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諸事雑感               池谷東彦

 

 卒業50周年記念に文集作成とのことなかなか新しい文章を書くのは大変です。そこでこれまでに書き綴っていたものに加筆し以下の文章としました。

 昨年の39会以後日常生活で変化したことはほとんどありませんが、右目の緑内障による盲点が少しずつ広がっているようで全体的に視力が落ちてきているのが危惧されるところです。そのため書物を読んだり物を書いたりするのが非常に億劫になり今回も少しインチキをして古い文章を挿入しておりますのでこの辺についてはご容赦のほどお願いいたします。

 

(1)北ドイツの旅

 数年前の春、約1週間という短い期間でしたがドイツの北の地方を旅することが出来ました、

 南回りでドーハを経由して、数年前に一度訪ねたベルリンまで飛び、まずは東北ドイツの町、旧東ドイツに属していたベルリン、ドレスデン、マイセン、ライプティッヒなどを観光した際ポツダムを初めて訪れました。この地は我々日本人とって「ポツダム宣言」後としてよく知られております。このポツダムの地のSchuloss Cecilienhofのなかに1945年アメリカのルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連邦のスターリン首相が集まって第2次大戦後の処理の問題を話し合い、日本に対して無条件の受諾を強要した文書を出した歴史的な場所としてその部屋を見ることができ、なんとなく複雑な感がいたしました。ドレスデン、マイセンは2度目でしたが、ドレスデンのフラウエン協会が前回瓦礫の山であった場所に教会の建物が完成していたのには驚きました。ジグソーパズルのようにこわれた石材を組み合わせて完成させたそうです。その後ライプティヒの街を観光し夕方東ドイツの小都市デッサウという小都市に宿泊した。この町は。1925年から現代美術と現代建築に多大の影響を与えたバウハウスが置かれた。バウハウス大学ヴァイマル派、東ドイツ時代は建築・土木工科大学として機能していたそうですが、東西合併後にバウハウスの流れを組む総合芸術大学として再編成が図られ1996年バウハウス大学として再生されたそうです。日本からも数名の留学生が戦前のバウハウスに在学していたということです。夜に到着したため見学はできませんでしたが、この小都市に1925年から1932年までしか存在しなかったバウハウスが世界遺産に登録されている事に建築にはそれほど関心を持たない小生にはあまりよくわからない点でした。

 翌日には、魔女がほうきに乗ってやってくるという伝説のあるハルツ山地周辺の街を訪れた。まず世界遺産に登録されたクウェートリンブルグ、現在まで1000年以上の間輪郭や区画を殆ど変えず木組みの家が軒を連ねている街は、先の大戦でも被害がきわめて少なく中世以来のイメージを維持し再現しようとしているようです。町の中央部には多彩な色の施された木組みの家が建ち並び可成り広い広場を形成し周囲には多くのレストランやカフェが並び町の人々の憩いの場所となっているようです。

 木組みの家々は何となくおとぎの国の家の様に見えドイツのこの地方の特徴の様です。街中には、Stadtische Museemがあり、木組みの家の建築方式が解説されておりました。ついで、ハルツ山地の西側にあるゴスラーを訪れた、この町は11世紀頃から鉱山の町として発展してきたとのことで、この町の旧市街には木組みの家々がありますが、外観はモノトーンで、この町の印象は何となく落ち着いた感じがしクウェートリンブルグとは少し変わった感じがします。丁度訪ねた時期がハルツ山での魔女祭りの後で町の広場には魔女をかたどった像が数体設置されていてこの祭りが非常に楽しげなものであることを想像させました。町外れには11世紀にハインリッヒ2世が建てた皇帝居城があり古い歴史を伝えており、現在は広い芝生の庭で多くの人々の憩いの場所となっております。この町はドイツの一大兵器産業を興したアルフレート・クルップの生家が木組みの街角の一角にありました。中世以来の木組みの家々に囲まれた細い石畳の道が入り組んだ小さな町、先の大戦からなんとか難を免れ古い町の佇まいの中で現代の人々が生活している様は、現代日本の戦後の街の佇まいとは、変わった思考過程がある様に感じ、東洋人と西洋人の相違を考える命題ともなりました。

 観光旅行が主ですから、いろんな違いを目の当たりにする旅に、同じ敗戦国でありながら戦争の破壊の中から新しい街を作り上げていく上で旧きものを再建するという考え方と、全く新しい形に再建しようとする考え方の面白さを感じた古き北ドイツの佇まいの旅でした。(20121)

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(2) 最近思うこと

 今年は卯年,6回目の目の年男となります。還暦すぎてはや12年月日の経つのが非常にはやくかんじる今日この頃です。

 第2次大戦終了後65年を数え今や戦争を知る人々が少数派となり、若い人々の間では日本がアメリカその他世界を相手に戦争をしたという事実が記憶の中にないという時代になっているのは何とも言葉が出ないような状態です。     敗戦後のアメリカ進駐軍による占領の時期などを経て現在の日本があるのでしょう、今年の年男のうち早生まれのものは戦争中に国民学校に入学し1年生の夏、8月に敗戦を迎えた連中でその後戦後の教育方針の中で、国民学校から小学校、中学校高等学校の教育を受けたものです。小学校の教科書の戦争に関する部位は墨で真っ黒に塗り、大日本帝国を墨によって抹殺し。民主教育という名前の教育が行われるようになりました。高等学校卒業頃には日本国という国は日本国憲法の前文に記載されているような理想的な国家であると心から思ったものです。1960年代の多感な青春時代、アメリカとの安全保障条約の改定により政府は右方向へ舵を取り戦後10数年の教育とは異なった方向へ進めているように当時は感じ、学生運動に関心を持つ時間も多くなり、やや左がかった考えに傾いた時期であったと思われます。その後高度成長経済の渦中で、軍備に国家予算を費やすことが少ないことと周辺諸国との間での係争もないため、日本国はお金に支配される国となり、国民は自己の利益にのみに強い関心を持つようになり、他人のことより自分の利益にのみ励むという状況が今日まで続いてきていると思われます。日本の政治体制が2009年夏に民主党に変わりましたが。新政権は政権交代のかけ声で政権を奪取しましたがその後の今日までの国の状況は政権政党の内部の問題と大衆迎合政策だけが本質のように見え、この国の基本的に進むべき方向については、全然考えの片隅にもないため、9月初めの尖閣諸島沖での中国漁船の巡視艇への衝突および領海侵犯漁船船長の逮捕など、中国側の日本領海への意識的と思われる侵犯に対して、法事国家としての姿を一時は明確にしましたが、一方的な相手側の脅しに負けて、船長を釈放するという命令を政権政党の長たる首相が明示することなく検事の発言だけで行うという政治的な処置を行政の一部門である検察官に任せてしまうということがおこりました。政権政党の何かにおびえているような態度が日本国民にどう映ったか、一個人として何ともはや、独立国家とは如何にたつべきなのかをはっきりさせる考え方を多くの政治家あるいは日本国民に求めてこなかったことが、ここまで基本的な問題を忌避しようとする態度が表面にでてきたことに自己を含めて悲しみを覚えました。相手国との間での話し合いをするにあたっても毅然とした態度で是は是、非は非といわなければ、相手にされない国に成り果てる危険があろうと考えました。それと時を同じくして、ロシア大統領の北方領土への一方的な訪問など日本国の領土に関する種々の問題が種々の方向から惹起されてきております。

 最近たまたま昭和16年の日ソ中立条約締結を一面に示した大阪毎日新聞を見つけました。スターリン首相とモロトフ外相の写真がのっておりました。この条約に関して日本国がソヴィエトにうまく騙されて一方的な条約破棄により8月15日の ポツダム宣言受諾後、千島列島の強奪が完成したようになりました。講和条約により択捉島より南は日本領土でありということでありますが一度手を離れた領土は再度取り戻すことは非常に困難であることは竹島の例をみても理解されます。

 今後の日本の国が、諸外国に遅れを取らずに存在するためには、国の進むべき道として基本的な考え方を国民に教育していく以外にはなく、これこそが最重要課題ではないかと考える今日このごろです。

 此の文章を書いた後に、民主党政権がなんの成果を上げることができないまま総選挙に臨み、歴史的大敗を喫し再び自民党安倍政権が誕生しました。中国、韓国との間の関係は政権交代後3年になりますが良好な関係とは言えないようです。世界の情勢は穏やかならず各地で硝煙の匂いも高く落ち着かない世界情勢となっております。日本国憲法の前文に書かれていることと、問題になってくる第9条について今後全国民がよく考えていかねばならないのではないでしょうか

 (写真2)

 

(3) お木曳き

 20075月京都での39会に参加したのち、翌日に久しぶりに伊勢の母に会うため、京都から近鉄特急で伊勢に向かった。当時母は93歳でやや認知症気味であったが元気に弟一家とともに生活していた。丁度着いた日に、第62回式年遷宮(皇大神宮と豊受大神宮その他124社を含む)が平成25年10月に行われる為の一連の行事のうち神領民(旧内宮領、外宮領に住居する住民、すなわち旧宇治山田地区民))が奉仕するお木曳きという行事が行われていた。

 伊勢市(旧宇治山田市)は皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の大きな神宮があり1300年前から20年に1度各神社の正宮を建て替える式年遷宮が行われ、62回目の遷宮が平成25年10月に行われることになっており、遷宮に向けて8年前から種々の行事が行われます。正宮の建て替えのためには建材が必要で最近は木曽の山から切り出されたヒノキの大木を伊勢地区に運ばれた後内宮、外宮の工作所まで運ぶために行われるのが「御木曳」という行事です。この建材の運搬には伊勢の内宮(宇治地区)、外宮(山田地区)の旧神領民が奉曳団を結成(御木曳行事の間のみ結成)し、内宮用材は橇に積み五十鈴川を遡り内宮境内まで引き上げ(川曳)、外宮用材は奉曳車に積み宮川河畔(伊勢市内の西端を流れる1級河川)より旧伊勢参宮通を経て外宮境内まで曳く陸曳が行われます.丁度、実家の前が旧参宮通であったので奉曳車が通って行くのを見ることができた。

 今回の遷宮は第62回ということであるが、1953年(昭和28年)戦争で中断していた遷宮が行われたが、戦後の復興ままならない中であったので、今回のような御木曳は行われていなかった。当時中学3年でしたが参加したのは遷宮の直前に行われる「御白石持ち」という行事で、それに参加して正宮の内部の瑞域まで白石を持って入り正宮の周りに白石を置いてきた記憶が残っている。 

 御木曳き行事は、高校まで伊勢で過ごしている間には一度の行われていなかったので、今回まで2回の遷宮が行われているが、元神領民であった小生が今回初めてこの行事を見物したということである。現在では旧神領民のみでなく全国からの観光客(4~5千人)も1日神領民として奉曳車を曳く日も定められているようです。奉曳車は長さ100~500m の綱を繋ぎ、200~5000名の曳き手が奉曳する。道中の間に「木遣り」が時々行われ、この時には曳き手は綱のそばで休みながら聞いているということです。

 建材の神領民による神宮への移送の後は、神宮内部での新宮建造が行われる、

新宮が完成すると遷宮の直前に前に記載した「御白石持ち」という行事が行われ、奉曳車に宮川河原で集められた白石を積み、お木曳きの場合と同様に街中を曳き外宮、内宮の宮域まで運び、曳き手全員が一人ずつ白布に白石を包んでお祓いを受けたのち瑞垣の内部に入り将来の正宮の前に奉献するという行事である

1958年の大学入学以後今回が3回目の遷宮である。この間一度も参加できなかったが、御木曳きを見物できたことは次回2033年の遷宮に際してのそれを直接目にすることは不可能であると思うと、それに今回遭遇できたことは一つの生涯の思い出として残るものであろうと感じた1日でもあった。

 夕方母に別れを告げ大阪経由で四国に帰った。同窓会と古き街での行事を2日間で経験したことは楽しい時間を満喫した日々であったと現在は思い出している。

 なお、第62回式年遷宮は、平成25102日内宮で、10月5日外宮で行われた。

(2015・1)

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稲垣千代子

『近況報告』

 関西医科大学を定年退職後大学の内部監査の仕事をさせて頂き、七年になります。教育研究環境の変化や社会からの要請を感じつつ勉強させて頂いております。趣味のピアノ、写真、俳句は「やめない」ことを目標に続けています。

 ともあれ春の桜やチューリップ、夏の庭の花々、秋の紅葉、冬の青空と美しいものが身の回りにある事に感謝しています。様々な事に心砕きつつ生きるのも人としての進化の過程かと思いつつ過ごしております。

 

(嵐山の屋形船にて)

老後をどう生きるか – 私の試み

 

岩堀修明

 

日本人の平均寿命が、男女とも80歳を越えた。私たちの世代も、後期高齢者の仲間入りをし、まもなく、平均寿命に到達することになる。まさに長寿社会の時代になった。この時代に、老後を有意義に生きるためには、社会に積極的に参加して、前向きに生活していく努力をしなければならない。

老後を意義あるものにするため、自分はどの様な生き方をすればいいのか、いろいろ考えてみた。私は、文章を書くことが好きである。そこでこの好みを活かして、“ものかき”として老後を過ごしてみてはどうだろうか。自分が書いたものを通じて、社会に対して、何らかの情報を発信して行く。この様な生き方が、自分には一番ふさわしいのではないか、という結論になった。

ものかきになるとして、どの様な題材で、どんな内容のものを書いたらいいのだろうか。私は、長いこと解剖学にかかわってきたので、書けるとすれば、動物の体の構造を内容にしたものである。解剖学というのは、ポピュラーな一面があるサイエンスである。従って、書き方次第では、多くの方々に受け入れてもらえるような内容のものが書けるに違いない。

解剖学的な内容のものを書くとして、具体的に何を題材にしたらいいか。最初に書く題材としては、視覚器や聴覚器が、取り組みやすい様に思えた。そこで、感覚器系を中心に、精力的に資料集めを始めた。そして少しずつではあるが、文章を書き始めた。実際に書いてみると、想像していたより遙かに大変な仕事であった。何回も書き直しをしたあげく、ようやくにして原稿らしいものが出来上がった。ものかきとして生きよう、と決めてから4年半が経っていた。

ここからが、大変であった。原稿を売り込まなければならないのである。いろいろな伝手を頼って、出版社回りを始めた。しかし、何処も返事は芳しくなかった。最近は活字離れが進んでいて、本が売れないのである。特に、生物関係の本は売れないらしい。何社か回った末に、何とか脈のありそうな対応をしてくれたのが、講談社のプルーバックスであった。ブルーバックスは、理系の内容を中心にした新書である。

原稿を受け取ってはくれたものの、大幅な手直しが必要であった。私の書いた原稿が、一般の読者に興味を持ってもらえるようになるためには、ほぼ全編に亘って、書き直しが必要であった。編集者との遣り取りをしているうちに、約1年半が過ぎた。そしてついに、私の書いたものが出版される運びとなった。平成23年1月20日に、ブルーバックス「図解・感覚器の進化」として全国の書店で発売されることになった。自分の書いたものが、書店の店頭に並んでいるのを見るのは、すばらしいことであった。ものかきになることを目指して、資料集めを始めてから、本として出版されるまでには、実に7年近い歳月がかかっていた。

感覚器の進化は、割に好評であった。多数の方々からいろいろな書評を頂いた。いくつかの講演も依頼された。小著ではあるが、影響力の大きさに驚かされた。これ程大きな反響があるのだったら、情報を発信するだけではなく、本を読んでくださった方々からの声の受け皿も作らなくてはならない。読者の皆様からのご意見を承る窓口として、ホームページを開設した。こちらにも、数々のご意見を頂いた。小著を介して、沢山の皆様との交流が実現した。

最初の著作が、まずまずの出来であったので、次作の準備を始めた。2冊目になると、ある程度様子が分かっていたので、作業は順調に進んだ。約2年で、原稿が出来上がった。今回は、簡単に受理してもらえた。何カ所か、書き直しをした上で、平成26年2月20日に、ブルーバックス「図解・内臓の進化」として出版された。出版に際して編集者は、この本は確実に売れますよ、といってくれた。

編集者の予想は、当たった。出版後2週間すると、内臓の進化を直ちに増刷しますと言う連絡をもらった。編集者も、いささか興奮気味であった。その後、読売新聞の「本よみうり堂」で、取り上げて頂いた。さらに、「日経サイエンス」や「新潮45」でも、紹介して頂いた。売り上げは、順調に伸びて、現在3刷になっている。

 ものかきとして老後を生きたい。この私の試みは、どうにか実現しそうである。これからも、自分の書きたいことを、自分のペースで書いていきたいと思っている。

 


この半世紀に最も心にとどめたこと(回想

内田 立身

 

