見事であった。
「転勤 国取物語」
天理病院で4年半目に転勤の話があった。一つは島田市民病院で、もう一つは福井日赤病院であった。島田市民病院は前任の安藤太郎部長が開業された後任としてであった。当時人事を担当していた廣谷速人助教授の推薦であった。
福井日赤には伊藤鉄夫教授の推薦であったが、そこに赤星義彦岐阜医大教授が絡んでいた。この二人の思惑は相反するもので伊藤教授は福井日赤を京都大学整形外科の関連病院として維持するためであったのに対し、赤星教授は就任したばかりの岐阜医大の関連病院として、福井日赤病院を赴任する小生を含めて丸ごと取り込もうとするためであったらしい。後に分ったことである。
いわゆる昭和の京大関連病院の整形外科版国取り物語であったのだ。小生が島田市民病院を選択したことで赤星教授にはしこたま叱られた。
「島田市民病院整形外科医長に着任」
島田市民病院には昭和51年の年末の12月26日に京阪神集談会で発表した後27日に荷造りして発送、その夜は途中の養老温泉で一泊し12月28日の朝に島田に着いた。事務職員をはじめコメディカルが協力的な病院で前日発送した荷物はそれぞれの部屋に収められていた。1月1日に初出勤した。
島田に赴任する車の中で家内に「この赴任に自分を賭ける。手術などで失敗して職を失うこともあるかも知れない。それでも土方をしてでも5人の子供は守る」そのようなことを言ったと覚えている。
島田市民病院に赴任後半年ほどして整形外科教授が山室隆夫教授に替わった。52年の6月頃だったと思うが山室教授から電話があり内容は「講師として大学に復帰しないか」とのことであった。「自分はここで身を埋めるつもりできました。まだ着任して半年しか経っていないのでもう少しここで仕事をさせてください」と断わった。その後は大学への帰学の話はなかった。
島田市民病院の選択は小生にとって幸運であった。何故か? 寝食忘れて仕事に取り組める環境の病院であった。
また島田恒治病院長の卓越した経営手腕を目の当たりに見ることができた。
昭和52年1月に着任して54年3月には450床で新築、1年後には550床の病院になり、昭和63年には760床の静岡県の自治体病院で最大病床数を持つ病院となった。島田市民病院ではどんな疾患も拒むことはなかったが脊椎と股関節や膝関節などの大関節は抑えようという気概であった。
整形外科の手術件数も年々増え年間390件が1100件を越えるに至った。
その間多くの後輩が次々と着任し小生を支えてくれた。整形外科医局も2人から9名となった。 島田市民病院に転任する前に天理病院の桐田部長が語った「石の上にも3年」という陳腐に思える言葉の裏に潜んでいる重さを実感した。
島田市民病院では多くのその道の達人とされる諸先輩を招き手術の指導を受けた。山室教授のChanleyの股関節置換術やSalter骨切り術、上羽康夫助教授の腱球置換術やIsrand Flap手術、同期の渡辺秀男君の頸椎同時広範椎弓切除術など。また高倉義典奈良医大教授の人工足関節置換術等で何れも遠路はるばる手術指導のため訪ねて頂いた。また河野左宙元新潟大学教授の膝関節授動術を見学するため聖隷浜松病院を訪ねたこともあった。
「島田市民病院長に就任」
島田市民病院に着任して15年目副院長に就任した。副院長の役割は院長の影武者であると自分に思い聞かせ、徹底して島田恒治前院長を支えた。
副院長になって3年経つ頃、薬局長、放射線技師長、検査室長の3名が我が家を突然訪ねてきた。その目的は次期院長についてで「院長職の候補にあがっているが是非引き受けてほしい」という内容であった。「自分は島田院長のような管理や経営の能力がないが、もし他の医師が院長になるのであれば、この病院に対する思いや情熱は誰にも負けないと思っている」そのような内容の返事をしたと思う。院長就任は自然の流れの中での出来事であったような気がする。
院長就任の祝賀会の話があったが断わった。そのような浮かれた気分になれる状況ではなかった。同期の霜野幸雄君が副院長として献身的に支えてくれた。
「院長職の辞任」
島田市民病院では25年勤務したが定年まで3年を残して退職した。院長職は9年勤めた。院長職の主な仕事の一つは医師の確保であった。しかし平成に入ってから研修医制度が発足し研修医が大学に定着しなくなった。その穴埋めに若い医師は大病院から大学へ、中病院から大病院へとドミノ返しの流れができ、そして田舎の野戦病院には指導医も研修医もいなくなった。