最近 芭蕉の本をめくっていて

「下京や雪つむ上の夜の雨」凡兆

の句に再会した。この句こそ、私の50年にわたる研究と診療活動の原点となった句である。

高校二年の受験勉強をしていた時、国語の問題にこの句が出題されていた。京の街は雪一色なのに御所より南の古い民家の立ち並ぶ区域は雨になり京都の物静かな風情、ひいては古都の文化、古刹、歴史学問までも脳裏に焼き付き、是非京都に行って京都大学で勉強したい思いを決定的にした。当時はまだ準備不足で一浪の上、京大医学部に入学した。京大の6年間は、大物教授の授業もあってそれなりに有意義だった。

教養部時代に臨地講演、学術講演、能楽鑑賞会などさすが京大ならではの文化学行事が多かった。大哲学者 鈴木大拙先生の講演も聞いたが何を言っているのかわからず普通の風体のお爺さんといった感じでこんなものかと思ったりした。宇治では憲法学の講義を聞いたり末川博立大総長の話も聞いたが、この方は話し上手だった。願わくは 湯川秀樹博士の話を聞きたかったがこれは実現しなかった。

今、集団的自衛権の話題で賑々しいが首相は安倍晋三氏、当時は安倍氏の祖父岸内閣の時代だった。よく円山公園や祇園石段下に召集がかかった。解剖の岡本教授から京大には時計台があるのにどうして君達は石段下へ行くのかと言われたりした。結局 紆余屈折はあったものの我々には幸せな学生生活と卒業五十年にわたる自由な研究と心ゆくまでの診療の時間を持てたと思う。これは半世紀に最も心に留めたいことだと思う。日本血液学会も発会五十年になりその記念誌に岡大病理の教授をつとめた妹尾左知丸先生の懐述がある。病理教室に4人の学友が入ったそうだが終戦とともに教室に戻ったのは妹尾先生ただ一人だったそうだ。師の天野重安先生に挨拶に行くと「帰ってきたのはお前一人だ。明日から4人分の仕事をせよ」と言われたとある。

我々の五十年間にこのようなことはなかった。軍医になった者は一人もいない。囚に天野重安先生は血液学会きっての厳しさを知らしめた先生で五回生のころ特別講義をしてくれるというので聴講した。

「発癌とウイルス」の話を熱意をこめて話されまさしく名講義だった。天野先生は翌年亡くなられているので、先生の生の講義を聞けたのは学会員の中で私一人ではないだろうか。まさしく京大に在籍したことのお蔭である。

しかし最近つくづく思うのは、我々には在籍6年間卒後50年にわたり楽しく幸せな時を過ごせたということだ。この至福の60年はひょっとしたら祇園石段下の若き時代の情熱が何らかの歯止めになって50年の至福をもたらしたのではないかと思ったりする。結論は難しいことだが。その後、半世紀の間に芝蘭会会員からノーベル賞級の研究が続出したのも50年間の自由な研究体制があればこそである。

以上が私のこの半世紀に心にとどめたことですが、とにかくこの半世紀楽しく充実した半世紀だったと言えます。

この五十年間に多くの有能な学友が故人となられた。私の頭に残る2人の学友についてふれたい。

一人は上田基二君である。宇治分校での物理学実験をはじめ彼との4カ月の解剖学実習は楽しい4カ月だった。二人の口頭試問もスラスラだった。実習が終わった後、量子力学の勉強をしようと難解な数学にもとりくんだが長続きはしなかった。脇坂教授の内科診断学総論がはじまった頃、クレンペラー内科診断学輪読をやろうということで彼の下宿や進々堂で読んでいった。これは長く続きほとんど読み上げたように思う。その後 診断学の講義をする立場になって大いに役立った。

そのころ片山三兄弟の能会離見会があって誘ったことがあった。「三輪」を見終えて「今日の踊りはなかなかよかったよ」と感想を述べたのでびっくりした覚えがある。私が福島に赴任して数年たったころ彼の急逝を聞き本当に驚いた。彼のような方がとの思いだった。あと一人は丘村君である。彼は嚥下障害の研究をしていた。彼とは不思議な接点があって、私の専門の鉄欠乏性貧血に稀に嚥下障害をきたすことがあってプラマービンソン症候群とよばれるが彼はこの珍しい症例を沢山持っていてビタ形成画像で証明してくれていた。その後、内科学大系に鉄欠乏性貧血を書いたりした折も彼の論文は必ず引用させてもらった。二人とも大変お世話になったが若くしてほんとうに惜しかったと思わざるを得ない。

以下に先人の名言を添えて終わりにします。

 

栄華の程は五十年

さて夢の間は栗飯の一炊の間

(謡曲 邯?より)

 

そしてこれからは

老の波も寄り来るや。木の下蔭の落葉かくなるまで命ながらへて。

なおいつまでか生の松

(謡曲 高砂より)

黒部五郎岳にて 黒部五郎岳にて

 
70
超日本百名山2回目登頂を終えて
  2014年918日 沖本芳春

(以下の太字部分は後日頂いた文章です)
元気で毎日を送っています。
私の最後の職は、福井県赤十字血液センター所長でした。
定年退職後は大阪赤十字血液センターに献血検診医師として週5日位勤務しています。
私の一つの楽しみは、登山です。
道迷いが少ないであろうという理由から、「深田久弥日本百名山」に登っています。
今まで3周登りました。そのうち2周は70歳になってからです。
昨年9月に3周目の最後の登山、黒部五郎岳に登りました。昨年登った北海道の山、トムラウシ山、頂上近くでのテント泊、思い出に残っています。
数年前の屋久島の山、宮之浦岳もいい思い出の山です。山の中腹でのテント泊でした。
今年は、「楽しみ登山、主として、テント泊」で登りたいと思っています。
これからもいい人生でありますようにと祈って、稿を終えます。
   2015年2月2日   沖本芳春

 69才まで1回目「深田久弥 日本百名山」を終えていた。

 70才になってから、もう一度、百名山に登りたくなった。

 70才からの1回目登頂を終えた。

 70才からの1回目登山を終えたら、また、、登りたくなった。

 70才から2度目の登頂を「70才を超えて2度目登頂。仕事(5)勤務をしながら、

 いくつ達成できるか」をテーマに掲げて、2度目の登山を開始した。

 この201499日に達成できた。

 計画登山の最後の山は「黒部五郎岳」となった。

 201497日、大阪府赤十字血液センターバスでの検診の仕事を終えて、JRで富山

 に行き、富山で宿泊した。宿泊したホテルは「東横イン」。そこで東横インの会員

 になることを勧められた。運転免許証で本人確認の後、会員証用写真撮影をしても

 らった。リュックを背負った自分の写真、少し前かがみで。

 明くる日98日、タクシーで折立へ。

 登山、第1日目6時間30分で太郎平小屋に着いた。人気ルート、山小屋は賑わってい

 た。薬師岳への登山を目指す人、黒部五郎岳を目指す人、もっと遠く縦走を目指す

 人、いろいろであった。

 第299日朝4時過ぎ、持参の朝食を摂り、5時出発した。天候は晴れ。

 登山道は始めはきつくなく、景色は素晴らしいの一言。近くに薬師岳、遠くに槍ヶ岳。

 後で知ったことだが、このルートは、北アルプス「表銀座」「裏銀座」に並んで

 「西銀座」とも称されるとか。むべなるかなとと思った。

 小屋を出てから5時間32分で黒部五郎岳山頂に着いた。北アルプスの山々が輝いて

 いた。帰路は6時間16分で太郎平小屋へ帰着。12時間弱の歩きであった。頂上直下分

 岐で他の登山者が数人たむろしていて、道しるべを見逃し、黒部五郎小舎へのの道に

 逸れ、30分位の時間ロス。黒部五郎岳から太郎平小屋への帰路、午後は天気が悪くな

 るのジンクスの通りであったが、大きな崩れもなく、まずまず、くもり空。

 小屋到着は1650分位、夕食注文に間に合った。

 910日朝5時、小屋を出発して折立には851分着。

 JRで大阪へ。途中で前勤務地の福井市に寄りたっかたが、またの機会に譲ることに

 した。

 黒部五郎岳で写真、行程、70才超2度目日本百名山一覧表を添えて報告とする。

 

2014年 黒部五郎岳 行程

黒部五郎岳2014/ 9 8,9,10 記録

 9-8 折立6:30---太郎平小屋着11:47---5時間17

  9-9 太郎平小屋発4:53--黒部五郎岳10:25--5時間32

 9-9 黒部五郎岳10:25--太郎平小屋16:41--6時間16(道迷いロス--0:40)

  9-10太郎平小屋4:51--折立8:51--4時間

黒部五郎岳 コースガイドから

 折立4:50--太郎平小屋

 太郎平小屋5:15--黒部五郎岳4:20--太郎平小屋 歩9:35

  太郎平小屋3:10--折立

 

◎70才超2度目日本百名山登頂記録

 筑波山:2009-3-2

 剣岳:2008-9-23

 立山:2008-9-23

 C美ヶ原:2009-5-1

 霧ヶ峰:2009-5-1

 蓼科山:2009-5-2

 雲取山:2009-1-19

 金峰山:2008-10-29

 瑞垣山:2009-4-14

 丹沢山:2009-2-16

 伊吹山:2008-10-31

 大山:2009-4-28

 石鎚山:2008-11-11

 久重山:2009-3-30

 阿蘇山:2009-3-31

 霧島山:2009-3-16

  P開聞岳:2009-3-17

  Q荒島岳:2009-5-18

 恵那山:2009-5-25 

  20大峰山:2009-6-1

 21大台ケ原:2009-6-9

  22高妻山:2009-6-16

 23八甲田山:2009-7-6

 24岩木山:2009-7-7 

 25赤岳:2009-7-14

 26赤城山:2009-7-20

 27草津白根山:2009-7-21

 28剣山:2009-7-27

  29火打山:2009-8-3

  30妙高山:2009-8-4

 31八幡平:2009-8-10

  32早池峰:2009-8-11

  33岩手山:2009-8-12

  34富士山:2009-8-18

  35乗鞍岳:2009-8-24

  36焼岳:2009-8-25

  37鳥海山:2009-8-31

  38天城山:2009-9-1

  39蔵王山:2009-9-7

  40安達太良山:2009-9-8

 41薬師岳:2009-9-21

  42大菩薩岳:2009-9-28

  43吾妻山:2009-10-12

  44磐梯山:2009-10-13

  45男体山:2009-10-19

  46那須岳(茶臼岳):2009-10-20

  47鳳凰山:2009-10-26

  48木曽駒ケ岳:2009-11-3

  49浅間山(蛇骨岳)2009-10-18

 50甲武信岳:2009-11-16

  51祖母山:2009-11-30

  52両神山:2010-4-27

 53四阿山:2010-5-7

     苗場山:20106-8:小赤沢集落から5合目まで:雪

 54月山:2010-7-5

  55谷川岳:2010-7-21

  56空木山:2010-7-26

  57御嶽山:2010-8-2

  58奥穂高岳:2010-8-9

  59白馬岳:2010-8-17

  60五竜岳:2010-8-24

 61鹿島槍ヶ岳:2010-8-30

 62常念岳:2010-9-6

 63尾瀬・ひうち岳:2010-9-20

 64至仏山:2010-9-27

 65雨飾山:2010-10-2

  66武尊山:2010-10-11

  67奥白根山:2010-10-13

 68皇海山:2010-10-18

  69会津駒ヶ岳;2010-10-25

  70宮之浦岳:2011-5-31

 71巻機山:2011-6-13

 72雌阿寒岳:2011-6-22

 73大雪山(旭岳)2011-6-29

 74十勝岳:2011-7-4

 75苗場山:2011-7-11

  76仙丈ヶ岳:2011-7-18

 77甲斐駒ヶ岳:2011-7-27

  78北岳:2011-8-1

 79間ノ岳:2011-8-2

 80飯豊山:2011-8-9

  81白山:2011-9-5

 82羊蹄山:2011-9-19

  83朝日岳:2011-9-26

 84越後駒ヶ岳:2011-10-31

  85槍ヶ岳:2012-7-10  

  86笠ヶ岳:2012-7-23

 87斜里岳:2012-8-27

  88羅臼岳:2012-9-3

  89塩見岳:20129-17

  90平ヶ岳:2012-10-16

  91光岳:2013-8-13

  92利尻岳:2013-9-4

  93荒川東岳:2013-8-20

  94鷲羽岳:2013-7-27

  95水晶岳:2013-7-28

  96聖岳:2014-7-29

  97赤石岳:2014-8-5

  98トムラウシ山:2014-8-26

  99幌尻岳:2014-9-2

 100黒部五郎岳:2014-9-9

 

さて、3回目日本百名山登頂はどれだけできるか?

 日常の診療風景

私の生涯

折田雄一

時代に呼応した私の病歴

    私の生涯を振りかえると、しばしば病との付きあいがあった。まずは高校生の時代に3年間の休学があった。その治療のために両側肺の切除を受けている。全身麻酔の黎明期であり、技術的には気管支切除断端瘻の恐れもあり、必ずしも安全な手術ではなかったが、合併症もなく、その後は肺結核と無縁に過ごすことができた

 69才の10月末夜明けに一過性の心房細動を自覚した。インデラルを服用して、目覚めたときは除細動されていた。私は心房細動の経験がなかったので、その朝、かつて勤務していた病院を受診した。幸いに心エコーの医師が当直であったので、検査をしていただいた。左室の動きが悪いとの結果であった。この瞬間に冠動脈バイパス術を決心した。さっそくに滋賀医大心臓血管外科浅井教授に診療をお願いして、5枝バイパス術を行った。経過はよくて術後3週間足らずで診療に復帰できた。その後、心臓はsilent organになっている。

  74才の3月、無症状ではあったが、旅行先で尿閉になったらと妄想が生じて、念のためにと当市の医療センターを受診した。午前診を終えてからの受診であったが、一気にCTまで撮影していただいた。いずれも無所見。ところが、受診2時間後にPSA180と判明した。そこで直ちに生検までしていただき、診断が確定した。カソデックス、リュープリンが著効を示してPSAは測定限界値以下になった。そこで京大でIRMTを型の如くに37回照射をしていただいた。以後5年、PSA0.1前後で経過している。幸いにもこの診断・治療のために休診は一回もせずにすんだ。

 さて、70才台後半である。加齢現象の目立ってくる時期である。腰痛がしだいに強くなり、最近は間歇性歩行が生じてきた。整形外科医からは腰部脊柱管狭窄と診断されて、手術を勧められている。高齢者の多い当院ではこの診断を受けた患者は多い。患者の話を聞いていると、手術の結果に?を抱いている例が多い。若い時代の疾病としての脊椎管狭窄症には手術の効果も期待できようが、加齢現象としてのこの疾患に、手術の効果はあるAreのだろうか。幸いに診療は十数歩の歩きですむので、不具合を感じない。

 これまでは医術の進歩の恩恵をたっぷりと受けてきた。この次も恩恵が続くと考えるのは甘えではないかと考えたりもする。禍福はあざなえる縄のごとしというではないか。

 私の病歴はさまざまな時代を反映している。敗戦後、日本経済がテークオフするまでの10年間は感染症の時代であった。それを象徴する肺結核治療。 

 その後、時代はかつて日本が経験したことのない繁栄の時代。その象徴がいわゆる成人病であり、心筋梗塞がその象徴であった。その時代に5枝バイパス。

 さらに時代は高齢化社会へ向かい、「がん」が疾病の中心的課題になった。その時代に放射線治療を受けた。

 現在は後期高齢者への対策をどうするのか、最大の悩ましい時代的問題である。もっとも悩ましい課題は認知症であるが、腰部脊椎管狭窄症も加齢化現象病のひとつであり、これも時代の反映であろう。私がこれにどのようにつきあっていくのか、いまの私には分からない。あれこれと迷う日になるのであろう。

 さて、私は昨年末に80才になった。今の心境を「折田医院月報」本年1月号(343号)に記載したので、転載させていただく。この月報は287カ月にわたり、欠号なく月の診療初日に発刊できたことは多少は自慢できようか。

 下記がその一文である。

 

 80才になって

 今日は1214日(日曜日)です。今週の土曜日は1220日、私の誕生日なので私の年齢は80才になります。実は昨年夏頃から、私は密かに「私の命もこの半年か」と危ぶんでいました。私の母は80才を目前にして亡くなりました。その際に「80の坂を越えるのは難しい」と私につぶやきました。この言葉をすっかりと忘れていましたが、今年の夏に突然この言葉が私の脳裏に復活しました。母の命と私の生命はまったく縁のない話ですが、言葉は魔術です。母の言葉が私にしばりをかけたのです。心の中では「私の命は後何ヶ月、後何週」と計算をしている自分に気づきました。今日あたりどうやら80才には到達できそうな気になって、正月号の月報を書きはじめました。

 

 この80年を振りかえると私の生涯の激動期は昭和21年、中国北京からの引揚げに始まり、昭和33年に京大医学部に入るまでの十有余年でした。いま考えるとその時期は暗黒の時期、しかし当時の私にはそのような悲惨な思い出はありません。昭和25年に父が亡くなるのですが、引揚げ後5年間は無収入。その後、昭和27年から3年間は私の病気休学。高校在籍は6年間に及びました。このような貧しく厳しい環境のなかでも大学への進学は当然のことだと思いこんでいました。この心境で暮らせたことには実は北京での父の教訓があったからだと思っています。

 

 北京での経験です。多分、国民学校(今の小学校)3年生9才の頃でしょうか。父が二つのことを何気なく教えてくれました。

①人の見ていないところでも紳士であれ。(最後の注参照)

②人がみな右へ行こうとする時、左の道が正しいのかもしれない。 

 いま考えても不思議です。このような難しい内容の言葉が私自身の中にストンと入ったのです。実はこの言葉が蘇ったのは引揚げてからです。国民学校5年生で鹿児島県大隅半島の片田舎へ帰国しました。鹿児島県は名だたる封建的な土地柄でした。独特な鹿児島弁のなかで標準語を使う引揚げ者の少年などはまずは絶好のいじめの対象になります。ある日、学校の帰り、人通りのない道に高等科の生徒が数人連なって両手をつないで私を通せんぼしていました。この瞬間に父の言葉が蘇りました。「紳士はこのような時には闘わなければならない」。私は真ん中の上級生の目を見つめてまっすぐに歩いて行きました。すると道は自然に開きました。その後は上級生からも敬遠されることはあっても、いじめられることはありませんでした。また先生たちにも難しい議論を吹きかけた記憶もあります。しかもいつまでたっても標準語です。皆が自分のことを「おいどん」というときに私は「僕」なのです。これでは友だちはできません。このようなことで私の引揚げ後の生活は孤独なものでした。

 一方、1才年下の弟は学校では「おいどん」、家では「僕」と変幻自在に過ごしていました。

 

 ここで少し父について語ることをお許しください。父について書くことは初めての経験です。

 父は引揚げてからの生活の劣悪さから、若い頃の持病である肺結核が悪化して昭和25年春に亡くなりました。私の記憶では父の枕元に小型の革製の聖書と賛美歌が常に置いてありました。しかし私が父からキリストの教えを聞いた記憶はありません。信仰は自ら求めるものと考えていたようです。いま考えると父が語った教訓①と②は人は見ていなくても、神は見ているという意味だったのでしょう。また父は私をよく散歩へ連れだしました。その散歩中さまざまな社会現象や考えることの重要性を語ってくれました。また少年にはふさわしくない話題もずいぶんとありました。例えば梅毒とその治療剤606号(サルバルサン)の開発の話などは少年だった私の記憶に強く残っています。生活は困窮していても、心は常に高いところにあったのは父のおかげでしょう。

 

 しかしこの二つの教訓には毒も含まれていることに気づいたのは医学部に入った頃からです。既に述べたように引揚げ、病気休学などで医学部入学時は多くの同級生よりも5年ほど年長でした。そのこともあり、また批判的に事象を観察する慣習もあり、人の輪に容易に溶け込めません。これでは友人はできません。これが私の壁になりました。医学部でも喧嘩できる友人と出合うことはありませんでした。グループに同化することなく、つい離れて一人になってしまうのです。私の心の中にはいつも寂しさという感情がありました。

 後年になり自らの性格を考えて見ると幼年期のこの二つの教訓の重さをひしひしと感じます。高校生になっていたらこのような教訓は聞き流してしまうでしょう。ところが幼年期にこのような教訓が心に沈んでしまったのです。その結果、少年期から青年期へかけての私の生活は窮屈な寂しいものになってしまいました。

 

 近年、私は「教え」とは年齢に見合ったものでなければと思うようになりました。教訓は適切な時期でないと、後にそれが人生に大きな望ましからぬ影響を与えるからです。「嘘をつくな」などの単純な教訓はそのとおりなので問題はありません。複雑な内容を持つ立派な教訓が危ないのです。一方ではそれが人を育てますが、一方ではその人の本来の性格をゆがめてしまいます。やはり言葉は母の言葉と同じように魔術性を持っていると思わずにはおられません。

 

 私も80才。ラスト・ディケイド(最後の10年)に入りました。この年になると幼い時から支配されていた道徳律や正しさは何であるのかという規範からも解放されてありのままに現実を見たいものです。幸いにもまだ診療を続けることができそうで、解き放たれた自由な心で患者さんとお会いしたい。そして素直に患者さんを慰め、励まして力をつけてあげることができれば幸いです。

 

(注)父の青年期はいわゆる大正ロマンと呼ばれる時期に当たる。この時期は英国型の紳士像に当時の知識人は憧れたようである。個人主義と理想主義があいまじり、広辞苑では「品格があって礼儀にあつい人」と解説されている。少年の私はそれに加えて武士道の精神も加えた姿を紳士と理解していたようである。その基本的理解は今もかわっていない。 初稿終わり



                        折田 雄一 二つの追加作品

「私たちの20世紀」は本院月報2001年1月号に掲載したものです。次の「歴史はこ
だまする」は2006年11月号に掲載しました。4月に天皇がタラワ群島を訪問される、
とのことからお送りすることにしました。

    

  私たちの20世紀

 

人は鳥になった

大空を紅、青、黄色の小鳥が優雅に舞っている

しかしその鳥たちには人の心が写っていた

鳥たちは蝶のように舞いながら石を投げあう

多くの仲間を落とした鳥は英雄になった

 

小鳥たちはみるみる鷲に成長した

その獰猛な鳥たちは空を駆けめぐり

地上に鉄を撒きちらし劫火を降りそそいだ

ロンドン ドレスデン 東京 広島 長崎

 

人は魚になった

魚は大海の底に潜んで仲間を狙った

冷たい北海の底に沈んだ仲間はなにを見ていたのだろうか

今も凶暴な魚は海底に生きていて

私たちの世界を窺っている

 

人は鉄の車やホスゲンで仲間を大量に殺戮する術を知った

恋も知らない多くの若者が

冷たく湿った暗い塹壕の中で

湿気に満ちた炎熱の密林の底で

希望を絶たれて死んでいった

高く飛びたい 深く潜りたい 早く走りたい

私たちの願いはなにをもたらしたのだろうか

 

私たちの社会は理想を描いた

優れた人類に世界を託したいと願った人がいた

その狂気にために

無数の女性や子供たちが衣服を剥がされてガス室に消えていった

無辜の人々が

銃口にさらされ血しぶきのなかで

飢えて強制キャンプの酷寒のなかで

造反有理の大歓声に包まれて

幾千万人と黄泉の国へ消えていった

 

人は神になった

人は神の支配する免疫の秘密を知った

見知らぬ人の心臓が私の生を支えている

私はいったい誰なのか

人は神の支配する遺伝子の秘密を解いた

多くの人間が複製され この世に現れる

私はいったい何人いるのだろう

 

知は社会を優しく 技は人を豊かにするためであった

しかし

ついに人は知の恐竜になった

恐竜は森を剥ぎ 熱で地球を竈にした

かつての恐竜にも似て 人は滅びへの途を歩き始めた

 

人は救いを求めて遙かな宇宙へ旅立つのか

宇宙の真空と闇のなかで

人は薄い金属の人工の皮膚を着て

生きることに堪えられるのだろうか



 苗木の桜もおおきくなりました

タンザニアにて1

タンザニアにて2

タンザニアにて3

タンザニアにて4
 アイスランドにて1
 アイスランドにて2
 北極の氷を食らう男

洞窟戦への入口
2006年夏

戦後60年放置されている戦車 上の写真
ともベリリュー島にて

小児科医コルチャック先生はユダヤ人であることを免責されていたが、ゲットウの子供と共にガス室へ消えて行った
ワルシャワ市にて

アウシュビッツにて
2011年春

アウシュビッツにて
2011年春




写真及び写真の説明は全て本文中、最下部に書かれています 
               


 


はじめに

 わが国の病気別診療患者数の年次推移で、年々増加が著しいのは高血圧症であり、糖尿病、脳梗塞などの脳血管障害、癌、狭心症や心筋梗塞などの虚血性心疾患がこれに続く。重要なことは、高血圧、脳血管障害、心疾患のいずれにも、糖尿病が密接に関係していることである。さらに、これらの疾患には、内臓脂肪の蓄積が関与することが注目されている。糖尿病患者数は予備群を含めると約2,000万人と推定される。高齢者では3人に1人は糖尿病である可能性が高い。その中、約50%では全く自覚症状がなく、他の病気で診察を受けたり、健診や人間ドック受診時に発見される。

三重県いなべ市において、高齢者の健康管理と地域医療に関与することになってから10年目を迎えた。この間、当地の糖尿病を中心とする生活習慣病対策に微力を尽くしている。いなべ地区では、約6,000人の糖尿病患者が存在すると推定されるが、基本健康審査受診率が約44%であることから、未治療のまま放置される場合が少なくない。糖尿病の予防とともに、糖尿病が疑われたら、適切な医療機関において、定期的に検査や投薬・指導を受けることが必要である。しかしながら、三重県の糖尿病専門医は僅か35名であり、いなべ地区では2名のみである。

 日本医師会では、糖尿病対策を一つの大きな目標としている。糖尿病患者数が,これだけ増加してくると、どのような医療機関においても、糖尿病患者を診療する体制が必要になる。いなべ地区でも多くの医師が糖尿病の診療に従事している。しかし、専門でないからと、積極的な対応を躊躇する場合も少なくない。高齢者の患者にとっては、他の地域まで出かけることは困難である。従って、できるだけ多くの地元の医療機関が、糖尿病の診療に自信をもって対応できるようにすることが望ましいと考えられる。

 糖尿病の治療に最も大切なことは、食事や運動を含めた生活習慣の是正である。この目的のためには、各個人が健康維持の適切な知識を有し、不断に努力することが不可欠である。しかし、一般に理解していても実行することは困難である。医師のみでなく、生活習慣に影響を及ぼしうる多職種の人達による協力や支持体制の確立が求められる。周囲からの患者家族や患者本人の啓蒙も不可欠である。

 

目 的

 いなべ生活習慣病研究会は、糖尿病を中心とした生活習慣病の診療に係わる医療従事者の勉強会として、平成177月に事務局を立ち上げ、代表として企画・運営に関与している。目的は、生活習慣病の予防、診療、予後、社会環境を改善することである。研究会では、1) 糖尿病、高血圧症、高脂血症、肥満症、動脈硬化症などの生活習慣病に関する情報の収集 2) 体験や情報の交換 3) 講演会、症例検討会、セミナーなどの行事の企画・運営 4) 地域における生活習慣病の啓蒙に関する講演会の企画、主催または共催、後援 5) その他、研究会の目的に合致する活動などを行うことにしている。

平成1710月に第1回の講演会(研究会)を開催し、その後、2ヶ月に1回の頻度で、定期的に講演会を開催している。第10回記念研究会を機会に、医師のみでなく、看護師、管理栄養士、薬剤師、理学療法士、介護職員、保健師、支援相談員、行政関係者などパラメディカルの多職種を加えて、チーム医療の確立と地域医療の発展に寄与することを目指している。

 

運営と方法

 研究会の運営は、12名のいなべ医師会員が世話人となり、隔月に開催する世話人会(役員会)の合議に基づいている。運営経費は会員、賛助会員、寄付会員などの会費収入である。2ヶ月毎の講演会の開催に当たっては、会場設営や講師招聘に共催メーカー6社の協力を得ている。プログラムや講演会の企画は、講演会参加者へアンケート調査の回答や世話人会の方針に基づいて自主的に作成している。気軽に意見を交換でき、参加することで何らかの収穫がある会になるように心がけている。また、日本糖尿病療養指導士機構に対して、認定資格更新の為の第2群研修会として申請し、該当者に0.5単位の取得証明書発行の承認を受けている。

講演会の開催日は,原則として、第3月曜日1915 - 2115である。会場は市内の六石高原ホテルであるが、参加者の数が多いと見込まれる場合は他会場の利用についても考慮する。研究会規定では、必要に応じて、役員会の承認を得て、単発の講演会を共催または後援で開催することや、一般住民の啓蒙目的とした講演を共催または後援で開催することも可能である。

講演会の開催案内は、事務局からの案内状の郵送と、webホームページ(inabeDMG.exblog.jp)の公示による。発送先は、会員並びに複数回の参加者、各施設の代表者などとし、席上配布資料の作成準備のために、事前にFAXで出欠の返信を依頼した。講演会のプログラム内容は、話題提供と症例検討が中心である、5-10回毎の記念講演会では、話題提供(特別講演)のみで、症例検討を含めない。毎回、参加者にアンケート用紙を配布して、話題提供や症例検討の内容や発表形式に対する意見や難易度、次回以後に対する要望事項を調査している。

 

結 果

平成1710月に第1回の講演会を開催してから、平成272月までに、計55回の講演会を開催した。各回の主なプログラム内容は、糖尿病を主とする生活習慣病が中心であるが、糖尿病に合併する心血管系疾患、代謝異常、腎疾患、神経疾患、消化器疾患、皮膚疾患、眼科疾患、感染症、腫瘍、歯周病など多岐にわたっている。話題提供の口演演者は、三重県のみでなく、隣接の愛知県、岐阜県、滋賀県から、遠くは、大阪府、静岡県に及んだ。

各回の講演会の参加者数は、平均して40名前後であるが、60名を上回ることもあった。最近では、熱心なパラメディカルの参加者の割合が増加している。最近5回の参加者の職種別内訳(%)をみると、医師23%、介護支援専門員23%、看護師19%、リハビリ職員19%、保健師5%、管理栄養士3%、支援相談員3%、薬剤師2%、その他3%であった。各回の日本糖尿病療養指導士参加者数は、2-6名であった。

 毎回配布したアンケート用紙の回収率は62.4±17.5% (平均±標準偏差)であった。その中、97.0±4.2%からは参加して有意義であったという評価が得られた。内容の難易度については、参加者の職種にもよるが、78%からは、理解できた、まずまず理解できたなどの回答が得られた。専門用語、薬剤や治療法の選択、研究成績などは難しかったという評価が散見された。研究会の継続を希望する回答が多かった。

 

考 察

 人口46,000人の三重県いなべ市に、6000名の推定糖尿病患者が存在し、うち3000人は放置されている可能性が高い。糖尿病は、高血圧症や高脂血症を伴うことが多いのみでなく、死因の上位にあげられる脳梗塞や心臓疾患の基礎疾患としても無視できない。三重県における糖尿病による死亡率は全国で第5位と高い。いなべ市は、三重県北西部に位置し、滋賀県や岐阜県とは鈴鹿山脈の北部にある藤原岳を境にして隣接している。桑名市や四日市市への交通には40-60分を要し孤立した医療圏である。(写真1-4)

  いなべ市の糖尿病対策には、従来専門外であった医療従事者も、糖尿病に一層関心をもって、適切な予防や診療が普及するように努力する必要がある。平成17年から、いなべ地区の医師を中心として、いなべ生活習慣病研究会を自主的に発足させ、糖尿病を中心とした生活習慣病の診療についての医療従事者の勉強会を続けてきた。

糖尿病の診療には、医師のみでなく、管理栄養士、看護師、薬剤師、検査技師などからなる診療チームが不可欠である。高齢者の多い地区であることから、介護職員やケアマネジャー、リハビリ職員、家族の果たす役割も大きい。介護老人保健施設においても、入所者の30%に糖尿病患者が含まれている。食事療法やリハビリ運動療法のみでなく、インスリン治療を含めた薬物治療が必要な例も稀ではない。

  一般住民には、基本診査や健康診断を受診しなかったり、受診して尿糖、高血糖、肥満などの異常を指摘されても、放置している例が多い。これらの糖尿病予備軍をいかに軌道修正するか、糖尿病の発症をいかに予防するかについては、行政を含めた地域全体の協力が必要である。

いなべ市の国民健康保険では、生活習慣病などによる医療費が三重県内29市町中で8位を占める。いなべ市では、特定保健指導の一環として、HbA16.5 %以上の対象者に、定期的に糖尿病を知る集いを開催して、生活習慣の改善に係る講義や調理実習を通じて、糖尿病重症化予防支援を実施している。一般住民向けに、いなべ市広報誌Linkの糖尿病を知るシリーズ掲載もその一部である。 生活習慣の改善に取り組んだ参加者では期待された効果が報告されている。