島田市民病院でも内科医の確保が困難となってきた。ついに島田市民病院に糖尿病の治療のできる医師がいなくなり島田市周辺の千数百名の糖尿病患者の治療が維持できなくなった。大学院修了後早々に大学を離れ、関連病院に赴任したため大学に人脈のない自分では人材確保が厳しいと考え辞任を決意した。
また市長が市民派の桜井勝郎市長に変わったことも理由の一つであった。
箱ものが好きで目立ちたがり屋で虫が好かなかった。また病院の医師や職員の一部に不穏な動きを感じていた。京都大学医学部の田中紘一病院長と本庶佑医学部長に本心を吐露し島田市民病院のサポートを依頼すると共に辞職を申し出た。その結果西村善彦形成外科教授が病院長に着任され、彼の努力で島田市周辺地域の糖尿病診療は続くこととなった。
「老健芙蓉の丘 施設長就任」
島田市民病院辞職の直前、担当していた静岡県病院協会の理事会で理事の留任を辞退した。その後幾日か経って、その時同席していた共立蒲原病院の木村院長から共立蒲原病院に併設の老健の施設長への就任の打診があり受諾した。
老健には6月から就任した。勤務に先立ち夏に予定していたスイスのトレッキングを5月末に前倒した。しかし5月末のヨーロッパの山は冬であった。
老健「芙蓉の丘」は100床の入所患者と約60人の通所者を抱える規模であった。さらに老健の勤務に加えて整形外科外来、看護学校の講義、検診、過疎地医療の援助(具体的には朝霧高原にある国立静岡病院での辺地治療の応援)や医師会活動(意見書審査委員等)等などを手伝った。その老健の職員は施設の活性化に取り組む非常に活力ある施設であった。理学療法士の確保に奔走した。
「老健退職そして駿河西病院」
老健勤務8年して就任以降共に働いた旗持寿一老健事務長が定年退職した。その後任として蒲原病院の志田一成事務長の兼任となった。この志田事務長は一見格好よくスマートであった。しかし老健を上から見下す態度が我慢ならずしばしば衝突、また木村良一共立蒲原病院長と直談判をもした。しかし埒があかなかった。小生がいない休日に施設に足を踏み入れては職員を叱責することが多くあった。経営面でも事務長独断の決済が目につき胡散臭さがあった。
出勤時の出合いがしらの事故を契機に退職する決断をした。その後志田事務長は小生が退職した後、贈収賄容疑で逮捕、失職したとの報道があった。
退職により久しぶりの休暇を得て夫婦で海外旅行(ニュージランド)を楽しむこととした。2月に南島をレンターカーで1200kmをドライブしサイクリングやトレッキングやガーデンツアーなどを楽しんだ。(写真)
退職後それまでのアルバムの整理、料理、囲碁等を楽しんでいたが、家内が薬剤師として勤めていた駿河西病院の診療を手伝ってほしいとの依頼があった。
何の責任もない週2日のパート勤務であった。一従業員として大人しく働いた。
「掛川北病院長就任」
2年ほどして駿河西病院と同系列の掛川北病院の院長の急な退職があり、その後任として院長職就任の要請があった。人生最後のご奉仕として受諾した。
車で片道1時間から1時間半の通勤時間、週5日フルタイム勤務で週1回の当直があるなどかなりハードな勤務である。2年目に何とか10日の休暇を取ることができ前回は冬景色だったスイス旅行のリベンジを果たした。(写真)
また4月には同系列病院として掛川東病院340床が車で20分ほどの所に開院の予定であり、兄弟病院との競合をも視野に入れ組織の活性化を模索している。
「社保審査委員の辞任」
今年の5月末には24年近く担当した社保審査委員をも辞す予定です。
1次審査では検事のつもりで医療機関のミスや不正請求を暴くことに努めた。
保険者の再審査では弁護士の立ち位置で医療機関側を弁護し、再審査委員会では裁判官になったつもりでエビデンスに基づいた判断をすることに心掛けた。
長時間の審査はハードであったが、それにも増して一つの画面から医療に関わる病院や医師の医療に対する様々な姿勢や思惑を垣間見ることができた。
また他の審査委員との日本の医療のあり様についての語らいや他科の先生との情報交換など、その経験は捨てがたいものでした。
「終わりに」