 生活習慣の指導には、医師のみでなく、パラメディカルスタッフの役割が重要である。 糖尿病のチーム医療の体制を整えて、専門医のいない医療機関についても、栄養士、看護師、保健師などの教育やこパラメディカルスタッフの育成が重要である。この目的の1つとして基礎テキストを作成して配布した。

糖尿病は慢性期疾患であり、健診を行えば糖尿病や糖尿病疑いの該当者が当然見出される。医療機関を受診し、治療中断がないように観察すると受療率は上がってくる。一方、糖尿病患者の受療率を上げるほど重症化例は減少する。単に受療率の上がり下がりを議論するのではなく、最終的に透析患者、失明患者、壊疽などによる足の切断などの重症患者が減ることによる医療費の削減効果がより重要である。

 

おわりに

 いなべ生活習慣病研究会は、医療関係者の生活習慣病に対する知識を共有し、糖尿病を中心とした地域の生活習慣病の予防や治療に一層貢献できることを願っている。関係者からの継続支援を期待したい。

                                              (2015.2 

 

写真の説明 

 写真1. 三岐鉄道北勢線 

いなべ市阿下喜駅―桑名市西桑名駅間20.4kmを結ぶ。単線・狭軌(軌間762mm)のまま存続し

ている。背景は藤原岳、滋賀県につながる。左寄りの白い建物は、医療法人大和会日下病院・

介護老人保健施設銀花(事務局)である。


 

 

写真2.いなべ市の広域地図  

関ヶ原I.C.や桑名I.C.からいなべ市まで車で40分を要する。現在工事中の東海環状自動車道

が開通すると、養老I.C.から15分で到着できる。

 

 

写真3. いなべ市の員弁川に映る藤原岳

    いなべ市を貫通する員弁川(いなべがわ)に映る藤原岳

 

                   写真4. いなべ市の景勝地 宇賀渓

 


§マッターホルンを見て来た。


    私の今年の一番の出来事は、念願のスイスに行き、山々を見てきたことです。

なぜこの歳になってスイスに行くことになったのか?平成21年のある日、夫婦で、夕食にお酒を飲んでいたときに、妻が「私は不幸だ。貴男はボール遊びが大好きで、野球やテニスで、旅行するというとテニスの出来る所だ。山登りには興味がない。自分は、大学時代は兄さん等と山登りをして楽しかったが、貴男と結婚してからは山登りが出来なかった」とぼやいた。

これは大変だと、早速JTBに依頼し8月にスイスに旅行することにした。山道を歩くのに自信がなかったので、キャラバンを買いそろえて、弱った足腰を鍛えるために鞍馬山や、大文字、比叡山、天王山等を老骨にむち打って登山した。

 ところが出発の約3週間前に、妻が我が家で転んだ。少し腰が痛いという、たいしたことはないというから様子を見ていた。しかし、痛みが1週間たっても良くならないから用心のつもりで、近くの某病院の整形外科を受診した。レントゲン写真をみたとたんに、医師が「歩いたらいけない直ぐ入院。左の股関節の骨頭にヒビが入っている。歩いて、骨頭がずれると大きな手術になる」という、危ないところであった。その日の朝には大丸百貨店に行ったがどうもなかったと妻はいう。

 従って、JTBに違約金を支払い、旅行はだめになった。ところが、そのグループのスイス旅行の氷河特急が脱線した。神の助けか。

  今年は結婚して50年で金婚式にあたる。「どこか行きたいところはないか」というと、妻はこりもせず「行けたらスイス」という。

そこで2月頃に阪急交通にお願いし、「75歳でも大丈夫、2ヶ所ハイキングするところがあるが山登りでなく、急勾配ではないから」というので準備を始めた。前の時はあまり張り切りすぎて山々を歩き過ぎて、疲れから妻が家で転けたと思っていたから、あまり頑張りすぎないようにと、1週間に1回我が家から大丸百貨店まで歩く計画をたてた(約5000歩である)。実際には2週間に1回くらいしか出来なかった。でも病気もせずに無事に出発を迎えた。

86日に午前1035分に関西空港を飛び立った。仲間は12人である。私が最高齢の76歳で、妻と大津からのご婦人が75歳、その次が高松市からの小児科医のO先生が65歳であった。

87日の午後6時頃にグリンデルワルドに着いた。ホテルで部屋をくじ引きで決めた。部屋に入ってカーテンを開けて驚いた。部屋の窓の真ん前にアイガー北壁が聳えていた。隣の部屋でO先生が「部屋の向きが悪い、山が見えない」と嘆く声が聞こえた。私達は幸先が良い。

翌朝は午前3時半に目が覚めた。星空を楽しみにしていたが、空は真っ黒である。1つだけ光るのは明けの明星の金星か?やがて赤みを帯びた雲が山の上に見え出し、それが段々と広がって山を覆った。アイガー北壁が部屋の前に見える。すばらしい景色だ。妻を起こして記念写真を撮った。

ホテルを8時に出発、ユングフラウ登山列車に乗り、ユングフラウヨッホ展望台(3454m)に着いた。下界は曇っていたが、山頂は日本晴れである。O先生が「私たち夫婦は晴れ男に晴れ女で、明日は絶対に晴れる」と言っていたが、そのお蔭か?

氷の宮殿を通り、スヒンクス展望台(3571m)に上がった。雄大な山々やアレッチ氷河を見て感激し、昼食にアルペンマカロニを食べ、約2.4kmで約1時間30分のハイキングに出かけた。現地案内人が、周囲の景色や高山植物の説明をしながら、ゆっくり歩いてくれた。しかし、坂道になると私が遅れて皆を待たせた。私の後にはいつも添乗員さんが見守っていた。妻は意外に元気に歩いた。

89日にはオリエントエクスプレス列車の出発駅のクールに行き、アルペンクラシック特別列車に乗った。人気のランドヴァッサー橋を通り、サンモリッツ(1815m)に着いた。

810日はベルニナアルプス観光である。デイアッヴォレッツァ駅からロープウェイでデイアッヴォレッツァ展望台(2978m)に行き、4000m級の山々が連なるベルニナアルプスを寒さに震えながら展望した。最高峰のPiz Bernina4049m)は雲がかぶさっていて、自分の目では確認出来なかったが撮った写真では写っていた。アルプスの4大名峰の1つで、登山のザイルを使う練習をする人達がいた。

811日は、サースフェ−にミシャベルアルプスを展望するために行った。しかし、雨が降り出しスイスで一番高いというドーモ(4545m)は見えなかった。そして憧れのツェルマットには夕方の午後7時頃に着いた。

812日はマッターホルンのご来光を見るために朝515分にホテルを出た。地下ケーブルでスネガパラダイム展望台まで行き、ゴンドラに乗り換えロートホルン展望台(3103m)に着いた。とたんに歓声が上がった。マッタ−ホルン(4478m)が見えたのだ。空は晴れている。万歳。山が雪で白かったのが、太陽が昇ると、まず山頂が赤くなり、次に赤い腹巻きをしたように中腹が赤くなり、それから段々と山全体が赤く染まった。素晴らしい。余君の写真展で見た景色だ。写真を沢山撮った。

朝食を展望台で摂り、マッターホルン絶景ハイキングに出発した。約3km、約2時間のコースである。アルプスの名花のアルペンローゼ、エンジサイ、エーデルワイス、さらに忘れな草、リンドウなどを写真に撮った。小石や小岩で足場が悪い道で、妻が転けそうになった。見かねたか、神戸から来ていたS夫妻が手をとってくれて無事にシュテリー湖に着いた。逆さマッターホルンが綺麗に見えた。これまで見たことのないような夢のような景色である。スイスに来て良かった。

下山して、ホテルに帰り、午後?時頃に土産を買いたいと妻が言うのでバーンホフ通りに出た。途中で神戸のSご主人に会った。「ほかの展望台に夫婦で行ったが、自分はしんどいので列車で帰って来た。妻は元気なので歩いて帰って来る」と言って帰って行かれた。

駅の近くのトイレで、S夫人に会った。「ご主人とは、はぐれた」と言われるので30分ほど前に会ったというと、「私をおいて行った。私は男性トイレの中まで入って探し回った。随分心配した」とご立腹。夕食のときにS夫人が皆の前で、「主人は私をほって行った。ホテルに帰るとお風呂に入って着替えまでしてのんびりしていた。腹が立つでしょ」と随分嘆かれた。「謝られましたか?」と誰かがたずねると、「それが謝らないのよ」と言ってさらにご立腹。ご主人は山男で明るい人だったが、悪そうにして元気がなかった。

その結末はどうなったか?私の妻は軽い麻痺があるのでトイレに時間がかかるから、いつも旅行中は私にトイレでは待ってほしいと言う。シャモニーのトイレ休憩のときに、私が妻を待っているとS夫人が通りかかった。「ご主人はさっき行かれた」と言うと、「そんな人です」とそっけない。しかし、次のトイレ休憩の時、妻を待っているとSご主人が私の横で、奥様を待っていた。さては奥様に言われたかなとちょっと可笑しかった。ベルンでの最期の夕食の時にS夫人が私の横に座わられたので、「ご主人は謝られましたか?」とたずねると、「あやまらないの」と言う、「神戸の男性は頑固ですね」と言うとうなずいておられたが、笑顔があり、もう仲直り出来ていると思った。

813日はモンブランを見学にエギュウー・デュ・ミデイ展望台に行く予定であった。しかし、ロープウェイの駅で待つが、風が強くてロープウェイが動かない。結局はあきらめることになった。残念。現地の案内人が、「皆さんは良かった。今年は天気が悪くて、前の旅行者達は、ほとんどが山を見ることが出来なかった。そんな時は山の花がきれいだったでしょうと言ってなぐさめていた。ユングフラウ、マッターホルン、ベルニナアルプスがみられたのは良かったですね」と我々に言った。

最後はベルンのホテルに一泊したが、その夕食のときに京都からのF夫人が「メールでみると日本人の乗った氷河特急が事故にあった」というので驚いた。

運も味方した良い旅行であった。長生きはするものである。

平成261230
  金津和郎


図1 和歌山城


琴浦 肇

「近況報告」

大学卒業後第三内科(今の循環器内科)に入局し高血圧の発生メカニズム、超音波による心機能といった仕事をしていましたが昭和55年(1980年)和歌山赤十字病院(今の日本赤十字社和歌山医療センター)に赴任し定年まで勤め、以後も同じ施設の健康管理センターで人間ドックの仕事を続けています。最近は健康ブームのせいか一日50〜60人の受診者があります。他に脳ドック、乳がんドック 子宮がんドック 様々な予防接種もあり全体では70〜80人くらいになります。2〜3人の医師で内科検診を行い、データのチェック、報告書の作成が主な仕事です。カルテは電子カルテになっており 生化学検査のデータはもちろん生理検査もデジタルデータになっていますが まだ胸部写真、腹部エコーなどは人間の目で確認が必要で 心電図も自動判定はされますがやはり再確認は必要です。しかしいずれも力仕事ではないので 高齢者でも可能です。コンピュータのなかったころはいずれも大変な仕事であったろうと思われコンピュータさまさまといったところです。今でも週4日仕事をしています。

 

日赤和歌山医療センターから少し北へ行った小高い丘の上に和歌山城があります。

昭和33年私が大学に入学した年に再建されました。そのせいか同級生のような親しみを覚えます。和歌山は豊臣秀吉の和歌山攻めをうけ その後秀吉の命により和歌山城が建てられました。何人か城主が変わりましたが徳川家康の十男である頼宣が入城し55万5千石の紀州徳川家の城となりました。その後何回か火事にあったようですが再建されました。ところが第二次大戦で空襲のために全焼しました。戦後 市民の再建しようという機運の高まりがあり県内外の企業からの寄付もありましたが地元の住民が中心となって寄付を集め建築資金を捻出したということでした。当時日本全体が再興の機運が高まっていたためでしょうか 今では考えられないような気がします。今回は鉄筋コンクリート造りだそうでそのせいか火災などのトラブルはなく市民の憩いの場となっています。特に桜の時期は多くの人でにぎわいます。       ( 図1   和歌山城 )

 

そんなのんびりとした生活ですが最近私の育った和歌山市の南部(名草(なぐさ)地区、毛見(けみ))が脚光を浴びているらしいのです。私の祖父はその地方で生まれ育った人でしたが、私の子供のころ色んな昔話をしてくれたものでした。その中に昔々毛見の浜の沖から神武天皇の大群が攻めてきてこのあたりは大戦乱となったというのでした。私は小学校の入学が

昭和21年で神武天皇の話は学校では聞かない年代でしたし 何といってもそんな大昔の話はまるで興味がなく忘れていたのでした。古事記 日本書紀などには 神武天皇(もちろん即位前の話ですが)が九州から奈良へ進軍する様子が書かれていますが瀬戸内海を進み大阪地方から奈良へ向かおうとしたところ抵抗勢力があり断念しさらに南へ回り和歌山北部から向かおうとしたところやはり抵抗勢力があり進めず、やむを得ずさらに南へ回り込み和歌山の南から紀伊半島の山地を北へ進軍、その際現在 サッカーの守護神となっている八咫烏(やたがらす)に先導されて大和へ入ったとされています。現在の毛見の海岸は写真のようにレジャーホテルが建ち海の上にはヨットが多数並んでいます。ここに昔多くの軍船がひしめいていたのでしょうか。           (図2   毛見浜)    

 

このあたりの話については なかひら まい氏の「名草(なぐさとべ)」に詳しく書かれています。なかひら氏の本の中には ルバング島で戦後長らく諜報活動を続け救出された小野田寛郎氏の話として書かれています。小野田氏の家は宇賀部(おこべ)神社の宮司の家柄だそうで家の口伝として伝えられていたようです。神武天皇の軍が手こずった名草の抵抗勢力は名草戸畔という女王の率いる軍であったそうで 名草戸畔は結局は戦死するのですがその頭は宇賀部神社に祭られて私たちの地方では頭がよくなる神社として子供の時に参らされるようです。戦いはかなりの激戦であったらしく神武天皇の兄の 五瀬命(いつせのみこと)も戦死し宇賀部神社の近くの竈山(かまやま)神社に祭られています。このようにしっかりした口伝もあり日本書紀にたった一行 抵抗勢力を打ち破ったと書かれている(六月二十三日 軍は名草邑(なぐさむら)についた。そこで名草戸畔(なぐさとべ)という女首長を誅した。)だけだそうですが 亡骸を祭ったとされる神社もあるところから神武天皇であったかどうかはともかく古代日本の始まりに関わるような何らかの戦闘が行われたのであろうと思われます。実は今年 なかひら まい氏の講演会に行ってみたのですが、いわゆる中高年の歴男、歴女ばかりでなく若い女性も多数詰めかけており こんなことがブームになるのかと驚きました。

 

思い出というものはとかくハッピーなものは覚えていますがそこに至る苦しさはわすれていることが多いようです。人間の記憶はこのように都合のいいものが残っていることが多いのではないでしょうか。ましてや意識的に事実を曲げて記録するという事も歴史書ではよくあると言われており、勝者の都合で事実を選択し曲げられている可能性は多いと思われます。敗者側の記録 口伝などから従来とは違った事実が見えてくることもあるでしょう。そういった口伝を大切に記録する必要があると思ったのでした。

                              (平成26年12月)


図2 毛見浜
ハカマカズラ1  ハカマカズラ1


 

 
アスクレピオスの杖の由来

 5年前のことになるが、初夏のある朝、庭に出て何気なく空を見上げて思わずあっと声を上げた。袴葛(ハカマカズラ)の葉むらの頂きで総状花序が顔をのぞかせていたのである。このつる植物は、三十数年前に家族で紀伊勝浦の伯父夫妻を訪問した折に、当時小学生だった息子が五粒の種子をもらって庭に植えたもので、その二粒が発芽してタワー仕立てにしてあった。なんでもこの袴葛は、南方熊楠が田辺湾の神島(かしま)から持ち帰って自宅の庭に植えてあった由緒ある木に由来するらしく、熊楠の初恋の女性の姪御さんから頂いたとのことだった。南紀の海岸沿いに自生する絶滅危惧種のこの亜熱帯植物は、冬の厳しい京都ではとても花を付けられないものと諦めていたのだが、その袴葛がはじめて花を付けたのだ。自生地の北限は和歌山県由良町の黒島だそうだから気候温暖化の影響だろうとか、成熟して花芽を付けるのに三十年もかかるのではないかとか、いぶかりながらも大いに喜んだ。

 学名Bauhinia japonica和歌山では彎珠(わんじゅ)の別名で知られ、かつて熊野詣の巡礼者たちは、那智黒の小石のようなこの種子を神島神社で申し受け悪気と毒虫除けとして携えたという。日本の固有種で琉球諸島から九州、四国と紀伊半島の黒潮の洗う海岸が自生地である。この分布から推測すると、モダマやハマナタマメ等と同様に、このマメ科植物も海流によって東南アジアから琉球に流れ着いた熱帯植物の系統かと思われるが、もちろん確たる根拠はない。Bauhinia属の植物はインドから東南アジアを経て台湾、日本にまで250種以上が分布し、そのうち11種がつる植物で遺伝子解析の結果から、台湾に自生する菊花木、学名B.championi 、が最もハカマカズラに近縁とされている。

 ハカマカズラといえば神島、神島といえば南方熊楠だが、ハカマカズラをはじめとする希少な植物群落が今日もなお神島に残り、この小島が国の天然記念物として保護されるに至ったのは、エコロジストの先駆けと言われる博物学者熊楠が神島の重要性を強調し、保全活動を展開したお蔭とされる。その熊楠が、昭和4年、天皇の南紀行幸に先立って大阪毎日新聞に連載した随筆に次のように書いている。「神島の植物さまざまだが、なかんずくもっとも名高いのは彎珠だ。 ・ ・ 中略 ・ ・ 豆科のバウヒニア属の木質のかずらで、喬木によじ登り数丈に達し、終にその木を倒す。林中の幹から幹に伸びわたった形、大蛇のごとし。むかし、この神島の林に入って蛇というを禁じ、一言でも蛇といえば木がたちまち蛇に見えると言ったは、本来このかずらが蛇に似たからだろう」、と。

和漢洋の学に通じて博覧強記の熊楠は、さらに続けて次のように書く。「ギリシャの古伝に、テッサリア王フレギャースの娘コローニスが医神アポルロと通じて妊娠中、イスクスという若者と親しみ、アポルロが監視につけ置いた鴉がこれをつげた。 ・ ・ 中略 ・ ・ そのアスクレーピオスの像は常に蛇木の棒をもつ。いつも以って毒蛇を制したのでインドからきたという。この蛇木は、学名バウヒニア・スカンデンスで、彎珠、学名バウヒニア・ヤポニカと同属だが、かずらは遥かに長大、捻じれ廻った状一層蛇によく似おる」、と。

今日、医術の象徴として広く使われるあのアスクレピオスの杖がバウヒニア・スカンデンスであり、インドではこの蛇木の棒で毒蛇を制したとまで書いてあるのには驚くほかない。今ではインターネットで検索すれば、インドのジャングルの中をのたうち廻る大蛇のごときこの蛇木の姿は見ることができるのだが、 アスクレピオスの杖の由来にかかわる伝承までは見つけることは出来ない。 いったい熊楠の情報源はどこに在るのか? 唯一考えられるのは、若き日の熊楠が英国滞在中の1895年から5年のあいだ大英博物館に通い詰め、大判の大学ノート54冊に筆写した1万800頁に及ぶ膨大な“ロンドン抜書帳”である。この抜き書きのなかに筆写されているのは、多くは、世界各地を旅行した冒険家たちの旅行記であり現地での観察による地誌とされ、熊楠の世界民俗学の情報源とされているからである。

 “アスクレーピオスの杖”の由来の出典を知るためには、熊楠がロンドンで赤貧にあえぎながらも情熱を傾けて書き写した“ロンドン抜書帳”を読んでみる必要がありそうである。原本は紀伊田辺の南方熊楠顕彰館にあるのだが、自分にはとても読めそうにもないと諦めている。

                              2014.10.12    瀬戸昭

ハカマカズラ2
ハカマカズラ2
ドブロブニク城壁
  ドブロブニク城壁





プリトヴィツエ湖畔公園の瀧群
プリトヴィツエ湖畔公園の瀧群






ドロミテアルプス
  ドロミテアルプス






 ブレッド湖の湖畔の魚群






北京故宮





インスブウルックの
Hofkirche





2003年大学退官の年
ノルウエーのミュールダールで






テオチワカンの
ピラミッド
(メキシコ)

 
 
        遅ればせの自分史

                      田上八朗

 

 昨年までは予定が立て込んで、記念すべき卒後50周年記念誌に原稿もできずで、終わってしまったが、クラスメートの皆さん、それぞれの人生を楽しく読ませていただけた。今年は、ようやく、論文や会議からも解放され、時間的な余裕もでき、皆さんのパターンに則り、遅ればせながら、四分の三世紀に亘る自分史を綴ってみた。

 ともかく、誰もが抱く感慨と同じで、「大変な時代を生きてこられた」が、まず、頭に浮かぶ。個人的には、京大に学べたことを思い出すと、随分、人からは恵まれた人生と言われる道を歩いて来たはずではある。

 

 生まれは戦前に東京の飯田橋にあった鉄道官舎で、七人兄弟の末っ子として皆から可愛がれて育った。しかし、鉄道員の父が勤め先が変るため、東神奈川、蒲田、川崎と何度も官舎を引っ越し、その間、兄二人が沖縄と満州で戦死しており、東京大空襲では隣家にまで焼夷弾が落ちたが、幸いにも生き延びてきた。

 なによりもの思い出は、病弱であった小学生時代、五年生で結核に罹り、数ヶ月の長欠をし、頻繁に鉄道病院通いをしつつ育ってきことである。父が退職後、中学生からは新宿区牛込弁天町に暮らしはじめ、健康を取り戻し、柔道も練習してみた。しかし、新宿高校に入学してすぐ、また、扁桃炎の後に急性糸球体腎炎を生じて、運動できず、昼休や放課後は図書館で一人文学書を読むようになった。

 しかし、この時期の肉体的な不幸は、それまで全く知らなかった文学の世界への目を開いてくれ、さらに高校二年の終わり、修学旅行で空襲のなかった京都や奈良を訪れ、そこに残る古い日本文化を目にして強く魅了され、多くの旧友は東大をめざしていたが、進学先は京大と決めて、学年から一人だけ入学した。

 医学部進学過程では大学の観世会に属し、謡,仕舞を習い、祇園の片山家にも稽古に通い、週末には観世会館に能をみに行ったり、自転車で神社仏閣を尋ねる楽しい学生生活が送れた。さらに医学部の講義がはじまってからは、勉強を楽しむ一方、ESSに入り、毎朝、下宿が近所の島田君と大文字中腹まで散歩しつつ英会話練習をしたり、英文医学書を読みだし、臨床実習でもカルテを英語で書いてみたりもした。この時代、まさに、医学生生活を満喫できたし、このことが、後の人生での幸運を呼び寄せたとも言える。

 卒後、東京阿佐ヶ谷の河北病院で一年のインターンーを終えてから、皮膚科に入局するとすぐ、太藤教授が文部省海外視察に出られた。そして研究が盛んで、ユニークな皮膚科学教科書も出版していた米国ペンシルバニア大学を訪れ、クリーグマン教授に会われ、教室員の留学を強く勧められて、新入局員でも良いという確約までして帰国された。まだ、医者は皆、ドイツ語用語であり、先輩達からは誰も希望者がでなかったが、私は入局したてから、医学英語を熱心に練習していたため、教室初の米国留学の機会を入局したての私に与えてくださった。

 かくて医者になって二年目1966年に、私の人生は急展開した。当時は無給医で貧しかったため航空運賃が高すぎるため、より安い太平洋は船で、北米大陸は汽車で横断し、外国人達との接触を存分に楽しみつつ、約1ヶ月かかって東海岸のフィラデルフィアまで辿りついた。そこで2年半、午前中は刑務所の若い囚人、午後は近くの老人ホームの入居者の正常皮膚の様々な生理的な機能の研究に従事しつつ、大学院講義にでたり、周囲の皮膚科医や研究者から強い刺激とモチベーションを受けるとともに、一方では存分に米国での生活を楽しむこともできた。

 さらにまた、入局時から外来診療を隣で、ご一緒にしてきた太藤教授からは、毎日、出会った症例の文献をできるだけ、図書室で調べてゆくようにと指導されていたので、皮膚科図書室に足繁く通ううち、そこの工学部の教授秘書から転任してきた新任の司書の女性と親しくなっていて、数ヶ月後、彼女も私のいる米国にやってきて、新婚生活がはじまった。

 幸い、クリーグマン教授が車をずっと貸してくださった御陰で、日日の研究だけではなく、週末には米国東海岸地方を自動車旅行したり、夏の長期休暇には万博の開かれたカナダのモントリオール、また、NHK朝のテレビドラマにもなった「赤毛のアン」の舞台のプリンスエドワード島までも訪れることができた。

 クリーグマン先生は、米国でずっと一緒に仕事をしようと強く勧められたが、二年半後、太藤教授から強く帰国を勧めるお手紙を戴き、帰国した.ところが、そこで、思いがけず大学紛争が勃発したため、大学にいる場所がなくなり、教室からは誰も行き手のなかった国立京都病院の助手となり、米国の研修医達にならい、経験したユニークな症例を英文論文にし投稿をはじめた。

 一年半後、京大の助手の席があいて戻ってからは、臨床と研究とを楽しみ、その成果を国際誌に投稿してきた。そして7年後、新設の浜松医大に助教授として移った。初めの一年は研究室の設備を整えることと、学生講義で終わったが、大学病院ができあがってからは、新たな仲間が加わりだし、一緒に臨床活動も研究も自分の好きなように行えるようになった。

 かくて6年、浜松の中古の家に住んだあと、近所の住宅地に家を新築した。ところが、その三ヶ月後、突然、教授募集もしていない東北大医学部から半年前に急逝された清寺教授の後任に私を選んだので、来るようにと医学部長が尋ねてこられ、以後20年間を、思いがけず、仙台で若い人達を指導しつつの仕事を続けることになった。

 なにより、東北大に赴任した時には、センダイウイルス発見で文化功労賞受賞受賞者で、医学部長から学長になられたばかりの細菌学者石田名香雄学長から、御自分の教室のように年間三十編位は国際論文を出せるような教室に育ててゆくように、という恐ろしいはっぱをかけられたので、それに煽られるように、朝から晩まで、ともかく脇見もせず仕事に邁進した.大きな教室ではなかったが、仲間達が熱心に臨床、研究をしてくれたので、業績も上がりだした。 

 結果的には前世紀末のArchives of Dermatologyにハーバード大のStern & Arndtが発表した、国際的に最も引用された過去15年間の皮膚科学論文のfirst author部門と,last author部門、それぞれで選ばれた世界の著者25人中の一人に入っていた一方、共に仕事をしてきた教室員達からも6名の皮膚科教授が次々と誕生していった。

 しかし、朝早くから晩まで、ほとんどを大学に籠って生活した二十年であったため、大学退官後は定職につかず、国際会議やアジアの医師への講義など海外出張の機会を利用し、年に六、七回近くを妻と二人、主に欧米の未知の土地を旅して回るという人生を選択した。大都市に残る文化財を尋ねる場合には鉄道やバスで訪れても、地方の町や自然を楽しむにはレンタカーでドライブしてと、行きあたりばったりで見つけたB&B(bed and breakfast)に泊まりつつ、旅するというやりかたで、欧州の大半の国々やアジア、南アメリカの一部、オーストラリア、ニュージーランドなど前から訪ねてみたい土地も大体は見て回ることができた。とくに北欧、独、仏、スイス、オーストリア,イタリアなどで、それぞれ印象的な見事な風景や文化財を存分に楽しめた。

 ただし、良い事ばかりではなく、三年前には東北大震災で、仙台郊外の土地と家とが傾いてしまい、地震保険にも入っておらずで、多額の費用をかけた修理と出来上がるまでの約三ヶ月は不便さと浪々の身とを経験せざるをえなかった。

 現在は、すべてが落ち着き、読書と自宅近辺の丘陵地帯の自然を楽しむ静かな生活に戻ってきている。一方、一昨年で、海外旅行にも終止符を打ったつもりであったが、またぞろ旅心がおき、今後、米国時代の旧友の暮らすイスラエルや尋ねることのできなかった東欧の幾つかの土地を旅してみたいと思い始めて、今年はポーランドとバルト三国の旅を予定している。まだ、体力、知力が続いていれば、またまた、旅先を変えてと考えているが、残念ながら、近頃、急激に心身、とくに頭脳、耳、目の衰えを感じはじめている。

 

 

付記:これまでの五十回を超える海外旅行で感じたこと

 なるべく学会参加や会議参加を利用する。

 毎回、同じ航空会社を利用してマイレイジをためて、無料あるいはグレイドアップを同伴者用に利用すると経済的である。

 City hotelは気楽で便利だが高い。ホテルは自分でインターネットで、探して予約する。

 宿はレンタカー旅行なら、行き当たりばったりで、B&B(bead and breakfast)が安く、その地方の期待しない楽しさを経験できる。

 地方の普通のレストランはワインもビールも安くて、おいしい。スーパーで買い物してみると食品の安さに驚かされる

 ヨーロッパの都市旅行は一等ユーレイルパスを利用する。ただし、荷物は小振りにすること。

 タクシーは日本にくらべ、みな割安である。

 田舎に行きたければ、レンタカー旅行。一方、都市内での運転は大変。

 どこでも、地方の人達は皆、親切である。

 





パリのサルトルの墓


卒業後50年間を思い出しながら、そして最近の講演から

「人間というのは、どういう生きものなのか」

                             谷 清

 

小児科入局から、「びわこ学園」勤務へ

 

 大学を卒業したのは1964年(昭和39年)であるが、当時はインターン制度があり、医師の免許を得て、小児科に入局したのは、1965年(昭和40年)であり、同級生はみな同じであろう。

 小児科に入局後、大津赤十字病院に赴任になったが、近くにある「びわこ学園」(「重症心身障害児」の医療機関でもあり、福祉施設でもある)に週に半日行くように言われた。

 その後、大学に戻ったが、いわゆる「大学紛争」の時代で、さまざまなことがあった。

その期間に、京都の吉祥院病院小児科で非常勤で勤務をはじめ、やがて常勤になった。40歳になった1977年に、自分が本当にやりたいこと何だろうと考え、吉祥院病院を退職し、「びわこ学園」の常勤になった。以後20年間働いて60歳定年で退職した(1997)。その後は非常勤で、徐々に日数を減らし、現在も週1日であるが診察している(退職後17年になる)。非常勤時代と常勤時代を全部あわせると、重症心身障害児(者)にかかわったのは、ほぼ40年間である。

 この間、診察だけでなく、障害者問題に関係のある人たち(障害児の家族、養護学校教員、障害者施設や作業所の職員など)と、「障害者問題」に取り組んできた。

 「びわこ学園」の外来診療で、小さい子の「てんかん」や「障害」で診ていて、成人になった今も診ている人もいる。てんかんなどが治癒し、医療が不要になる人もあるが、身体障害や知的障害、あるいは「発達障害」(自閉症など)があると、難治性のてんかんが多い。またリハビリが必要な人もある。

 成人になって結婚する人もあり、その子が、てんかんがあったりして、親子で診ている人もある。親も子も、障害やてんかんがあるということになると、生きていく困難がおおきい。そのような診察を続けながら、障害者問題にかかわり、また「障害」や「障害者」にかかわる原稿を書いてきた。てんかんや障害についての啓蒙的な内容もあるが、「障害をどのように考えるか」、あるいは、「どのように生きていくのか」など人生論的なことも増えてくる。

 現在までに単行本(共著を含む)は20冊書いた。講演も多くおこなった。最近は、講演に行くのも辛くなってきたので、講演はやめようと思っている。

 

「障害」を通して「人間」を考える

 

 「近江学園」(知的障害児施設・1946年)、「びわこ学園」(重症心身障害児施設・1963年)などを創設し、また「この子らを世の光に」という言葉などで、「障害者福祉の父」と言われる「糸賀一雄」は、19143月生まれ(1968年没)である。昨年(2014年)は生誕100年であり、3月を中心に、「記念事業」を滋賀県と協力して行なった。「大江健三郎氏の講演」、「糸賀一雄展」(滋賀県近代美術館)、記念論文集「生きることが光になる」の出版などである。

 さらに、8月に「第48回全国障害者問題研究会(全障研)全国大会」(滋賀)で「記念講演」をおこない、9月に「第40回日本重症心身障害学会」(京都)で、「特別講演」を行ない、シンポジウム「重症心身障害者の権利・最善の利益と治療方針」の座長をした。11月には、「日本重症心身障害福祉協会西日本施設協議会総会」(長崎)で「基調講演」をおこない、シンポジウムの司会をした。ようやく終わってほっとしているところである。

 この三つの大会は、それぞれ私が考えてきたことを話す機会になった。この内容は障害者だけでなく、人間についての内容であると思うので、それらの概略を書かせてもらおうと思う。

 

「発達」と「人格」は別であること

 

 「全国障害者問題研究会(全障研)」の大会は、(2014年)8月に滋賀県であり、参加者は約2,000人であった。1日目の講演は無事におわったが、2日目は台風のため中止になった。