卒業後、大学での研修と研究室や天理病院での先端医療の修練、野戦病院ともいえる島田市民病院での様々な挑戦、その後老健施設「芙蓉の丘」での生活機能の向上への模索、最後のここ掛川北病院ではターミナルに直面している患者さんやそのご家族との協働など。自身の人生の足跡を刻んでいる思いです。
息つく間もなくひたすら歩み続けた卒業後の50年間でしたが健康と多くの家族に恵まれた充実した歳月でもありました。(写真)
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松浦 章雄 この1年にも、何人かの39会員の訃報がありました。すでに4人に1人以上とは、随分多いなと感じます。亡くなられた方のことは、どなたにも思い出があり、いろいろ思い出しています。 私自身の近況を報告しますが、閉院して4年ともなりますと、そんなに状況が変わるわけではありません。昨年書いたものとほぼ同じです。 医師としての仕事は、行政が行う1歳6か月児健診・3歳児健診に出務するだけ。今年はそれに、ごく小さい保育園の園医の仕事が一つ増えました。 平素は、読書と散歩が日課、ほんの少しの家事手伝いや庭仕事、時に旅行といったところです。旅行は、今のうちだけ、という思いから、昨年は少し多くしました。南イタリア・シチリアへの旅や、オホーツク海沿岸を路線バスを乗り継いでの旅などが楽しい思い出でした。 今後、変化があるのは、自身の健康状態でしょう。現在のところ、幸い大きな病気は背負っていませんが、この1年で、身体的にも精神的にも、随分衰えを感じました。膝を傷め、歩くには差し支えませんが、正座もあぐらも駄目です。楽しみの山歩きはぐんと減って殆ど麓ばかり、歩く範囲も狭くなりました。 物忘れが多くなり、読書の速度が大きく低下しました。後期高齢者というのは、ネーミングはともかくとして、うまい所に線引きをしたものだと感心したりしています。 全ての面で下り坂。まあ、ゆっくり、と思いながら歩いています。 最後に、39会とも私の近況とも関係ありませんが、母校京都大学陸上競技部の最近の活躍を書いておきます。私は学生時代、陸上競技部に所属し、弱いなりに打ち込んでやっていました。京大陸上部は、戦前は、ベルリンオリンピックの三段跳で金・銀メダルの田島・原田両先輩を始め、国内有数の強豪校でしたが、戦後は低迷していました。それが、近年次第に強くなり、昨年は、中・長距離に2人のエースを擁して、大活躍をしました。全日本大学選手権(日本インカレ)では、桜井大介君が800メートルで日本記録保持者を抑えて優勝、 平井健太郎君は1万メートルでケニア人留学生1人には負けましたが、2位。京大チームは11月に伊勢路で行われる全日本学生駅伝に出場しました。私は、1区で平井君の区間賞争いをテレビで応援し、大興奮でした。2人とも3回生ですから今年も健在、また活躍してくれるでしょう。皆さんも、ニュースに注目して、母校を応援してください。 |
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お元気のことと存じ上げます。 2015年の39会(3月22日)についてですが、 どうしても都合がつかなくなりまして、残念ながら 欠席とさせて頂きます。 御連絡、お骨折り、まことに有難うございました。 御盛会をお祈り申しあげます。 2015年2月27日 水野 靖彦 |
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原子力規制委員会に大間原発の審査申請がありましたが、プルトニウム(MOX燃料)を使用する新型の原発のようです。やはり核のゴミが出ると思います。 現在、高速増殖炉もんじゅは休止中で運転はほぼ不可能の状態で,大間は初めてのプルトニウムを燃やす原発のようですが、もし運転が許可されるとするとすれば 問題点が種々あるかと思います。急な運転休止のとき制御棒を入れても休止が遅くなるとの記載があり、もし事故があり、毒性の多いプルトニウムが飛散すれば単なる原発事故の比ではないと思います。これらの問題点を素人に分かるように解説をお願いします。愚問ですが宜しくお願いします。 南 晃次より 南 晃次 様 ****より