 ここでは、「発達」と「人格」について話した。「全障研」は「障害者の権利を守り、発達を保障するために」が中心的な目的の研究団体であり、運動団体である。

 基本的には、障害があり、そのために「発達」の遅れがあっても、その発達のみちすじは、誰もが同じである、という発達理論と運動論である。障害のある子は、発達の「みちすじ」が違うように思われたりするが、発達の「みちすじ」は同じであり、その同じ「みちすじ」を歩んでいくのに、通常以上の時間がかかるということで、結果的に「発達のおくれ」という状態になる。

 このことについては、「全障研」に参加している人はだれも異論はない。このことを、世の中の人たちに伝えたいと思っている。 

 わたしが、話したのは「発達」と「人格」についてである。「全障研」に参加している人も含めて、「人格」は「発達」のなかで、生まれてくると思ったり、考えている人が多い。

 私は、「発達」と「人格」は、まったく別物であり、「発達」が高くても「人格」的に低い人はいくらでもいるし、「発達」的には低くても「人格」的に高い人がいる。「発達」と「人格」は別物であることを強調して講演をした。

 

人間の存在は「身体」「知能」「精神(こころ)」から成り立つ

 

 「日本重症心身障害学会」は、「重症心身障害児(者)」に取り組んでいる医師など医療関係者が中心で、教育・保育・福祉に携わっている人たちも参加している。

 「第40回大会」は、9月に京都でおこなわれ、私が「重い障害のある人の生きるよろこびと『生命倫理』」というタイトルで、特別講演をおこなった。1日目の参加者約1000人。

 「重症心身障害」というのは、身体的には「ねたきり」か、それに近い状態で、知能にも「重い知能障害」がある状態であり、それらに合併して「てんかん」があることが多く、また二次的に、身体の「変形」などが起こりやすい状態である。

 私は、人間の存在は、「身体」「知能」「精神(こころ)」から成りがっていると考えている。重症心身障害児(者)と呼ばれる人たちは、「身体」は動かず、「知能」は重い障害がある。しかし「精神(こころ)」は障害を受けていない。むしろ純粋で素直で明るい。そして人の「こころ」を感じる能力があると思える。

 その重い障害のある人たちと接していると、自分のこころから「やさしさ」がひきだされてくるように感じるし、一方で、何もわからないように見える、心身の重い障害のある人たちは、状況を感じる様子があり、あるいは人を感じる特別のセンサーをもっているのではないかと思うこともある。身体の障害が重く「ねたきり」と言われているし、知能の障害も重く「何もわからない」と思われているが、わたしたちよりもいろんなことを感じながら、生きているのではないのだろうか、という気がしている。

 「身体」「知能」は重い障害を受けているが、「快」「不快」は感じている。そのため、いかに「快」の状態で生きていけるようにするかということが重要であることを強調した。

 

 201411月に長崎で行われた「日本重症心身障害福祉施設協会西日本協議会」は、重症心身障害児施設の協議会で、200名の出席者であった。この基調講演では「重い障害のある人の生きるよろこびは」というタイトルで話した。またシンポジウムの座長を行った。内容は上記2講演と重なっているので省略します。

 

出版本の宣伝

「はだかのいのち−障害児のこころ・人間のこころ」大月書店 1997

「透明な鎖−障害者虐待はなぜ起こったか」大月書店 1999

「埋立地からの叫び−ある住民運動の記録」技術と人間 2001

「蜂が戦い・椰子もはたらく−南ベトナム解放 ベンチェの戦線」文理閣 2003

「こころを生きる−人間の心・発達・障害」三学出版 2003

「子どもの心・おとなの眼−人間・障害・思想」クリエイツかもがわ 2008

「重い障害を生きるということ」岩波新書 2011 など

 

 

(写真説明)

ベトナムの障害児支援のために、1977年「ベトナムの子どもたちを支援する会」を立ち上げ、メコン川流域のベンチェ省(「省」は日本の「県」にあたる)には毎年行っていたが、最近は行けない年もある。写真は2012年に行ったときの歓迎会の催しが行われた壇上。右は前知事で、現在は診療所所長をしているレ・フィンさん。

竹上貞之家族写真
 竹上貞之家族写真


     


「卒後50年で思う人の縁の不思議さ」        平成27年 竹上貞之

医師をしていて実に不思議な人の縁が多いことに驚いています。 此方は胸に名盤を付けていますので当然相手は名前を知っていますが、私は相手のことは名前と住所は判りはしますがその歴史は知りません。 病院では患者として向き合っているだけですが、可なり時間が経ち打ち解けて色々な話が出束るようになってから「もしや日赤の竹上先生のご親戚では?」と尋ねられることが屡ありました。 私は「息子ですが」と答えますと、相手は「私が、或は家族がお父さんのお世話になっていました」と驚かれるのです。 父は長らく京都第2日赤の内科で活動していましたので京都では色々な意味で有名でしたので多くの患者を診ていたからですが、京大病院時代にも他の病院に勤務していた時にもこのような事が度々ありました。 ご姉妹は私の診療所で診ていましたが、顔も名前も違うけれど鬱の症状は同じであり処方も同じようなものでしたが、ご姉妹が妹ですと連れて来られて知り2度びっくりも有りました。 また、第2日赤で親爺が診ており言うことを聞かないので退院させた患者が内科研究棟の掃除のおばちゃんの親戚であり、内科のスタッフ医師は皆顔見知りなのでコネを使った我が病棟に入院され主治医が私になり、名盤を見て竹上と知り私が帰宅した時に偶々父が帰宅しており「お前彼奴の主治医か?!」と驚きましたので「何で知っているの?」と驚きましたが、親戚の人、その方も父が診ていましたが、「悪いことは出来ません」とお詫びに来られたとのことでした。成程我儘一杯で医者の言うことも看護婦の言うことも全く聞かず、娘や付添婦には心筋梗塞なのに大喧嘩をする有様で切れる親爺なら「お前は診ない。帰れ!」と怒ったのは無理の無いことと思いました。また、何も言わずに姑である八瀬平八の大女将に同伴していた若女将が父が仲人をした患家先の娘であることも後から判り驚きました。 親子で狭い京都で同じ内科医でしたからこのような事も多かったのかと思います。

医療では無く私がやっていた軟式庭球でも色々と不思議な出合いが有ります。 私は中学時代に軟式庭球を始めましたが、その時に指導して頂いた先生は京都軟式庭球界では有名な方でした。 私は医学部に入学し医学部の部は専門に進んでからでは無いと入部できないので、2回生の終わりには吉田康成君と一緒にホンちゃんの軟式庭球部の春合宿から再開をしました。 芝蘭会歓式庭球部では5年先輩で西日本の優勝杯は全て京大に有ると言う軟式庭球部の弟2期黄金時代を造られた世代の糸川先生、衛生の助手になられたばかりで監督になられ、金津君等と練習に励みましたが中学時代の先生から「お前は前衛」と言われたことが頭から離れずに前衛をしましたが、前衛としての能力は金津君には及ばず、6回生の時に私の性格や技術からは攻撃の要である前衛では無く、ゲームを作る後衛が向いていると思い6回生の時に下級生に対する特権と「後衛になる」と宣言し、今は糖尿病学の権威者である清野裕君、初心者ではありますがひたむきでガッツの在る彼を前衛にペアを組み最終の西日本大会個人戦でベスト16に残りました。 その結果、翌年は清野君はシードをされてベスト8になり全日本大会に選出されることと成り、卒後はコーチも務め教授になってからは部長も務めて呉れました。 糸川先生が定年を迎えられ、その祝賀を現役OBで催しましたが、その場で部長を清野君に譲られると共に前OB会長の清水三郎先生からOB会長を譲られましたが、ひょんな事情から私が副会長を受ける羽目になりました。

部長も糸川先生から清野教授になりました。そうなりますと納会にはOB全役員として出なくてはなりませんが、部長は清野先生が関電病院に出られた後は放射線治療がご専門の平岡真寛教授です。 丁度吉田君が肺癌の脳転移が判り彼の専門から脳に広範な放射線を当てることを嫌い京大ではピンポイントで照射できると知り「誰か?」と電話を掛けて来ましたので平岡先生にお話をしましたら丁度東京に行く序でが有るからと入院先の東京医科歯科大まで足を運んで呉れて入院先の医師達とデーターを見ながら京都に来るまでも無いとの結論でしたが同じ釜の飯を食った仲間は有難いと思いました。

また学生の指導陣とも顔を合わせることと成りましたが、私達の時代は黄金期の後ですから監督もコーチも全て先輩でしたが、以後の低迷と卒業すれば多忙の理由から先輩のコーチは僅かとなり監督もコーチも実業団やインカレで活躍された方を外部招聘してでしたので。

監督は高島屋で、コーチ陣のトップはシニアでも全日本優勝者であり対外試合でも日本代表を勤められた有名なテニスプレイヤーです。コーチ陣のトップは私が中学時代に指導をして頂いた先生を良くご存じであり驚きましたが、心筋梗塞で運び込まれた病院は私が以前の勤務していた病院なのも驚きましたが、ステントを入れても尚テニスをやっておられます。

監督も、私の中学時代に1級上で未だテニスをしていますが、監督の高枚の先輩であり今尚その先輩とはテニスを一緒にやっている人です。驚きました。

また、小院では近くの患者が日本体育大学の出身で軟式テニスでは活躍された選手であり今は京都の公立高校でテニスの指導されている方と判り、話しが深くなりますと京大のホンちゃんの軟式庭球部で活躍されていた工学部の沼田氏を良く知って居られ、今後輩達にコーチ陣のトップの明井さんも良くご存じとのこと、また女性で体格の良い方に「貴女は何かスポーツをしていましたか」と問いますと「軟式庭球」と言われ色々聞きますとコーチ陣のトップの奥様も全日本の選手で有名であり京都レディスの会長をされてましたがご病気で退かれた後を任された方と知りまた驚きでした。

そのようなことで我が小院は屡テニス談義に花が咲きました。 それが切っ掛けで今年は今も近くに居る中学時代のテニス仲間が60年振りの再会であるOB会を開催して呉れるおまけも付き、インター杯で活躍し今はシニアでも優勝候補で全国を転戦している1級後輩はラケットとテニスウエアーで明日関西大会が在るのでと横浜から駆け付けるなど1年先輩から2年後輩の計12名があつまりましたが、何分60年娠りですので近くで稀に顔を合わせる以外のものは顔が判らずに困りましたが。

医学部軟式庭球部OB会長だった糸川先生は先日亡くなられましたが、学生時にはロカビリーで有名な方でしたが監督としても会長としても優しく穏やかな方であり、部員としても副会長としても話し易い兄のような方でした。

「私の好きなジャズ」でも不思議な縁の連続です。 入学し宇治分校に行くようになり最初に声を掛けたのは、2年間の予備校生活で1年目と2年目は異なる予備放でしたが何れでも同級であった横山重喜君と騰所高出身で白眉の物静かな秀才鈴木康弘君でした。同級生と言えば石黒君は京都洛北高枚の秀才ですが、彼が結婚をした時に私に向かい「竹上さん到頭親戚になった!」と言いましたが、それは私の従兄の嫁の妹と結婚したからでした。

鈴木君は寡黙な人でしたが、趣味の話をして彼がクラリネットを吹きジャズが好きと知り宇治分枚の原っぱにギターアンプとクラリネット持ち込んで合奏をしたのが楽団「ゲロイシュ」の起源なのです。

以後は6回生の時のハワイアンバンドになりましたが、卒後も教室にはインターンも含めスチールギターの名手岡本道雄先生の甥で私の高校の先輩や京大ギタークラブのキャプテンを務めたギタリストや京大交響楽団のベース弾きも居りウクレレには篠山君も居ますので早瀬助教授の岐阜へのご栄転祝いに座興として演奏をしましたが、ギターそれも金属ガットのものは内科医には指の皮膚を傷め厚くして触珍には駄目と、また早くに父を継いで代診をしましたので開業医には趣味や遊びは捨てるべきと楽器や歌とも縁を切り、ジャズも聞くだけになりました。

しかし、確か5年前の39会が都ホテルで有りましたがその2次会が同ホテルのバーラウンジ・ムーンライトでしたが、そこに行くと久しく聞いていない女性の素晴らしいジャズヴォーカルが耳に心地良く、2次会を放り出しステージの真ん前でソファーに座り聞き惚れて2次会が終わったのにも気が付かずに居りました。 彼女に会い話をして10年間からのプロ活動をし神戸ジャズフェスティバルで準グランプリを取った歌い手と知りその後何度かムーンライトに足を運び、別のライブ会場にも行きましたがその場で高校時代の同級生に会いました。 奇遇を喜びましたが彼は同志社大学軽音楽部で活動しており、その歌手も彼女の師匠である関西での重鎮であるサックス奏者古谷充も知っていると言うことで、彼が待っているビルの一室で毎年ミュージッシャンを招いてホームパーティを開いていると招いて呉れましたが、丁度四宮君も都合が良くて一緒に行きました。

彼女の名前は阪井楊子ですが、関西を中心に名古屋や東京にも活動の場を広げていますが、伴奏のミュージッシャンも全て素晴らしい腕と感性の持ち主でありその中のピアニストも同時にファンになりましたが、またその彼が私の高枚の同級生澤瀉久隆京大文学部教授の娘であり染織作家として活躍していますが、その息子がジャズクラリネットやピアノの演奏家であり一緒にバークレイ音楽大学の日本サマーセミナーで一緒だったと知りビックリ。 またデュオを組んでいる女性が同じジャズフェスティバルで昨年グランプリを取っていますが、またこれが高枚時代の例の仲間の小学枚の後輩で私の処から近い白梅町近くで子供時代を過ごしたと言うのにも驚きました。

また大学時代ですが静岡に嫁いだ姉を訪ねて泊まりましたが、姉が「城址公園のホールでデュークエイセスの公演のチケットが在るけれど行く?」と言って呉れましたので姉と一緒に行き幕が開くと小学枚時代から仲良くしていた友人がトローンボーンを吹きバンドマスターをしているでは無いですか。

幕間こ楽屋に訪ね奇遇の再会を喜び合いました。 彼は小学枚時代から英語が得意で彼と共に英語の歌を一緒に歌った仲であり慶応に進んだ後も京都に来て琵琶湖も泳いだ仲でしたが、高校後は年賀状のやり取りだけになっていたのです。ジャズシンガーに再びジャズに目覚めさせて貰ってからは毎年のクラス会でジャズ談義をしていますが彼は未だに慶応ライトミュージックソサエティーの仲間が集まりバンドを演奏をし公演をしたり仲間内で楽しんだりしているようですが。

趣味や余技でも色々と世界が広まると歳を重ねるほどそう思うこの頃です。

私は入学後に自己紹介で「京都に生まれ、京都に育ち」と言いましたら誰か口の悪い奴が透かさず[そして京都で死ぬのだろう]と言いましたが、その通りになりそうですが音楽や余技の世界は京都に留まらずに広がることに有難さを感じるばかりです。

写真を添えてとのご指示ですが、何でもよさそうなので別葉の写真にさせて頂きました。

説明を加えさせて頂きますと、写真の前中央は母の末妹で93歳の叔母であり、その後ろ向かって少し左が叔母の孫です。

彼女は従妹妙子、彼女は京大文学部卒でピアノや染色が好きであり藍染を研究と実践をしていましたが、丁度京大に留学し放射線の研究をしていたスイス人と結婚をし設けた娘がハーフのエリカですが、妙子は40歳の若さで早世しましたが娘のエリカは子供時代からバイオリンを習い今ではプロの端くれで活動をしていますが心優しい娘でありますので、トリオを組んだ仲間と日本に来たと祖母の為に伏見の一音寺と言う寺の住職がチェリストであり本堂をコンサート会場に造っているので、そこで年老いた祖母や叔父、妙子の知人などを招き開いて呉れたコンサート後の集合写真です。 彼女の名前は Erika AKane Shutter(旧姓Acchermann)です。近影では一番良い写真と思いますので。

 

Gereusch 楽団「ゲロイシュ」

     

医者の医者通い

                         轟 文夫

 45歳で独立開業し、週一ゴルフを唯一の楽しみに無我夢中で突っ走って来た。  72歳の5月の或る日曜日、ゴルフから帰って夕食後、小用の際に便器に血の海を見た。

血尿は一回限りで治まったが、只ならぬ事態と認識し、翌日泌尿器科を受診。膀胱鏡で1,5cmのポリープ状腫瘍を切除、多分大丈夫でしょうとの主治医の言葉にほっとした。ところが一週間後断端に悪性細胞の浸潤ありと知らされた。膀胱全摘を勧められ傷心の末に決断した。療養生活が長引く可能性もあり、また、もう充分働いたからゆっくり休養しなさいという天の声かもと勝手に判断し、一週間で全ての患者さんを近医に紹介して閉院した。膀胱全摘+回腸人工膀胱増設術という骨盤底での複雑な手術は14時間を要したが無事に乗り切った。術後経過は順調で暇を持て余してゴルフ三昧の日々を送っていた。

 73歳の夏頃からゴルフボールの行方が判りにくくなり、秋には日帰りで両眼の白内障手術を受けた。

 76歳になって歯の調子が悪くなり、何年振りかに歯科を受診したところ、あちこちがガタガタになっていると言われ、2年間かかって8本のインプラント手術を受けた。

 78歳になった昨年の春頃から日課にしていた一万歩の散歩の途中で両下肢の痺れで歩行不能となる、いわゆる間欠性跛行が始まった。徐々に悪化したため8月に腰部脊柱管狭窄症の手術を受けた。幸いにも順調に経過し以前の日常を取り戻した。

 70歳を過ぎてから経年性疲労なのか身体のあちこちにガタが生じ、部品交換や修繕で何とか生き永らえている状況である。ところが或る病気で或る医師にかかると病状が改善しても「はい、治りました」とはならない。定期的な保守点検が必要だからである。一度診て貰った医師とは多分一生縁が切れないのであろう。

 泌尿器科、眼科、歯科、整形外科とそれぞれに医者の医者通いがあって結構忙しいのである。後期高齢者医療費が社会的な問題となっている昨今、その責任の一端を感じながら何となく肩身の狭い思いで過ごす今日この頃である。

 今春の39会は出席出来ませんが御盛会を祈ります。ご出席の皆さんの会話のかなりの部分がお互いの健康状態を確認し合う場になるような光景が浮かびます。どうかお互いの健康を祝福し、讃えあう場になるよう願っています。

 

 @-1(浜坂)  

     『写真に魅せられて』        内藤 成敞


 学生時代は余裕がなかったので、残念ながらカメラを手にしたことはありません。卒業して3年くらい経過した頃、衝動買いだったと思いますが、初めてカメラを手に入れました。「素人でも比較的簡単に写真が写せる」と宣伝にあったので新開発(ペンタプリズムの付いた)の「ニコマートFT」を購入、そこから私のささやかな写真の人生が始まりました。初めは平凡ですが家族、主に子供を撮ることからスタートしています。基本を勉強するわけでもなくただ単に子供の表情、しぐさの面白さを撮って「アルバム」にして楽しんでいました。そんな状態がしばらく続いた後、たまたま2年間「山陰:浜坂町=現在の新温泉町」に単身赴任することになり高級機?「ニコンF3」を入手、ここから被写体が風景中心に替わりました。時間・天候・季節による自然の変化の大きさを痛感しながら、暇を見つけては撮影をしていました。半年ぐらい経過した時、そんな私の姿を見てある人が、その町の写真クラブ(小さい町でしたが写真愛好家が多かったようです)を紹介してくれました。早速、勧められて年2回ある写真コンクールに応募。何故かすぐに入選してびっくり、そしてなんと2回目と3回目に「特選」に選ばれて、なにがしかの賞品さえ手にしました。



2年後、尼崎に戻り近くの「サークル・アイ」と云う写真クラブに入り、基本から写真を習い本格的に勉強を始めました。なお、この写真クラブは発展的に解消して平成8年、現在の『写塾AIM』に変わっています。塾長は元、大阪芸術大学の教授「有野永霧氏」で塾生は約50人、そうそうたるメンバー{塾生の約半数がニコンやキャノンなどのメーカーのギャラリー(審査のある)で個展を複数回開催しています}が揃っていて、個人の主催する写真クラブとしては「実力日本一」だと思っています。年1回、秋に「写塾AIM・写真展」を梅田・新宿・塚口等で開催していて今年は第20回を迎えます。以下、私の記念となる写真15点を皆様にも見ていただきたく添付します。


-1:初めての浜坂の写真クラブで特選に選ばれた写真です。秋の早朝、霜の降りた畑を逆光で撮ったものです。同じ場所で何回かシャッターを切りましたがこれ以上の作品はできませんでした。やはり千載一遇チャンスであったようです。


-2:諸寄で撮った夕日です。岩と松と太陽と釣り人がバランスよく撮れた作品です。この角度で、ここに沈む太陽は一年にこの日だけです。肉眼で夕日がくっきり見える気象条件も珍しく、二度と訪れない瞬間に恵まれました。


②:『JPS展』(公益社団法人日本写真家協会展)に入選した写真で場所は神戸ポート・アイランドの国際会議場の前です。水の流れる「Rising Pier」と名付けられた作品の正面の壁と水面に映った自分の影を使って作品にしました。


③:「尼崎市の市展賞」をいただいた写真で工事中の阪神高速⑤号線(湾岸線)を広角で撮ったもので、逆光の中に輝く雲がポイントになりました。


④:2004年の4月大阪リーガ・ロイヤル・ホテルのギャラリーで開催した初めての個展『ワンダーランド』の案内状に使った写真です。USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)の入り口にある大きな「シンボルの地球儀」と周囲に置いてある「球形の石」とをサイズが同じに見えるように工夫して写したものです。


⑤:長居公園陸上競技場の前にあるモニュメントの球体を撮ったものです。冷たい2月の空気の中で太陽の光を浴びて白色と金色に輝いています。「第10回写塾・AIM写真展」の案内状に採用されました。


⑥:場所は西宮にある「甲山森林公園」です。モニュメントと噴水のつくる虹と雲のバランスが良かったので、立ち上る煙に見えるような写真にしました。201010月大阪の「ニコン・サロン/bis」で開催した自分の個展『PARK COSMOSの案内状に使っています。


⑦:20114月に韓国済州島で開催された写真展にも出品しましたし、その「Group AIM's Photo Exhibition  Sensibility of Japanese」の案内状にもなりました。


G:香港に旅行した時、九頭龍島で撮った古い作品です。ガイドから危険なので入らないようにと注意された取り壊しの迫った雑居ビル「九龍城」の前に毅然として座っていたホームレスの老女をスナップしました。


H:場所はポルトガルで、スペインに近い田舎町できれいなピンク色のカブトムシに出会いシャッターを押した作品です。路面とバックの壁と並木とのバランスが絶妙で絵のような作品ができました。


⑩:建て替えられて間もない頃のJR京都駅の屋上で撮ったものです。正面にあるポスター「大きな眼の像」がポイントになっています。



J:草津の水生植物園の手前にある烏丸記念公園で撮った作品です。金属製のアーチを真横から撮って輝く剣のように表現してみました。


K:淡路島にある「イングランドの丘」で撮った作品で、きれいな上空のうろこ雲と階段の手すりに映った青い空とのバランスが見事なので写真にしました。



最近の写真も3枚追加しておきます。先日ハリー・ポッターで復活したUSJに行ってきました。


USJ-2:ハリウッド・ドリーム・ザ・ライドを逆光で撮ってみました。きれいなデザイン的な映像になったように思います。


USJ-3:ハリー・ポッター・エリアの道標の街燈に灯が入ったところを 夕焼け雲と組み合わせて撮りました。


USJ-4:日が暮れたユニバーサル・スタジオ・ストアのショーウィンドーです。その前を通る女性をシルエットにして作画してみました。ここUSJは何度行っても幻想的・Fantasticな映像の撮れる空間だと思います。


この写真クラブは数年前まで、年に1回、有志でヨーロッパ(イタリアを中心)に約1週間の撮影旅行をしていました。勿論、有野先生の指導付きのツアーで、私も何回か参加しました。過密スケジュールの中で沢山シャッターを押すのですが、「出来た!と喜べる写真」はごく僅かしかありません。その中から何点かを追加して『パソコンから見る写真付き文集』を賑やかにさせていただきます。


◎イタリア旅行の写真を20点選んでみました。これらも、まとまりのない私独自の視点での映像です。


1Firenze① Arno川の岸壁に並べてあったアルミ製のワイヤーで作ったバイク(Hand Madeのお土産品)


2Firenze② Vecchio橋の欄干に坐ったスタイルのいい若い女性


   3Venezia① 改装中の壁「ドゥカーレ宮殿と牢獄」の間に架かった「ため息橋」とその下を走るボート


4Venezia② (平凡ですが)狭い小運河と行き交うゴンドラ。


5Venezia③ Rialto橋とゴンドラ


6Venezia④ サンマルコ広場のカラーパラソル。


〇南イタリアのプーリア州の町アルベロベッロ、白壁に円錐形の石積み屋根を載せた「トゥルッリ」が多数集まった特異な景観を有する町で大変有名です。Internet上で沢山の写真(いい写真が沢山あります)を見ることができますが、実際に見るのとでは、やはり違っていました。短い滞在時間の中でいろんな角度から撮影しましたが絵葉書以上のものは無理でした。


7Alberobello① 黄色い自動車「SMART」とトルッリ (trulli)


   8Alberobello② 自分の紐(リード)を咥えて歩く賢い犬とトルッリ (trulli)


  〇イタリア南部、プーリア州にある中世の丘上都市です。堅固な城壁に囲まれた白い建物が目立つ街で細い路地を歩いて行くときれいな被写体が沢山ありました。


9Ostuni① きれいなレストラン(鳩と旗と影がアクセント)


10Ostuni② 白い壁と干し物と植木(バランスがいい)


〇プーリア州のフォッジャ県にある人口13000人の街(標高約800m)で古くは紀元6世紀から世界でも有名な巡礼地(カトリック教)の一つとされているそうです。


11Monte Santangelo① 風船で飾られた教会の広場


12Monte Santangelo② Normanno城跡から望む下界


13Monte Santangelo③ Normanno城跡1


14Monte Santangelo④ Normanno城跡2(逆光)


〇云うまでもなく有名なナポリです。街中は、昼間でも危ない町と云われガイドに連れられて団体で商店街を急いで歩いてきました。恐怖心が先立って思うようにシャッターが切れなかった中に何枚か面白い写真は撮れました。しかし、あいにくの雨でしたので海辺の写真を選びました。


15Napoli① ヨットハーバーと、その上に輝くひし形の雲


16Napoli② 大きな美術展の広告が彩る卵城(Castel dell'Ovo


〇ヴェスヴィオ火山の噴火で有名なポンペイの遺跡です。雨が降ったりやんだりであまり写真は撮れませんでした。ただ観光客が少なかったので雨に濡れて光った石の道をメインに撮ってきました。


17Pompei① 雨に濡れた蘇った古代の道1


18Pompei②  雨に濡れた蘇った古代の道2


〇イタリア南部、カンパニーア州ベネベント県の県都。 サバト川とカローレ川の合流点に位置し古代ローマ時代よりアッピア街道の要衝として栄えた町だそうです。


19Benevento① 平凡ですが「街中のスナップ」


20Benevento② ローマ時代の遺跡 『トラヤヌス帝の凱旋門』


◎フランスでの写真(モンサンミッシェルとヴェルサイユ宮殿で撮った4枚)を追加します。


    〇モンサンミッシェルの中のホテルに泊まることができたので、朝から夜のライトアップまで撮影できました。でも絵葉書以上の写真は残念ですが含まれていませんでした。


21Mont Saint-Michel① レストランから眺めた尖塔


22Mont Saint-Michel② 干潟に落ちる塔の影


〇村上 隆氏のことは下記で見ていただくとよく分かると思います。


http://www.toyokitchen.co.jp/blog/nabeforum/2010/09/  を見てください。

Louis Vuittonのデザインでも有名です。


23 Versailes① ヴェルサイユ宮殿の庭園に現代美術家「村上 隆」の巨大な『金色のカッパ像:Oval Buddhaが展示されていました。「祖先冒とく?」と物議をかもした作品展。これは何億円もするそうです。


24Versailes② 入り口にある「ルイ14世の騎馬像」の影



  以上です。ご鑑賞ありがとうございました。   20152月   

 


         

@-2夕景(諸寄

AJPS展
 B尼崎市市展賞
 CUSJ 1
 D長居公園陸上競技場
 E甲山森林公園

F甲山森林公園韓国展
 G香港九頭竜島
 Hポルトガル
 IJR新京都駅屋上
 J烏丸記念公園
 Kイングランドの丘
 LUSJ 2
 MUSJ 3
 NUSJ 4

1:Firenze@

2:FirenzeA

3:Venezia@

4:VeneziaA

5:VeneziaB

6:VeneziaC

7:Alberobello@

8:AlberobelloA

9:Ostuni@

10:OstuniA

11:Monte Santangelo@

12:Monte SantangeloA

13:Monte SantangeloB

14:Monte SantangeloC

15:Napoli@

16:NapoliA

17:Ponpei@

18:PonpeiA

19:Benevento@

20:BeneventoA

21:Mont Saint-Michel

22:Mont Saint-Michel

23:Versailes@

24:VersailesA
松江城にて
松江城にて


人生のひとこま  中村泰尚

 

 栗原先生の御尽力でまた文集を作るようです。来年の話ですが、思い立ったときでないと忘れそうなので、いま頭に浮かんできたことを書きとめました。締め切り頃に読みなおすときっと嫌になるでしょうが、まあお許しください。写真は昨秋、出雲、松江、皆生温泉を旅した時のものでちょっと古いですが、今さら変わるわけでもありません。

 

 卒業50年記念誌に書いた一部から話を続けます。電子顕微鏡で神経系を観察することを始めましたが、何を見たらいいのか分からずさし当り脊髄の前角の運動ニューロンを対象としました。そのうちに軸索終末の変性を知りたくなり、先輩が使った脳の一部を廃物利用しようと考えて、ネコの上小脳脚を切断したケースを貰い受けました。上小脳脚は小脳核からの投射線維の束で、中脳にある赤核や視床の外側腹側核に終わることが知られています。視床の核を同定するのは難しそうなので赤核を観察対象としました。やがて無事変性した軸索終末の多くが赤核大細胞の細胞体にシナプスしている像を見ることができました。細胞体にシナプスするのは局所回路ニューロンからの投射で、遠方からのものは樹状突起にシナプスするのが普通であると聞いていたので、赤核は特別なのかと思いました。ここから発展していくつかのペーパーを書くことができましたがそれは別の話です。
 文献を読んでいると、赤核を電気生理学的に調べている研究グループがありました。その中心におられたのが日航機事故で亡くなられた塚原仲晃先生でした。これらの仕事でお付き合いができた塚原先生にあるとき、どうして赤核を研究に選ばれたのかと聞いたことがあります。先生は細胞が大きくて、細胞体に電極を刺入しやすいからだとおっしゃいました。こんな偉い先生でも実験の初めは単純なことから始められるのだと、何かほっとしたような記憶があります。また何かの研究会の際どなたかが、塚原先生と医化学におられた西塚泰美先生が従兄弟であるから、というようなことを話されたことがありました。
 学部の1
年の夏休みに、早石修先生が研究室に見学に来たい者を誘われました。どうせ家にいても仕方ないと思って希望したのですが、馬場君、野口君と一緒にその西塚先生のもとに配属されました(もちろん西塚先生と塚原先生の関係など知りませんでしたが)。何をしたのかろくに覚えていませんが、ベックマンの分光光度計を使って何かの反応をグラフにしたり、ビタミンA欠乏ラットを十三の武田薬品まで分けてもらいに行ったり、早石研で有名なランチセミナーに顔を出したり(きっと何も理解できなかったと思います)して日を過ごしました。私が基礎医学の研究に素直に入れたのは、ひょっとするとこの時の経験もあったのかと思うことがあります。具体的には何も覚えていませんが、西塚先生から色んなことを聞かされたのでしょう。ちょっとした機会にお目にかかれた先輩の研究者から少しずつ影響を受けていたのかもしれません。後年早石先生にお会いしたときに当時のことを申しましたら、君惜しいことをしたね、うちに来ていたら今頃ノーベル賞を取っていたのにと、久しぶりに先生のきまり文句を聞くことができました。
 ばかばかしいお話をひとつ。私は学部に上がってから医学部ラグビー部
入りました。先に南亮君がいました。学生時代は数えるほどしか勝ったことがなく、不完全燃焼であったので卒業後に、関西ドクターズ・ラグビーフットボール・クラブという医者のクラブに参加しました。大阪市大、神戸大、大阪医大などの卒業生がいて、日曜日ごとにそれほど強くない上品なチームや、医学部、医科大の現役チームを選んで試合をしていました。このクラブのおかげでようやく私も勝利や、トライの喜びを味わえるようになりました。それはさておき、山中伸弥氏がノーベル賞を授与されたときに発表された経歴に、学生時代にラグビーをしていたとの記事がありました。もしかしたら神戸の医学部と対戦した時に彼も試合に出ていたのかと考えましたが、残念ながら少し年が合いませんでした。彼が現役の時には私はもう京都を離れていました。
 もう御一方、理研の理事長である野依良治氏も学生時代に京大の本チャンでラグビーをしていたそうです。同学年だったお一人が、新聞の交遊抄に書いておられました。われわれの一年上の学年です。そうすると農学部グラウンドで試合こそしませんが出会っていたかも知れないと思いましたが、彼は教養時代だけ、私は学部に入ってからということでこちらの方も少しの差で、ノーベル賞学者とのラグビーの出会いは幻でした。
 ついでにもう一つ。私が金沢に赴任したときに、一人の教授が君はラグビーをしていたのだって、と話しかけてきました。当時はまだ紛争時の記憶が残っていたのでしょう。教授を吊し上げたりするよりは、気楽にグラウンドを走っている奴の方が安心だと考えられたのかと思いました。そういうと私のすぐ後で、岩堀先生が長崎大学に応募したときのことです。ある大学の教授が、岩堀先生が京大の精神科で暴れている人間だと、根も葉もない噂を広めたということが伝わってきました。やがていい加減な話であることがわかって良かったのですが、まあそういう時代にめぐり合わせたということでしょう。
 ただ何となく過ぎて行った75
年と思うのですが、こうして少し振り返ってみると、意外な人との出会いがあったり、出会い損ないがあったりと人生は面白いものです。