私は、核反応炉の技術屋ではありませんので、正確な事をお伝え出来るかどうか自信はありませんが、私が存じている範囲で解説させて頂きたいと思います。 先ず、もう既に御存知の事の繰り返しになり恐縮ですが、現在エネルギを取り出す為に実用化されている核分裂反応は、中性子を重い原子核に衝突させて、中性子と重い原子核が一体となった原子核の核分裂を利用するものです。 現在、考えられている重い原子核とは、ウラン235、プルトニウム239、トリウム233改変のウラン233等です。 ウラン235プラス中性子による核分裂反応は、御存知の様に既に世界中の核反応炉で実用化されております。 この核分裂から生成される大量のプルトニウム239は、大変に毒性も強く、又、核兵器にも使われる非常に厄介なものですが、上手に使えば、核反応炉の中で、更に使う事が可能と考えられております。
そこで、核反応、中性子プラスプルトニウム239、によって出来たプルトニウム240の核分裂反応を利用する事が検討される事となりました。
この核分裂反応は、中性子プラスウラン235、による核分裂反応とは、非常に異なる点があります。即ち、中性子プラスウラン235反応では、中性子が非常に低いエネルギー(数eV程度の低いエネルギーでも)で反応が進みますが、中性子プラスプルトニウム239反応では、中性子運動エネルギーが非常に低くても、或いは又、それの100万倍も高いエネルギー(数百万eVのエネルギー)でも核分裂反応が進む点です。 中性子プラスプルトニウム239反応では、むしろ高いエネルギーの方が核分裂反応は進みます。 その為に核反応炉は次の二種類が考えられました。 1)即ち、その一つは、高速中性子を用いる高速増殖炉と呼ばれる物、即ち、もんじゅです。 2)もう一つは、低速中性子を使う核反応炉で、プルサーマル核反応炉と呼ばれるものです。この最も、代表的な物に、大間崎に新しく出来た大間原発です。 中性子プラスプルトニウム239の核反応を目的にした核反応炉燃料をMOX燃料と呼びます。只、高速増殖炉で使用するMOX燃料には、プルトニウム239が大凡30%、残りはウラン238で構成されており、プルサーマル炉で使用するMOX燃料は、プルトニウム239の含有量は大凡4%と言われています。
大間原発は、MOX燃料100%のプルサーマル炉です。従って、原則的には、ウラン235の軽水炉と同じであり、又、核分裂反応の様式も殆ど変わる事は在りません。 強いて違いと言えば、ウラン235核分裂の場合には中性子が大凡2個、プルトニウム239の場合には中性子が大凡3個放出され、これらの放出中性子が、次の核分裂を惹き起こす約割を持って居ります。従って、プルトニウム239の核分裂の方が、早く核分裂連鎖反応が生じますので、その早すぎる核分裂が爆発を惹き起こさない様に、中性子の数の制御(ボロンで出来た制御棒によって制御されています。)には注意が必要です。 この点から考えれば、MOX燃料による核分裂炉は、事故の際には特別の注意が必要であり、分裂炉には、それなりの対策が施されて居る事が大切となります。
又、核廃棄物の問題は、プルトニウム核分裂炉を使用しても、ウラン235核分裂炉の場合に比べ、大差はない様に思います。何故ならば、大間原発のMOX燃料核分裂炉は、原則的に、非常に低いエネルギーの中性子を使用した核分裂を行いますので、高いエネルギーを使用する高速増殖炉の核分裂の様に、問題となる超ウラン元素の発生確率を低くする事は出来ないのです。 この点では、高速増殖炉による原発は魅力がありますが、炉から発生する熱エネルギーを如何に技術的に上手く制御しながら取り出せかに問題が在り、結局、日本以外の全ての国では、その開発を諦めております。
高速増殖炉とプルサーマル炉を比較致しますと、まだまだ多くの利点、欠点がありますが、現時点では、安全性が高いプルサーマル炉に軍配が上がるのではないかtぽ思います。
以上、簡単に大間原発のMOX燃料100%による軽水炉核分裂炉の御話をさせて頂きました。 詳しくは、又、御会いした時にでも御話をと思います。
それでは又。 世界以下は経済不安の連鎖と化石燃料の歯止めのない消費による空気中の炭酸ガスの増加、何れも歯止めなく人類、否、地球を蝕んでいます。
異常気象の結果、気候崩壊が既に進行中です.うれしくないニュ-スばかりですが、私は確実に歳を取りました。
以下いまの心境2句
喜喜として我が歳祝う愚かもの。
よくぞまあここまで生をえたるとは。
神の情けか、仏の手落ち?