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 少し古いですが、追加の写真をお送りします。
 古いほうから少し説明します。
 三井君と一緒に写っているのは、2008年にインターン時代の仲間と新潟へ家族旅行した時のスナップです。
 泉水の前に私が立っているのは家から車で30分くらいのところにある府中の森公園に2010年春に訪れたときのものです。
 芝桜の前は、2011年に行った立川の昭和記念公園で写しました。
                                                                      
 中村泰尚

府中の森公園

昭和記念公園

三井君と

六角堂にて

「六角堂にて」

一昨年のある日、街でランチをした後に思い立って六角堂を訪れた時のことを一筆したためます。

「六角さん」ともいわれ、京の真真ん中であることを証する「へそ石」なるものが境内にあります。周りをビルに囲まれて、昔はいざ知らず今は広いとは言えない境内です。
入ってほどなく多くの鳩がチョコチョコと歩きまわっていて、見ている内にいきなり頭上に何かが載った感じがして、どうなっているのか夫に訊きましたら、鳩が止まっているよとのことで、早く、と頼んで撮ってもらったのがこの写真です。
鳩は突っつくわけでも餌をねだる風でもなく、また帽子を汚すこともなく(フンガイせずにすみました)しばらく留まってから、すーと飛んでいきました。一体この行動は何だったのかと考えてみても?で、一度人間の頭の天辺に止まってみたかった「好奇心おばさん鳩」だったのか、はたまた親鸞上人のお使いかなどと勝手にいろいろ想像しています。いずれにしても不可解ですが、私にとっては珍しい、まさに一期一会の体験でした。

この後もう一つ驚いたのが境内の池に白鳥がいたことです。写真の後方に少し写っている親子さんが「白鳥さんを見に行こうね」と話しているのを耳にしてついて行くと確かに3〜4羽が池に浮かんでいました。狭い池の中で可哀想な気がしましたが、この街なかに!と意外でした。

珍しいことを見聞き経験することは老化防止の一助になるかと、これからも好奇心を持って暮らしたいと思います。

  羽白多恵子
ニースにて
   ニースにて

   


身辺瑣事近況 U

 

    わすれなぐさ                                                         Vergissmeinnicht  

ながれのきしのひともとは                                   Ein Blümchen steht am Strom         

みそらのいろのみずあさぎ                        Blau wie des Himmels Dom

なみことごとくくつずけし                                 Und jede Welle küsst es

はたことごとくわすれゆく                                 Und jede auch vergisst es

                (Wilhelm Arent: Vergissmeinnicht上田 敏 訳

 

現役のころと違ってこの頃はもうあまりかからなくなってきた携帯電話に、久しぶりに、同じ頃に定年となった外科のProf.V.Meyerから電話がかかってきた。何事かと思ったら、患者でイスラエル、Tel Aviv在住のS女史についてであった。定年後、彼の紹介でこの女史にはHydrocephalus malresorptivus の治療としてVP shuntの手術を行った。その後経過は良く、主訴であった歩行障害がよくなり、毎年クリスマスにはイスラエルからフレッシュなオレンジを送ってきてくれていた。あれからもう6、7年経っているはずであるが、脳出血したので、現地の医者から電話をしても良いかとの問い合わせである。勿論OKした。その次にかかってきたのは、その息子さんらしいが同じような問いであったので勿論再びOKした。最後に担当のTel Aviv大学の脳神経外科のボス?から流暢な英語で電話があった。Shuntとこのように長期間たってからの脳内出血の関連については不審に思っていたのだが、実は慢性硬膜下血腫であったと聞いて納得した。硬膜下血腫の手術をして一旦良くなっていたが再び発生したので、多分家族が私の意見を聞いてくれということだったのだろうと思った。私であれば、Shuntの圧を高くしてAntisiphon deviceを付けるとの意見を述べた。彼もこの答えに納得して自分たちもそうしようと思っていたところであると述べられ、電話が切れた。その後再びご家族から電話があり、丁寧にお礼を述べられた。このように2段階3段階で聞き合わせがあると長く離れた日本でも、そういえばこのようなことがあったなと日本的な余情を思いだした。

日本的な余情と言えば、最近知人のKimさんから届いたカードにもそれを感じたものである。帰国の為の物品整理をしている際、随分昔に彼からお借りしてそのままになっていた十数冊の剣豪小説を見つけた。お詫びと共に送り返したところ、流暢で典雅な日本語のカードがきた。

<昨日ソウルから戻ってまいりました。本を送ってくださりありがとうございました。京都にお帰りになるとのこと、ご夫妻のいらっしゃらないスイスが一段と寂しくなりそうです。もう十分にお働きになりましたから、京都にお帰りになりゆっくりとご休養なさるのもよろしいかと思います。今までのご夫妻のご厚意と友情をありがとうございました。くれぐれもご健康にて、さようなら!

Kimさんと知り合ったのは、若いころ1970年代に私どもが最初にこちらに滞在した時である。当時彼はご夫妻そろって、ユダヤ人の政商で大富豪のスイスの別荘の住込み管理人をしていた。その大富豪E氏がソウルでホテルの支配人をしていたKimさんの人柄を見込んでスイスにつれてきたということだった。Zurich湖のほとりの高級住宅地にあるその大邸宅は、美しく広い庭園と地下室にボウリング場や卓球場を擁していた。そこでKimさんご夫妻と卓球をして遊んだものである。その後私どもは7年間のスイス滞在を終えて日本に帰り、いつの間にか長い時が流れた。やがて1993年に私がZurich大学に赴任してきて再会した時、Kimさんご夫妻は市内に立派な韓国レストランを経営して成功しておられた。不思議なご縁で何年か後に奥様を転移性の脳腫瘍で手術することになった。手術は上手くいったが奥様をその数年後に失われ、今はもうレストラン経営は親戚に譲り、ご自身は悠々自適の一人暮らしである。世界各地を旅したり、時々ソウルに帰られたり、と聞いている。数年前、私が手術をおこないに行っている私立病院から連絡があって、集中治療室の彼をお見舞いしたことがある。消化器系統の癌で手術直後であった。その後順調に回復され元の生活に戻っておられたのである。それ以来の音信であった。昔我々がいつも聞くたびに大変感心した、お人柄をそのまま表すような礼儀正しく美しい彼の日本語は、小・中学校当時に学ばれたもので、忘却することなく保持しておられるものである。

最近の忘れられない衝撃的な出来事は、スリランカ系マレーシア人のMatthew君ファミリーに関するものである。今から4年前、Moyamoya病を発症したMatthew君(当時5歳)は、両親に付き添われて居住地のBaselから私の所まで手術を受けに来た。当地の小児病院Kinderspital Zürich( 我々が学生時代に使ったKinderheilkundeの教科書を編著したProf. Fanconiがかつてdirectorであった病院 )に於いて、両側性のSTA/MCA Bypassと一側のSTA/ACA Bypassを一期的に施した。術後は幸い順調に経過。その後一家は父親の転職を機に、スイスBaselから引き揚げてマレーシアに帰国していた。数年前に私ども夫婦がマレーシアを旅した時には家族三人でホテルまで会いに来てくれ、元気になった小学生のMatthew君を中心に再会を喜んだ。両親は二人とも教養があるだけでなく大変感じの良い人たちである。暖かい雰囲気の家庭でこの両親の愛情をたっぷり注がれて、少しシャイだがとても素直に育っているMatthew君を見るのは喜びであった。

今年の712日のことである。彼らから電話がかかり、夏休みなので一家でスイス旅行をしてもうすぐマレーシアに帰るところだが、今Zurichに居るので会えるだろうか、とのことであった。我々夫婦は急いで待ち合わせ場所に赴いた。一段と成長した元気なMatthew君と両親に再会し、一緒にお茶を飲みながら楽しい談話の時間を過ごした。彼らの言によると、スイスはレンタカーで回ったのだが、残念ながらずーっとすごい雨ばかり、もうすぐ帰るという今になってやっと晴れてきたそうである。Matthew 君たちマレーシアの少年の間でもサッカーは大人気とのこと。サッカーの話題はMatthew君を特に喜ばせた。折しもブラジルで催されていたFIFAワールドカップの決勝前日であった。お母さんが、クラスの中でスイスを応援していたのは彼だけだったという微笑ましい話をしてくれた。

   そして、彼らと別れてわずか5日後、717日のことである。オランダのスキポール空港からマレーシア国際空港に向かったマレーシア航空MH17便の旅客機が、内戦中のウクライナ上空で撃墜され、乗客298名全員が死亡したとの悲報を知った。犠牲者の中でオランダ人は192人、次に多いのがマレーシア人の43人とのことであった。出発地がスイスではなくオランダだったので、まさか彼らは帰路にこの事件に巻き込まれてはいないだろうと思ったが、それでも少し心配になり、「無事に帰宅したかどうか知らせてください。心配しています。」とメールで尋ねた。数日経過しても返事がない。不安が増してきた。どうやって彼らの安否を確認することができるだろうか? 家内がMatthew君の父親の勤務先と聞いていたShell Malaysiaのホームページを探し出してチェックしたところ、「残念ながらShell Malaysia社員の中にも犠牲者が出ました。ご冥福を祈ります。」というニュース欄を発見した。こうなると当然のことながら心配が更に高じ、家内が今度はこの会社宛にメールをし、具体的に一家三人の名前を書いて安否を尋ねた。数日間返事はなかったが、どうやらその間に会社が私どもからの問合せメールを転送してくれたもようで、Matthew君の父親の弟さんからメールが舞い込み、Matthew君ファミリーはやはりこの便に乗り合わせていた、という衝撃事実を知らされた。深い悲しみに暮れているMatthew君のおばあちゃんを始め遺族の方々の気持ちを思うと、我々には慰めの言葉が容易に見つからなかった。

   その後、この弟さんとは頻繁にメールをやり取りすることになった。何故かというと、この期に及んでまず一番大切なのは遺体の確認である。Matthew君に関しては、以前の手術の傷跡、開頭の部位などが手がかりになると思って、当時私が作成した手術報告書を私の娘が英訳し、また小児病院に残されている4年前の手術当時のMRI画像などを知合いの同院勤務の放射線科の医師の協力を得て探し出し、早速添付して送った。弟さんがこれらを更にオランダの遺体確認の専門家チームへ回してくれたのである。また弟さんの依頼で、Matthew君一家が昔Baselでかかっていた歯科医師をなんとかして見つけ出し、彼らの歯に関する資料提供を頼むつもりでいたところ、これは父親の当時の勤務先であった製薬会社が健康保険会社を通して探し出してくれた。歯に関する記録資料はしかし両親二人の情報しかなくMatthew君のは存在しなかったので、いよいよ増して上記の開頭手術のときの資料が身元確認に役立つようにと願った。

   やがて三人の中では一番にMatthew君の父親の遺体が確認されたという知らせを弟さんからもらった。続いて墜落から約1か月少々過ぎた822日。マレーシア人犠牲者43人の内20人が故国に悲しみの帰国となった。この20人の人々の名前のリストはマレーシアの新聞に発表されたので、家内がインターネットで探してみるとMatthew君の両親お二人ともの名前が見つかったのである。しかしMatthew君の遺体だけは依然として見つからなかった。弟さんは、多くの人々に愛されていた兄夫婦の葬儀の様子を詳しくレポートした新聞記事をメールに添付して送ってくれた。 ‘Heavens cry‘ at funeralというタイトルのその記事によると、葬儀の当日は、まるで天も悲しんで泣いているかのような篠突く雨だったそうである。そんな中、約300人もの親戚や友人たちがお別れの為に教会に集まったということだった。スピーチでは、このファミリーが大変親密で仲が良かったこと、このご夫婦にとって息子のMatthew君がどれだけかけがえのない大切な存在であったか、彼らはMatthew君のためにすべてをささげていた、ということが話されたと書いてあった。その後相変わらずMatthew君の遺体は確認されず、墜落現場の混乱した状況が状況だけに大変気をもんでいたのだが、922日、遂に弟さんから「Matthew君の遺体確認」のほっとするニュースが届いた。MH17便撃墜の日から何と2か月以上も経過しての確認である。この長期間、遺体確認作業に忍耐強く取り組み、たゆまぬ尽力をしてくれていたオランダのチームには深い感謝と敬意を表したいと思う。弟さんは9歳の甥の遺体をオランダのハーグまで引取りに行くことになっていて、現在待機中とのことであった。やっと最愛の両親のもとに帰り、一緒に故郷で安らかに眠れることになったMatthew君に、よかったねと心でささやいた。しかし、何の罪もない、まだまだ将来のある少年のかけがえのない命が突然奪われたことには本当に強い憤りを感じる。Matthew君ファミリーのご冥福を家内と共に心からお祈りする次第である。

 

20141125日 記

米川 泰弘


Dolceaqua

mimosa

perinaldo


 近況            渡辺 泰猛

昭和49年現在の生まれ育った地に開業し、分娩を主として開業を続けておりましたが、平成12年分娩を中止しました。以来、現在迄外来診療のみをを続けております。この地区の開業医の習わしとして、「死ぬまで聴診器を握り、握れなくなったら開業医は終わり」、が普通の生き方です。家内は、これは呆け防止にもなるので、一生涯患者さんと話を続けた方が良いと言いますが、その通りかも知れません。

地区教育委員や、地区医師会雑務を色々とさせられましたが、今地区医師会監事のみとなりました。これもぼつぼつ卒業させてもらおうかと思っております。

さて、平成12年分娩を止めた途端、時間に余裕が出来、休診日を作ったりして、家内と2人で東京(新宿)の英会話教室に通いました。NOBA(入校6ヶ月後に倒産)→イーオン→GABAと渡り歩きました。

これで少しだけ自信(?)を持ち、平成24.4/66日間のサンフランシスコ、8/307日間のニューヨーク、平成25.6/128日間のロンドンへの独り旅をしました。

私は何時も同じホテルに滞在し、そこからあちこちに出掛けることにしております。サンフランシスコからシリコンバレーへ、ニューヨークからワシントンDCへ、ロンドンからスコットランドのエジンバラ等へも日帰り旅行をしました。

家内には一緒にと勧めたのですが、都合が悪く私の独り旅となりました。

またこれからも何処かへと思っておりますが、なかなか機会がつかめずにいます。         

昨年長男(産婦人科医)が帰って来て、今一緒にやっております。しかし診療レベルが違い過ぎて驚かされております。気持ちだけは手伝わなければと思っていますが、レベルの差で何も出来ないでいます。

今の所、これと言った病気もなく、薬のご厄介にもなっておりませんが、何時,何が起こるか判りません。その予防として、極力歩く様に努めております。日曜日・祭日、時に水曜日にはゴルフに行くようにしております(カートには乗らず歩いています)。近くにはゴルフ場がたくさんありますが、通常は自宅から車で1015分の冨士桜C.C.か冨士レイクサイドC.C.に行きます。冬場(12月半ば〜3月半ば)は当地のゴルフ場はクローズになりますので、自宅から40分かかる静岡県の朝霧ジャンボリーゴルフクラブに通っています。此処では冬場はお客さんが少ないのでメンバー並の待遇を受けます。

地区医師会では、年4回のゴルフコンペが、上記冨士桜C.C.で行われます。いつもブービーメーカー争いをしているシニア三羽烏(?)の1人なので、今年こそはここから脱したいと願っています。

これからは家内や孫達と一緒に旅行をしたいと思っています。

昨年(3/22)の熱海MOA美術館、本年(1/2)の家族での回転寿司、本年(1/11)の朝霧ジャンボリーゴルフクラブ(中1の孫と)の写真を添えます。

3月の例会でお会いするのを楽しみにしております。