私事、小生 平成25年4月末にて
向日市の医院を閉院いたし診療を終了いたします。長らく皆様方にはお世話なり有難うございました。
〒605-0981 京都市東山区本町21-462-11
南 晃次(075-525-3)
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自宅から見た本田の森 夏 |
「穏やかな日々」 山下純宏 昨年の39会50周年記念誌で報告したように、現在は金沢市内の「浅ノ川総合病院」でリハビリテーション科の顧問として、脳卒中の回復期リハビリテーションを中心に細々と勤務している。約20年前に金沢大学関連病院として北陸地方で初めてガンマナイフを導入した施設である。自宅から東へ 2.3km位の距離にあるが、送り迎えは妻が専属運転手を務めてくれている。現在の院長は脳神経外科出身で、かつては金沢大学で私の部下として勤務したことがある。当院の脳神経外科の医師4名も全て、かつて私が主宰した金沢大学の同門である。リハビリテーション科部長も元脳神経外科医であり、かつては私の同門の一人である。昨年春に常勤顧問から非常勤顧問になり、週に三日勤務が一応のノルマであるが、大体(月)から(金)まで9時ー4時で勤務している。勤務内容は週に一回ずつの回復期病棟と一般病棟の回診に参加し、週4回リハビリテーション科内の多職種のカンファレンスに出席して、CT, MRIなどの画像に接し、時々コメントする程度のことである。院長からは「先生は元気にしておられるだけで結構ですよ」という有り難い言葉をかけられ、恵まれた環境で気楽に過ごしている。 後期高齢者なので、完全に引退して悠々自適の生活をするというオプションもあるが、幾つかの生活習慣病を有する身としては、家にこもっているよりは、何らかの形で社会との関わりを持ち続け、身体を動かし生活にリズムを作ることが好ましいと思っている。更に病院との繋がりを維持することのメリットは、自分が一人の外来患者として受診する場合に、受付のあと時間が来たら院内PHSで呼び出して貰えるので、待合室で長時間待つ必要がないことである。 月一回の医局会には出来るだけ出席して、診療実績や病院の経営方針を聞き、現状の把握に努めている。全国的にもDPC病院の稼働率が下がっているので、当院でも今年に入り、新しく地域連携病棟を立ち上げた。超少子高齢化社会を迎えて、国民皆保険制度を含めて社会保障と税の一体改革の必要性が叫ばれて久しい。しかし、仮にTPPが実施されても、日本の患者本位の社会保障制度や年金制度が、「患者をモノやカネとみなす」保険会社、製薬会社、医療機器メーカーなどの、米国の巨大資本に食い散らされることだけは避けて欲しいものである。 この一年で最も嬉しかったことは何かと問われれば、昨年12月に、金沢大学脳神経外科学講座の新しい主任教授として、私が在任中に入局し脳腫瘍の研究分野で頑張ってきた、若干44歳の中田光俊教授が誕生したことである。私が在任中に中田教授を含めて57名の入局者があり、その殆どが学位を取り専門医となり、現在では北陸三県の主要な病院で活躍している。新教授の活躍ぶりを陰から期待したいと思う。私が退官後、KM大学出身のH教授が就任し献身的に尽力されたが、不幸なことに一昨年病のため早逝された。今回の教授選の公募には、東大、東北大を含めて10以上の大学から応募があったとのことである。とにかく自分が蒔いた種が育っているという満足感を味わっている。 後期高齢者になって最近つくづく感ずることは、体力、気力、記憶力の衰えである。心がけていることは、早朝のウォーキングである。幸いなことに、直ぐ近くに「兼六園」があるので四季折々の草花や風景を愛でながらその界隈を散策している。必ず携帯するのが、iPhone6とBluetoothイアホーンである。私のお気に入りは iTunesのPodcastである。音声が聞こえている限り、iPhoneは紛失することなく自分のポケットの中に納まっていることが判るので、安心して逍遥を楽しむことができる。シャッターチャンスがあれば iPhoneがカメラに早変わりする。添付したスナップ写真は iPhoneで撮影したものである。 自宅のある本多町は、かつて加賀百万石の前田藩の家老本多家が屋敷を構えていた場所である。四階にある自宅のベランダから真っ正面に「本多の森」が見える。その手前の眼下に「鈴木大拙館」がある。世界的な仏教学者であった鈴木大拙は明治20年頃に四高時代に西田幾多郎と同級であり、終生の親友であった。雨の日曜日など暇なときには、ぶらりとお向かいの「鈴木大拙館」へ出かけ、備え付けの iPadで関連の記念講演会の動画を見るのが楽しみの一つになっている。一生の大半を米国で過ごし、膨大な量の著書はほとんどが英文で書かれたので、国内よりも国外で有名で、自宅のすぐ下の道路を通って行く訪問客には外国人が目立つ。代表作に「ZEN AND JAPANESE CULTURE」、「禅と日本文化」(岩波新書)などがある。彼が残した名言の一つに、「外は広く内は深い」がある。 「本多の森」の向こう側に「兼六園」「石川県立美術館」「金沢城公園」などがある。「本多の森」に向かって左の方に「21世紀美術館」「いしかわ四高記念館」「香林坊」などがある。本年3月14日にはいよいよ北陸新幹線が開通する。町全体にワクワク感がみなぎっている。金沢—東京間が金沢—大阪間と同じく最速2時間30分で結ばれる。便利になることは良いことであるが、仙台、新潟が経験したようなストロー現象によって、ヒトもモノもいいものは全部東京へ持って行かれることが懸念される。関西がもっと元気にならないと北陸は関東圏に呑み込まれてしまうと思われる。 上記に挙げた観光スポットはいずれも、わが家から徒歩30分位の範囲内に納まる。都会の喧噪とは無縁の穏やかな日々である。多くの観光客が訪れてくれることは結構なことであるが、古き武家文化、食文化、伝統工芸など地域に根付いた良きものはしっかりと守って行きたいものである。 何回もご連絡の労をとって頂いた栗原眞純幹事に感謝致します。写真が多くなりましたが、時々facebookに載せていますので、興味のある方は覗いてみて下さい。 (平成27年2月26日) |
自宅から見た本田の森 秋 |
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自宅から見た本田の森 雪 |
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金沢駅 |
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兼六園 梅林1 |
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兼六園 梅林2 |
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兼六園 ツツジ1 |
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兼六園 ツツジ2 |
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兼六園 ことじ 新緑 |
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兼六園 かきつばた |
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兼六園 ことじ 雪 |
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兼六園 眺望台 |
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兼六園 霞が池 |
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兼六園 高崎山1 |
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兼六園 紅葉 |
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兼六園 高崎山2 |
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兼六園 雪吊り |
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兼六園 雪吊り ライトアップ |
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金沢城 石川門 |
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金沢城 菱櫓 桜 |
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金沢城 辰巳櫓 |
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金沢城 鯉喉櫓台 ツツジ |
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鈴木大拙館 |
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鈴木大拙館 緑の小径 |
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鈴木大拙館 ライトアップ |
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白鳥路 三文豪像 |
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いしかわ四高記念館 |
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尾山神社 |
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卯辰山菖蒲園 |
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2012年モスクワにて |
身長が学生時代より、2〜3p縮んでしまっている。20年程前に、腰部椎間板ヘルニアの切除を受けた以外、特に脊椎に骨折などを生じたことはない。やはり加齢での椎間板、脊椎骨の変性が生じての結果なのだろう。いつ頃か起居動作時に、腰に手を当てて「ヨッコラショ」と声を出したりして、前屈みの姿勢で歩く自身の姿に思わず苦笑する時がある。
加齢とともに、内臓も少しずつ委縮して、そのサイズが小さくなり、それに合わせて、これらの支持組織である脊柱も順応して来ての変化なのかとも思われる。自然の成り行きとしての現象なのかも知れない。
これまで整形外科医として、特に脊柱疾患に携わってきた。なかでも、側弯症等の脊柱変形例の約200名の10〜20歳代の児に矯正固定手術を行ってきた。彼ら(彼女)は現在40〜50歳になっているはずである。手術で広範囲の脊柱変形を矯正して固定した部が、①年齢を重ねてもその矯正が保たれているのかどうか?②固定した上下の隣接の椎間にその代償作用としてストレスが集中して重度の変性が生じて、何かtroubleを起こしていないだろうか?③もし矯正固定手術を施行していなかったら、彼らの生活上どのような支障が生じたのか、否か、等々、を考えたりする。
脊柱も可動性を持った状態で、支持性が保たれている。近い将来に人工椎間板が開発されるのを夢見ている。
小生の右眼の網膜剥離が黄斑部にまで広がってしまったため、ほとんど視力が無くなり、さらに左の網膜も菲薄化して、所々視野が欠損した状態のために、また心房細動も加わって、アナログの生活となってしまっている。
しかし、38年卒の空手部OBの外科の佐藤眞杉先生が理事長をされている佐藤病院で、リハビリ科医として一日外来、入院80余名の障害を持つ人達に接し、時には私の方が元気と勇気をもらって、感謝して生活しているこの頃である。
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2012年 アンコールワットにて |
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